
「シャルル・ボードレールの墓」の第2詩節の冒頭では、ガス灯に言及される。その後、ガス灯の光が照らし出すある存在にスポットライトが当たる。それをマラルメは「一つの永遠の恥骨(un immortel pubis)」と呼ぶ。
その二つの言葉の組み合わせは、ボードレールの詩的世界では、パリの街角に立つ娼婦を連想させる。
実際、「夕べの黄昏(Le Crépuscule du soir)」には、次のような一節がある。
À travers les lueurs que tourmente le vent
La Prostitution s’allume dans les rues ;
Comme une fourmilière elle ouvre ses issues ;
Partout elle se fraye un occulte chemin, (…).
風が苦しめる街灯の光を通して、
「売春」が、あらゆる道で火を灯す。
蟻塚(ありづか)のように、出口を開ける。
至るところで、隠された道を作る。(後略)
(参照:ボードレール 夕べの黄昏 (韻文詩) Baudelaire Le Crépuscule du soir 闇のパリを詩で描く)
マラルメは、こうしたボードレールの世界を参照しながら、以下の4行詩を書いたに違いない。
Ou que le gaz récent torde la mèche louche
Essuyeuse on le sait des opprobres subis
Il allume hagard un immortel pubis
Dont le vol selon le réverbère découche
最近のガスが ねじるのであれば いかがわしい灯心を
誰もが知るように 蒙った不名誉の数々を 拭う灯心を
ガスが獰猛に火を点す 不滅の恥骨に
恥骨の飛翔は 街灯に従い 外泊する

que le gaz récent の後の動詞 torde が接続法現在で活用されているため、最初の2行は仮定、条件、願望などを示す。従って、que le gaz torde la mèche は、「ガスが灯心をねじる(曲げる)ような状態になれば」といった意味だと解釈できる。
その状況を具体的に考えれば、ガス灯に火が灯り、その火が風に揺れて曲がっている状態が浮かび上がってくる。もし火が灯っていなければ、風が吹いても灯心が揺れていることなど誰も気付かない。つまり、灯心が曲がるということは、火が灯っていることが前提になる。
そして、点灯していることが前提となり、後半の2行で暗示されるように、ガス灯の光が恥骨(pubis)つまり娼婦を照らすことになる。
街灯の下に立つ娼婦たちは、男たちを誘い、夜の闇の中に消えていく。飛翔が外泊する(le vol découche)という表現は、そうした状況をイメージさせる。
このように4行の詩句を読み説くと、ボードレールが「夕べの黄昏」の中で描き出した、風に揺れる街灯の光の下で「売春」が灯り、至る所に密かな道を作り出すパリ情景と対応することがわかる。
そのことを前提とした上で、マラルメは自らの表現法でボードレール的世界を再現する。
ボードレールが明確に「売春(la Prostitution)」と書いていたのに対して、マラルメは、いかがわしい(louche)、不名誉なこと(opprobres)、恥骨(pubis)、外泊する(découche)といった間接的な表現で暗示する。
風が苦しめる街灯の光(les lueurs que tourmente le vent)は、ガスが灯心をねじる(le gaz torde la mèche)。マラルメは風に言及せずに灯心を曲げる。
至るところで隠された道を作る(Partout elle se fraye un occulte chemin)と対応するのは、恥骨の飛翔は街灯に従い外泊する(le vol (du pubis) selon le réverbère découche)。マラルメの詩句からは具体性が抜き取られている。

マラルメが、ボードレールへのオマージュとして、パリの街娼を選択した理由は何だろう?
『悪の華』の「パリ生活情景」詩篇の中心的なテーマは19世紀半ばを過ぎて急激に変貌しつつあるパリであり、最近のガス灯(le gaz récent)という表現はボードレールの描いたパリを指し示している。
他方、娼婦はその一部ではあっても、決して近代のパリに特有な存在ではない。そうした中で、ボードレールが「売春」を取り上げる時には、以下に挙げる3つの主題と関係する。
(1)惨めな現実
売春婦たちは、華やかなパリの裏に隠された悲惨な現実を象徴する存在の一つ。それなりに着飾っているとしても、年老いたらさらに惨めな存在になっていく。
そんな姿が描かれるのが、「小さな老婆たち(Les Petites Vieilles)」。

