ボードレール 群衆 Baudelaire « Les Foules » 都市 群衆 モデルニテの美

Edouard Manet, La Musique aux Tuileries

ある時代に当たり前だったことが、ある時から当たり前ではなくなることがある。そして、新しい当たり前が出来上がると、前の時代に当たり前だったことが何か忘れられてしまう。

現代の都市に住む私たちにとって、隣人さえ知らないことがあり、同じ町内の人を知らないなど当たり前すぎる。町内の人をみんな知っている方が驚きだ。

では、小さな村に住んでいるとしたら、どうだろう。今でもみんな知り合いで、会えば必ず挨拶する。一言二言言葉を交わし、家族のことを聞いたりするかもしれない。人間的な触れあいのあるコミュニティ。暖かくもあれば、鬱陶しくもある。
その中に知らない人間が入ってくれば、異邦人であり、侵入者と見なされる。未知は恐怖の対象になる。

Honoré Daumier, Les Trains de plaisir

フランスでは18世紀末の大革命の後、急激に産業化が進み、都市に大量の人々が流入した。パリでは人口が50万人から100万人に倍増したといわれている。

そうした中で、「当たり前」の大変革が起こった。
自分の住む場所が、「知り合いの町」から「未知の人々の都市」へと変化し、一人一人が「特定の名前を持った個人」から「不特定多数で匿名の存在」にすぎなくなる。

21世紀には当たり前の匿名性が、19世紀前半から半ばにかけては驚くべきことだった。だからこそ、作家や画家たちは、新しい事態に直面し、驚き、作品のテーマとした。
ホフマン、バルザック、トマス・ド・クインシー、エドガー・ポー、ドーミエ、コンスタンタン・ギーズ等々。

1861年、シャルル・ボードレールも、彼らに倣い、パリという大都市にうごめく人々を、「群衆(Les Foules)」のテーマとして取り上げた。群衆という言葉自体、非人称で誰とは同定できない、不特定多数の人間の集合体を指す。
ボードレールはパリの町を歩き回り、群衆の中に紛れ込む。

Les Foules

 Il n’est pas donné à chacun de prendre un bain de multitude : jouir de la foule est un art ; et celui-là seul peut faire, aux dépens du genre humain, une ribote de vitalité, à qui une fée a insufflé dans son berceau le goût du travestissement et du masque, la haine du domicile et la passion du voyage.

 「群衆」

 多人数の入浴が、誰にでも許されているわけではない。群衆を楽しむには技術がいる。あそこの彼だけが、人類全体を犠牲にして、生命力を過剰に飲み食いすることができるのだ。彼に、一人の妖精が、揺り籠の中で、変装と仮面に対する愛好、住居に対する嫌悪、旅行への情熱を吹き込んだのだった。

「多人数の入浴をする(prendre une bain de multitude)」とは、町を歩き、群衆の中に入り込むこと。
映画『天井桟敷の人々』には当時のパリの様子が再現されていて、人々の群がる様子を実感することができる。

ボードレールはそうした群衆に巨大な生命のエネルギーを感じ取る。一人一人の人間の命の集合というよりも、群衆が一つの生命体となり、エネルギーを発散する。
そうした感覚は、19世紀半ばにおいて、まったく新しいものだったはずである。

誰もが群衆のエネルギーを感じ取り、吸収できるわけではない。吸収するためには「技術(art)」が必要なのだ。
その技術は特権的なものであり、ある特別な人間、生まれた時に妖精から特別の贈り物を授かった人間の特権だと、詩人は言う。アートを持った人間、つまりアーティストの特権。

群衆を楽しむことができるアーティストには、3つの性向がある。
1)変装と仮面の趣味。彼は、一つのアイデンティティに留まるのではなく、自分のいくつもの側面を自分自身として受け入れ、その変化を好む。
2)住まいに関しても同様。一つのところに留まるのではなく、しばしば引っ越しをする。
3)旅行を愛する。これも、変化、移動を好む表れといえる。

こうした性向は、特定の意図を持たず、予見不可能で、しかも一度動き出すと制御できない群衆のうごめきを、個人の特質として表現したものと考えることができる。

 Multitude, solitude : termes égaux et convertibles pour le poète actif et fécond. Qui ne sait pas peupler sa solitude, ne sait pas non plus être seul dans une foule affairée.

