「通り過ぎた女(ひと)へ」の中で、詩人は、雑踏の中ですれ違った女性を思い返し、もう二度と会うことはないであろう彼女に向けて呼びかける。

その女性が象徴するのは、一瞬のうちに通り過ぎる、儚く、束の間の美。一瞬の雷光。
同時に、その美は心の中に刻まれ、決して消えることはない。それは、永遠に留まる神秘的な美。
こうした、一瞬で消え去りながら、同時に永遠に留まるという美の二重性を、ボードレールはモデルニテ(現代性)の美と呼び、その典型をコンスタンタン・ギースの絵画に見出した。
「通り過ぎた女(ひと)へ」は、モデルニテ美学のエンブレムとなる、十四行のソネット。
最初の4行詩は、大都市の喧噪と、雑踏の中で一瞬の間かいま見た女性を描き出す。
La rue assourdissante autour de moi hurlait.
Longue, mince, en grand deuil, douleur majestueuse,
Une femme passa, d’une main fastueuse
Soulevant, balançant le feston et l’ourlet ;
その通りは、耳をつんざくような音を立て、私の周りで叫んでいた。
長ひょろく、細身、ひどく悲しげで、堂々とした苦痛そのものである
一人の女(ひと)が、通り過ぎた。これみよがしの手つきで、
服の花綱の飾りと縁飾りを持ち上げては、揺らしながら。
18世紀後半のフランス革命以来、フランスでも産業革命が進み、近代化の波が押し寄せた。

パリの人口もおよそ50万人から100万人に膨れ上がったと言われ、人で溢れるようになる。田舎であれば、誰もが知り合いで、すれ違えば挨拶を交わしただろう。しかし、パリでは雑踏の中で、見知らぬ人々といり混ざり、非人称の集団が騒音を生みだした。
そうした様子は、マルセル・カルネの映画「天井桟敷の人々」の中で巧みに描かれている。
ボードレールは、通り(la rue)を主語にし、叫ぶ(hurler)という動詞によって、雑踏があたかも生き物であり、主体的に叫び声を発しているという印象を生みだす。
その喧噪の中を、一人の女性が通り過ぎた。
動詞の時制は単純過去(passa)。
その出来事は、今とは切り離された、過去の歴史的な事件として提示されていることがわかる。
(従って、題名の une passante は、「通り過ぎる女」ではなく、「通り過ぎた女」の方が相応しい。)
悲しげで、苦痛に満ちた様子である一方、服をこれみよがしになびかせている姿は、ボードレールの時代の都市の姿でもあり、その時代の象徴とも考えられる。
パリという華やかな都市に住む人々。しかし多くは労働者であり、売春婦や悪漢も多い。通りを歩く群衆は非人称の集団にすぎず、全てがその場その場で過ぎ去っていく。
二つ目の4行詩で、ボードレールはこれまでの詩法に対して反乱を起こす。
伝統的な規則では、形式と意味は対応し、一つの詩節の中で意味も完結することが求められていた。
それに対して、ボードレールは、次の詩節の最初に、通り過ぎた女性に関する描写を付け加え、その後、「私」の行動に話題を移す。
Agile et noble, avec sa jambe de statue.
Moi, je buvais, crispé comme un extravagant,
Dans son œil, ciel livide où germe l’ouragan,
La douceur qui fascine et le plaisir qui tue.
敏捷で、高貴。彫刻のような足をしている。
私はと言えば、私は飲んでいた、突拍子もない男のように身体を硬くして、
彼女の目、嵐が発生しつつある鉛色の空のような目、
その目の中に、人を魅了する穏やかさと、人を殺す喜びとを。

女性の描写の中で、敏捷性と高貴さが取り上げられるが、高貴さの様子を具体化するかのように、彫刻の足(jambe de statue)という詩句が付け加えられている。
そのことによって、敏捷性という動きと彫刻の不動性が「そして(et)」によって結ばれ、瞬間性と永遠性の関係が暗示されていると、読み説くこともできる。
次に、話題は「私」に移る。
「私」の行為は飲む(buvais)こと。
飲む対象は、穏やかさと喜び。
動詞と目的語の間には一行半の間隔が空けられ、その間に、「私」の様子の描写と、対象を飲む場所が示される。
「私」は突拍子もない男(un extravagant)に例えられる。つまり、理性に反する、奇妙な振る舞いをする人間。
彼女の目は、空に例えられ、そこには嵐が発生しようとしている。
その比喩は、彼女の瞳の中をのぞき込みむと、そこに吸い込まれそうになるという、喜びと恐怖が入り交じった気持ちを感じさせる。
嵐はまだ吹き荒れているわけではなく、できはじめたところ。だからこそ、その空には生成の起源があり、無限を秘蔵していると感じる。
目=空の中で「私」が飲むのは、穏やかさ(la douceur)と喜び(le plaisir)。
穏やかさは人を魅了するということはすんなりと理解できる。
他方、喜びが人を殺すとは、どういうことだろう。死は人をこの世=現実世界から、死から死後の世界へと導く。従って、人工楽園を出現させる酒や大麻などがもたらす喜び、と読み取ることができるだろう。
群衆の中で偶然すれ違い、通り過ぎていった女性。彼女の目を一瞬のぞき込んだ「私」は、そこに永遠を見た。その時、儚く消え去る美が、永遠の様相を纏うことになる。
第2詩節の3行の詩句は、一瞬の美が永遠でもありうるシステムを密かに明かしていると読み説くことも可能である。