Ces monstres disloqués furent jadis des femmes,
Éponine ou Laïs ! Monstres brisés, bossus
Ou tordus, aimons-les ! ce sont encor des âmes.
その不格好な怪物たちは、かつては女だった。
エポニーヌだったかも、ライスだったかもしれない! 折れ曲がり、せむしで、
ねじ曲がった怪物たちを、愛そう! まだ魂を持った人間なのだ。
(参照:ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 2/5)
腰が曲がり、ボロボロの服を着た老婆たちも、若い頃は、エポニーヌのように貞節な妻だったかもしれないし、ライスという名前の売春婦だったかもしれない。しかし、いずれにしても、今は怪物と呼ばれる惨めな姿を晒している。
それほど、近代化しつつあるパリの中で、場末では悲惨な状況が広がっていた。その代表として、売春婦たちも含まれていたことが、「小さな老婆たち」ではライスという名前に込められている。
ボードレールは、そうした醜いパリの側面をえぐり出し、そこから美を生み出した。それがモデルニテと呼ばれる美学であり、彼は「美とは人を驚かせるもの」だと繰り返した。
(2)群衆とモデルニテの美学

ボードレールはモデルニテの美学を売春と関係させた。
散文詩「群衆(Les Foules)」の中では、「魂の聖なる売春」という言葉が使われ、ボードレールが提唱する近代的な美と関連付けられている。
フランスでは18世紀後半のフランス革命の後、急激に産業化が進み、パリには大量の人々が流入した。
そうした中で、自分の住む場所が「知り合いの町」から「未知の人々の都市」へと変化し、一人一人が「特定の名前を持った個人」から「不特定多数で匿名の存在」にすぎなくなる。その結果、街中に大量の人々が溢れている一方で、個人は孤独の中に閉じこもる状態が生まれた。
ボードレールはそうした状況を背景にして、新しい時代の美を探究し、「現代生活の画家(Le Peintre de la vie moderne)」と題した美術批評の中では、次のように表現した。
Le beau est fait d’un élément éternel, invariable, dont la quantité est excessivement difficile à déterminer, et d’un élément relatif, circonstanciel, qui sera, si l’on veut, tour à tour ou tout ensemble, l’époque, la mode, la morale, la passion.
美を構成する要素の一つは、永遠で不変なもの。その数量を決定することは極度に難しい。もう一つの要素は相対的で、状況に依存するもの。もしこう言ってよければ、代わる代わるに、あるいは一体化して、時代、流行、道徳、情熱になることがあるだろう。
(参照:ボードレール 「現代生活の画家」 Baudelaire Le Peintre de la vie moderne モデルニテについて — 生(Vie)の美学)
「束の間に過ぎ去るもの(transitoire)」と「永遠なもの(éternel)」という二つの側面を持つ美。そうした美を捉える場として選ばれたのが、変貌を続けるパリであり、街頭にひしめく群衆だった。
彼らの姿は19世紀後半における現代生活(la vie moderne)を象徴するものであり、彼らを描くことで「過ぎ去るもの」「相対的なもの」「状況に依存するもの」を捉えることになる。
では、「束の間に過ぎ去るもの」から「永遠」をどのように導き出すのか?