 多人数、孤独。活動的で肥沃な詩人にとっては、同等で交換可能な言葉。自分の孤独を人々で満たすことができない者は、忙しい群衆の中で一人でいることもできない。

群衆と孤独は一見すると対立する事態のように思われる。しかし、ボードレールが言うように、非人称の人々の中で人間は孤独を感じる。周りに人がいればいるほど、孤独感が深まることもある。

新しい世界、つまり人と人のつながりが失われた世界では、一人でいようと、多数の人間に囲まれていようと、人間のあり方に変わりはない。

このことは、私たちが一人でいる時のことを考えてみるとよく理解できる。たとえ一人だとしても、意識の中に必ずといっていいほど、誰かのイメージが浮かんでくる。いい関係もあれば、悪い関係もある。
その意識に従って、孤独に感じたり、人との繋がりを感じたりもする。

 Le poète jouit de cet incomparable privilège, qu’il peut à sa guise être lui-même et autrui. Comme ces âmes errantes qui cherchent un corps, il entre, quand il veut, dans le personnage de chacun. Pour lui seul, tout est vacant ; et si de certaines places paraissent lui être fermées, c’est qu’à ses yeux elles ne valent pas la peine d’être visitées.

 詩人は、その比類なき特権を享受する。思いのままに、自分自身であることも、他人であることもできる。さまよえる魂たちが肉体を探すように、詩人は、望む時に、ある人の中に入り込む。彼にとってだけは、全てが空なのだ。閉ざされているように思える場所があるとしたら、彼の眼には、訪れる価値がないように見えるからだ。

ここでボードレールは、詩人の特権は他者であることができることだ考えている。
非人称であり、匿名だからこそ、他者の中に容易に入り込むことができる。一つの肉体に留まるのではなく、思いのままに、別の肉体の中に入り込む。

容易に自己を変える性質は、分裂気質と考えられるかもしれないが、一箇所に固執しないことは自己を柔軟に保つ秘訣でもある。

役割論で考えみよう。
私たちは、一人で様々の役割をこなしている。両親に対しては子ども、学校に行けば生徒、あるいは教師。歩いているときは歩行者。買い物にいけば客。何かを売れば売り手。意図的に自分を装っているわけではなく、その場その場で自然に役割をこなしている。そして、どれもが偽りではなく、自分自身なのだ。
本当の自分などというものはどこにもないし、逆に、それら全ての自分が本当の自分だともいえる。

Alexandre-Gabriel Decamps, Singe au miroir

ボードレールは、その役割を自分に限らず、他者にまで広げる。
一人でいるとき、今まで話していた人間の余韻がまだ残っているとする。その他者は、私のイメージであって、私の投影とも考えられる。としたら、私の一つの側面でもある。

そのように考えると、私たちは、関係する全ての人間を自分の中で再現し、他者の姿を通して自分と対話しているともいえる。

後で思い出しもしない人間は、自分にとって価値がない。詩人の言葉に従えば、「場所が閉ざされていて、訪れる価値がない」人間ということになる。

 Le promeneur solitaire et pensif tire une singulière ivresse de cette universelle communion. Celui-là qui épouse facilement la foule connaît des jouissances fiévreuses, dont seront éternellement privés l’égoïste, fermé comme un coffre, et le paresseux, interné comme un mollusque. Il adopte comme siennes toutes les professions, toutes les joies et toutes les misères que la circonstance lui présente.

 思慮深く孤独な散歩者は、この総合的な一体化から独特な陶酔を引き出す。彼は、群衆と容易に結び付き、熱を帯びた歓喜を知る。金庫に閉じこもるエゴイストや貝のように監禁された怠惰な男からは、そうした喜びが永遠に奪われている。孤独な散歩者は、状況が提示する全ての職業、全ての喜び、全ての悲惨を、我が物として取り込む。

「孤独な散歩者(promeneur solitaire )」と言うことで、ボードレールは、群衆との「一体化(communion)」が、ジャン・ジャック・ルソーに基づくことを公言する。
当時の文学界でその言葉を使うことは、『孤独な散歩者の夢想』の中で描かれた「自然との一体化」と、それに伴う「陶酔(ivresse)」を連想させることを前提としていた。
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/

散文詩「芸術家の告白(Le Confiteor de l’artiste)」では、ボードレールの芸術の原理が、ルソー的自然との一体化=忘我であることを告白している。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/

1861年の「群衆」では、自己が一体化する対象はもはや「自然」ではなく、都市にうごめく不定型な「群衆」になる。
群衆は、過剰な生のエネルギーそのもの。職業としても、喜びをもたらす出来事としても、悲惨な出来事としても、そのエネルギーが表出される。
そのエネルギーの浴槽につかることで、詩人は「独特な陶酔(singulière ivresse)」に包まれる。

 Ce que les hommes nomment amour est bien petit, bien restreint et bien faible, comparé à cette ineffable orgie, à cette sainte prostitution de l’âme qui se donne tout entière, poésie et charité, à l’imprévu qui se montre, à l’inconnu qui passe.