Un éclair… puis la nuit ! — Fugitive beauté
Dont le regard m’a fait soudainement renaître,
Ne te verrai-je plus que dans l’éternité ?
Ailleurs, bien loin d’ici ! trop tard ! jamais peut-être !
Car j’ignore où tu fuis, tu ne sais où je vais,
Ô toi que j’eusse aimée, ô toi qui le savais !
一瞬の閃光。。。次に、夜!ーー逃げ去る美よ、
その視線が、突然、私を甦らせた。
私はもうあなたを、永遠の中でしか見ないのだろうか?
あちら、ここからとても遠いところで!遅すぎる!決して会えない、たぶん。
なぜって、私はあなたがどこに逃げていくのか知らない。あなたは私がどこに行くのか知らない。
ああ、あなたを私は愛したかもしれない、あなたはそれを知っていた!

最初の3行詩の最初の詩句は、3つの名詞だけで構成され、3/3/6の音が、スタッカートに続けられ、瞬間性を音によって感じさせる。まさに、「美(beauté)」を形容する「逃げ去る(fugitive)」感覚を、言葉そのものが表現しているといえる。
では、美(女)の視線が「私」を甦らせるとは、どういうことだろう。
甦る(renaître)前提には、死がある。
瞬間と瞬間は連続しているとしても、もし瞬間自体がその都度消え去るものであるとしたら、人は一瞬毎に生まれ、死んでいることになる。
消え去っていく美は、従って、消滅だけではなく、出現も含んでいる。
詩人は、一瞬だけ垣間見た束の間の美に会えるとしたら、それは永遠の中でだけだろうかと問いかける。
そして、次の3行詩の冒頭で、自らその問いに答える。
その答えは、最初の3行詩の第1詩句(Un éclair… puis la nuit ! — Fugitive beauté)以上に、瞬間性を強く感じさせる。
以前は3つの名詞の連続だった。今度は、4つの副詞の連続。一行の詩句がより細分化され、スピード感が増す。
しかも、名詞よりも自立性が低い副詞によって、儚さがより強く感じられる。
意味的には、詩句の前半が空間、後半が時間に関係する。
美をいつか見ることができるとしたら、ここではないところ。しかし、常に遅すぎる。見えたと思った瞬間、美は消え去っている。従って、決して見ることができないといった方がいいくらい。そんな気持ちが、最後の「たぶん(peut-être)」に含まれているのではないだろうか。
美と「私」は一瞬すれ違い、もう二度と出会うことはないかもしれない。
それは決して、美を求めないということではない。詩人は常に美を愛し、求め続けている。
その美は、古代ギリシアの彫刻のような普遍的な美ではなく、時間と共に過ぎ去り、移りゆく美。

ボードレールは、「美」の中では、古代ギリシアの彫刻のように、不動で、普遍的な美を崇めた。
Je suis belle, ô mortels ! comme un rêve de pierre (« La Beauté »)
私は美しい、おお、人間どもよ! 石の夢のように。
https://bohemegalante.com/2019/02/24/baudelaire-la-beaute/

「通り過ぎた女(ひと)へ」で彼が歌うのは、不動の美ではなく、移りゆく美。
彫像は、彼女の足(sa jambe de statue)だけになっている。
もうその美は通り過ぎてしまった。
そこで、彼が自問するのは、永遠(l’éternité)の中で見ることがあるのかどうか。その永遠は、空間的などこかにあるわけでもなく、時間の中に位置づけられることもない。それは美と一瞬すれ違ったその瞬間にしかない。「一人の女(ひと)が通り過ぎた。(Une femme passa.)」永遠が存在するとしたら、まさにこの瞬間。
ボードレールは、画家コンスタン・ギースに捧げた「現代生活の画家」という美術論の中で、モデルニテの美を定義した。その美は二つの側面を持ち、一方は「過渡的、束の間、偶発的(le transitoire, le fugitif, le contingent)」、もう一方は「永遠、不動(l’éternel, l’immuable)」だとする。

この二つの側面は決して対立するものではない。
ボードレールの発見は、束の間の瞬間が永遠でもあり、永遠が瞬間でもあるという、二元論を超えた美を見出したことにある。
フランス語での解説。本質を掴んでいるとはいえないが、一般的なこの詩の理解を知るのには役に立つ。また、使われている絵画の趣味がいい。
セルジュ・レギアニの朗読には、いつもうっとりとするしかない。
レオ・フェレの歌。
「ボードレール 「通り過ぎた女(ひと)へ」 Baudelaire « À une passante » 儚さと永遠と」への2件のフィードバック