散文詩「群衆(Les Foules)」は、その疑問に答えるヒントを与えてくれる。
「不特定多数で匿名の存在」である群衆の中で、一人一人は孤立し特定の関係を持たない。
だからこそ、「群衆」は、「多数の人々の集団の中につかることが誰にでも許されているわけではない。群衆を楽しむには技術がいる。」という言葉から始まる。群衆の中で美を感知し表現するには、アートが必要なのだ。
孤独な人間がパリの町を歩き回り、群衆の中に紛れ込む。その際、個として留まるのではなく、個の意識を消失して集団に完全に一体化することが、熱を帯びた喜び=忘我的恍惚(エクスターズ)を生み出すことにつながる。
Le promeneur solitaire et pensif tire une singulière ivresse de cette universelle communion. Celui-là qui épouse facilement la foule connaît des jouissances fiévreuses, dont seront éternellement privés l’égoïste, fermé comme un coffre, et le paresseux, interné comme un mollusque.
思慮深く孤独な散歩者は、この普遍的な一体化から独特な陶酔を引き出す。彼は、群衆と容易に結び付き、熱を帯びた歓喜を知る。金庫に閉じこもるエゴイストや貝のように監禁された怠惰な男からは、そうした喜びが永遠に奪われている。
(参照:ボードレール 群衆 Baudelaire « Les Foules » 都市 群衆 モデルニテの美)
孤独な散歩者が個の意識を保ち続ける限り、熱を帯びた喜びを感じることはできない。自分の閉じこもる金庫や貝殻から自らを引き出し、不特定多数の集団に身を委ねる。その時、普遍的な一体化(cette universelle communion)が実現し、独特な陶酔(une singulière ivresse)が生まれる。
その行為は、特定の関係を持たない客に、その場その場で身を委ねる売春と並行関係にある。違いがあるとしたら金銭のやり取りの有無。しかし、それは本質ではなく、本質は身体ではなく魂の問題であること。
そこで、ボードレールは「普遍的な一体化」を「魂の聖なる売春」という表現に置き換える。
Ce que les hommes nomment amour est bien petit, bien restreint et bien faible, comparé à cette ineffable orgie, à cette sainte prostitution de l’âme qui se donne tout entière, poésie et charité, à l’imprévu qui se montre, à l’inconnu qui passe.
一般に愛と名付けられるものは、えも言われぬ酒宴や魂の聖なる売春に比較すると、非常に小さく、限定的で、弱々しい。その魂が、詩として、慈愛として、自らを全て与えるのは、さっと姿を現す予期できぬもの、通り過ぎる見知らぬものにだ。(同上)
普通に愛(amour)と呼ばれる感情は、特別な関係も持つ他者に向けられる。そのために持続性があるとしても、しかし、時間の経過とともに変質する。愛が、相対的に小さく、限定的で、弱々しいのはそのためだ。
それに対して、非人称的な存在と一体化する聖なる売春では、個別的な関係がなく、全ては一瞬のうちに消えていく。だからこそ、魂は、その時その時に出現する予期しないもの、一瞬のうちに消えていく見知らぬものに没入する。
そして、その一瞬は時間のうちになく、時間の基準で測ることはできない。その意味で、「永遠」に属する。

その具体的なイメージとしては、群衆の中に一瞬垣間見える女性。もう2度と見ることのできないその姿に「束の間でありながら永遠の美」を見出す。
「通り過ぎた女(ひと)へ」は、そうしたモデルニテの美をもっとも端的に描き出した韻文詩である。(参照:ボードレール 「通り過ぎた女(ひと)へ」 Baudelaire « À une passante » 儚さと永遠と)
結局、ボードレールにおける売春とは、「普遍的な一体化」を暗示する一つの表現であり、モデルニテの美学の一端を形成しているといえる。
(3)売文
売春が暗示する3つ目の意味は、「売文」。
文学者も創作物を金銭と交換する。娼婦も詩人も、金で買われる存在である点で共通している。
ボードレールは青春時代の書いた詩の中で、「ぼくは思考を売り、著者になりたい(Moi qui vends ma pensée, et qui veux être auteur)」と書いたことがあった。

「身を売るミューズ(La Muse vénale)」で、詩人はミューズにこう語り掛ける。
Il te faut, pour gagner ton pain de chaque soir,
Comme un enfant de choeur, jouer de l’encensoir,
Chanter des Te Deum auxquels tu ne crois guère,
Ou, saltimbanque à jeun, étaler tes appas
Et ton rire trempé de pleurs qu’on ne voit pas,
Pour faire épanouir la rate du vulgaire.
お前は、毎晩のパンを手に入れるため、
コーラス隊の子供のように、香炉を振り、
「テ・デウム(神であるあなたを讃えん)」を歌わなければならない。信じてもいないのに。
あるいは、飢えた大道芸人として、晒さなければならない、色気と
笑いを、人には見えない涙に濡れた笑いだ、
俗っぽい民衆の笑いをはじけさせるために。
(ボードレール「身を売るミューズ」)
詩人にインスピレーションを吹き込む詩のミューズが、ここでは身を売りパン代を稼ぐ娼婦として表現されている。そして、彼女は大道芸人(saltimbanque)でもある。
大道芸人は詩人でもある。そのことは、「年老いた道化師(Le Vieux saltinmanque)」によって明確に示されている。道化師を描いた後、ボードレールは次のように言う。
Je viens de voir l’image du vieil homme de lettres (…) ; du vieux poëte sans amis, sans famille, sans enfants, dégradé par sa misère et par l’ingratitude publique, et dans la baraque de qui le monde oublieux ne veut plus entrer !
私は年老いた文学者の姿を見たのだった。(中略) 友も、家族も、子供もない年寄りの詩人。悲惨さと民衆の忘恩のために落ちぶれ、あばら屋の中にいる。忘れっぽい人々はもうそんな小屋の中に入ろうともしない。
(ボードレール「年老いた道化師(Le Vieux saltinbanque)」)