 一般に愛と名付けられるものは、えも言われぬ酒宴や聖なる売春に比較すれば、非常に小さく、限定的で、弱々しい。その魂が、詩として、慈愛として、自らを全て与えるのは、さっと姿を現す予期できぬもの、通り過ぎる見知らぬものにだ。

Constantin Guys, Vanité

愛には、恋愛もあれば、家族愛も、神への愛もある。そうした愛と比較しても、群衆の中に溶け込み、忘我の中で体験する恍惚感は大きい。

詩人は、その体験を、魂が我を忘れるほどの「酒宴(orgie)」であり、「聖なる売春(sainte prostitution)」であるとさえ言う。
ボードレールの言う売春とは、魂が自らの全てを非人称の多数の人々に与えるという意味。

その際、過剰なエネルギーに満ちた生命力そのものである群衆は、これまで知られたものとしてではなく、全く未知の新たなものとして、凝縮した姿を現す。
例えば、散文詩「通りすがりの女に(À une passante)」で描かれる、偶然すれ違う未知の女性の姿。
https://bohemegalante.com/2019/12/14/baudelaire-a-une-passante/

あるいは、モードとして。
モードは、一時の流行りで、すぐに移り変わってしまう。ルノワールの筆もそうしたモードを捉え、そして、それを永遠の美として定着した。

ボードレールの美学は、束の間の美に永遠性を与えることを目指す。そうした美意識が、モデルニテと呼ばれる。

 Il est bon d’apprendre quelquefois aux heureux de ce monde, ne fût-ce que pour humilier un instant leur sot orgueil, qu’il est des bonheurs supérieurs au leur, plus vastes et plus raffinés. Les fondateurs de colonies, les pasteurs de peuples, les prêtres missionnaires exilés au bout du monde, connaissent sans doute quelque chose de ces mystérieuses ivresses ; et, au sein de la vaste famille que leur génie s’est faite, ils doivent rire quelquefois de ceux qui les plaignent pour leur fortune si agitée et pour leur vie si chaste.

時には、この世で幸福を享受してる人々に教えるのもいい、たとえ彼らの愚かな傲慢さを一瞬辱めることになったとしても、彼らの幸福よりも優れた幸福、より広大で、より洗練された幸福があるということを。植民地を築いた人々、民衆を導く精神的指導者たち、地の果てに放逐された宣教師たち、彼らは間違いなく、そうした神秘的な恍惚のなにがしかを知っている。そして、運命が変転し、生活があまりにも純潔だからと彼らに同情する人々を、彼らの才能が作り上げた巨大な家族の中心にいながら、時として、笑い者にしているに違いない。

前の詩節では、「人が愛と名付けるもの」が「魂の酒宴と聖なる売春」と対比された。この詩節では、この世の現実的な幸福が、「遙かに巨大で洗練された幸福」と比較される。
ルソーであれば自然との一体化の中で感じた恍惚感を、ボードレールは都市の群衆と一体化することで感じる。その至福が、現実的な富や地位などから得られる幸福と比べて、どれほど大きなものかは言うまでもない。

日常的な幸福を超えた幸福を味わった人々として、ボードレールが挙げるのは植民地を作った人間や宗教者。そうした例は、21世紀を生きる私たちにはあまりピンとこないが、とにかく、群衆との一体化は、新しい時代の特別な体験として、特別な恍惚感をもたらすもの。そのように詩人が伝えようとしていることは理解できる。

Gustave Caillebotte, Rue de Paris, temps de pluie

ボードレールはこうして、見知らぬ人々が非人称的に群がる新しい都市に身を浸し、新しい感覚の美を生み出そうとした。
彼は町を歩き回り、群衆の中に身を投じ、過剰なまでの生のエネルギーと一体化する。
その生の流れを形象化してできあがる美は、古代ギリシア・ローマの普遍的な美ではなく、一回限りの個別な美であるが、しかし、永遠性も有すことになる。

こうして形成されるモデルニテの美にとって、群衆は必要不可欠のエネルギー源だった。
近代の日本も含め、多くの芸術家たちが町を彷徨い、群衆という浴槽に身を沈めるのはそのためだと言ってもいい。

最後にもう一度、フランス語で « Les Foules »全体を聞いてみよう。

 

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