こうしてボードレールの世界では、売春、大道芸、詩が連結される。売春婦は体を売り、道化師は芸を売り、詩人は思考の結晶である詩を売る。全てvénalな(身を売る)職業なのだ。
マラルメはというと、詩人と売春婦を連結させることはなかったようだが、詩人と道化師を重ね合わせたことはある。
1864年頃に書かれたと推定される「罰せられた道化師(Le Pitre chatié)」の最初の原稿の中で、詩人はミューズの道化師であるとされ、しかも、あばら屋が住み処として与えられている。

J’ai, Muse, – moi, ton pitre, – enjambé la fenêtre
Et fui notre baraque où fument tes quinquets.
私は、ミューズよ、— 私はお前の道化師、— 窓を踏み越え
二人のあばら屋を逃げ出した。お前のケンケ灯の煙がくすぶるあばら屋を。
(マラルメ「罰せられた道化師」原稿)
あばら屋(la baraque)の存在は、詩人と道化師が同一であることの起源として、ボードレールの「年老いた道化師」があることを示している。
売春に関する3つの主題の中で、「シャルル・ボードレールの墓」の第2詩節では、どの部分に焦点が当てられているのだろう?
前半の2行では、louche(いかがわしい)やopprobres(不名誉な行為、恥辱)という言葉が用いられ、現実生活の中での悲惨な状況が呼び起こされる。
Ou que le gaz récent torde la mèche louche
Essuyeuse on le sait des opprobres subis
最近のガスが ねじるのであれば いかがわしい灯心を
誰もが知るように 蒙った不名誉の数々を 拭う灯心を
灯心がねじれているのが見えるとしたら、ガス灯が点灯されているから。その下には売春婦たちが姿を現す。
もし灯心(la mèche)が彼女たちの蒙った恥辱を拭ってくれる(essuyer)としたら、そこには、哀れな女たちの行為を灯心が引き受け、洗い流してほしいといった期待が込められている。
そのことは、逆説的に、「惨めな現実」がどれほど厳しいものかをますます強く訴えかけることになる。
後半の2行の核になるのは、immortel(不死の、不滅の)とdécouche(外泊する)という言葉。
Il allume hagard un immortel pubis
Dont le vol selon le réverbère découche
ガスが獰猛に火を点す 不滅の恥骨に
恥骨の飛翔は 街灯に従い 外泊する
外泊するとは、本来の場所でないところで寝るということであり、売春婦たちは不特定の人間たちを相手にし、un pubis(恥骨)を金銭に換えるといってもいい。
そのことは、詩人であれば、思考の結実である詩を金銭と交換すること。つまり、「売文」になる。
ただし、マラルメはpubisをimmortelなものだとする。
その意味は、売春が人類の歴史の中で常に行われてきたという事実を指すのではなく、ボードレールにおいて、詩が売り物として扱われるとしても、その本質は時間の経過とともに失われるものではなく、不滅であることを暗示している。
文法的には正しくない場所に置かれた hagard は、獰猛なといった意味の形容詞だが、本来的には、捕獲された鷹が時間をかけても飼い慣らされない状態を指し示している。その意味でマラルメの詩句を読むと、pubisはいくらdécoucheしても決して飼い慣らされることなく、本来の性質を保ち続け(hagard)、だからこそimmortelなのだといえる。
結局、この2行の詩句には、ボードレールの死後、詩が読まれ続け一般化するなかでも、決して本来の意義を失うことはないという含意が込められている。

「シャルル・ボードレールの墓」の2つの四行詩は、マラルメによる、ボードレールの詩的世界の紹介として読むことができる。
第1詩節では、錬金術的な変容がボードレールの詩法の根底にあることが示された。
第2詩節では、売春にテーマが絞られ、ボードレールの詩が屈辱的な扱いを受けようとも、人々に手なずけられることなく永遠であり続けることが暗示された。
その後、2つの三行詩に移行すると、マラルメの詩句は奉納(votif)になり、未来を念頭においた祈りが捧げられる。