ネルヴァルと日本的感性 Nerval et la sensibilité japonaise

ジェラール・ド・ネルヴァルに関する無理解や誤読は、1855年の真冬、パリの場末で首を吊って死んだという事件から21世紀の現在まで続いている。

何度かの精神病院への入院や、狂気に関する記述、さらには彼の最期の姿を描いた版画やセンセーショナルな報道記事が決定打となり、ネルヴァルには「夢と狂気の作家」というレッテルが貼られ続けてきた。

いったんそうしたイメージが定着してしまうと、人々はどうしても彼の残した言葉を、夢、狂気、神秘主義といったキーワードを軸に解釈しようとする。そうした読み方の固定化は、一般の読者だけでなく、文学批評や専門研究の世界でも変わることがない。

今も続くこうした状況の中で、私は別の角度からネルヴァルを読み続けてきた。最近、日本の文化、文学、歴史、美術、精神性などをフランスに紹介するための準備をしていたところ、これまでも愛読してきたある言葉が、より深く心に響いた。それは、彼が死の間際まで書き続けていた『オーレリア』の終盤の一節で、何度読み返しても美しい。

(…) tout dans la nature prenait des aspects nouveaux, et des voix secrètes sortaient de la plante, de l’arbre, des animaux, des plus humbles insectes, pour m’avertir et m’encourager. (…) les objets sans forme et sans vie se prêtaient eux-mêmes aux calculs de mon esprit ; — des combinaisons de cailloux, des figures d’angles, de fentes ou d’ouvertures, des découpures de feuilles, des couleurs, des odeurs et des sons, je voyais ressortir des harmonies jusqu’alors inconnues.   (Gérard de Nerval, Aurélia, II, 6)

自然の中のすべてが、新しい様相を帯び始めた。密やかな声が、植物や木々、動物、そして最も小さな昆虫たちから立ちのぼり、私に警告を与え、勇気づけてくれた。(中略)形もなく命もない物体さえもが、精神の思索を助けてくれた。——小石の組み合わせ、角や割れ目や隙間の形、葉の切り込み、色、香り、そして音。そのあらゆるものから、かつて知らなかった調和(ハーモニー)が浮かび上がってくるのが見えていた。(ネルヴァル『オーレリア』II-6)

一般的に西洋の思想では、人間と自然、生物と非生物の間に明確な境界が引かれ、神話や童話、あるいは夢の中でもなければ、命のないものが人間に語りかけることはない。どれほど自然を慈しんでいたとしても、自然が人間と言葉を交わすことは想定されていないのだ。

確かにアニミズムという概念によって、動植物や岩石、河川、風といった自然界のすべてに魂が宿るという思想が語られることはある。しかし、それはあくまで原始的な信仰とみなされ、科学的思考とは相容れないものとされる。科学的に証明されない事象はファンタジーの世界へと切り離され、理性的な思考の対象からは外されてしまう。

現代の日本人も、西欧文化が築いてきたこうした合理的な思考を共有している。だがその一方で、私たちはネルヴァルの言う「密やかな声」を古代から聞き続けてきた。だからこそ、ふと花が何かを語りかけてくるように感じても、それほど違和感を抱くことはない。

こうした自然との交感(コミュニケーション)を思い出させてくれるのが、『古今和歌集』「仮名序」の冒頭の一節だ。

やまと歌は、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。(紀貫之『古今和歌集』「仮名序」)

紀貫之のこの言葉は、人間だけでなく自然のあらゆる存在が、それぞれの声を発して歌を詠む存在であることを示している。言い換えれば、すべてのものが命を宿しており、歌を詠むことは生きることそのものであると、私たちにそっと伝えているのだ。

そしてそれは、現代を生きる私たちの心の奥底に今も息づいている、ごく自然な感覚だといえる。 だからこそ『オーレリア』の一節は、西欧的な思考を持つ人々以上に、紀貫之の末裔である私たちにとって、ごく当たり前の実感として響くのではないだろうか。

ネルヴァルはこんな風に続ける。

— Comment, me disais-je, ai-je pu exister si longtemps hors de la nature et sans m’identifier à elle ? Tout vit, tout agit, tout se correspond ; les rayons magnétiques émanés de moi-même ou des autres traversent sans obstacle la chaîne infinie des choses créées ; c’est un réseau transparent qui couvre le monde, et dont les fils déliés se communiquent de proche en proche aux planètes et aux étoiles. Captif en ce moment sur la terre, je m’entretiens avec le chœur des astres, qui prend part à mes joies et à mes douleurs ! (Gérard de Nerval, Aurélia, II, 6)

「どうして」と私は自らに問いかけた。「これほど長い間、自然の外側で、自然と一体になることもなく生きてこられたのだろうか」。すべてが生き、すべてが動き、すべてが照応している。私自身あるいは他者から発せられた磁気の光線は、形あるすべてのものが織りなす無限の連なりを、何に遮られることもなく貫いていく。それは世界を覆う透明な網であり、その細い糸は、次から次へと惑星や星々にまで通じている。今、この地上に囚われながら、私は星々のコーラスと語り合っている。そのコーラスが私の喜びや苦悩を共にしてくれているのだ。(ネルヴァル『オーレリア』II-6)

「自然の外側で、自然と一体になることもなく」という言葉は、西洋文明が発展させてきた科学的な世界観そのものに他ならない。そこでは自然とは、人間が主体となって働きかけ、開発することで、人間にとって有用なものへと変化させる「対象」と見なされてきた。

ネルヴァルの発した「どうして?」という問いは、東洋の思想でいえば、一種の「悟り」の瞬間を示している。« Tout vit, tout agit, tout se correspond. »――この真理に目覚めた瞬間だ。

ここでの « tout » を「すべて」ではなく「万(よろず)」と訳してみれば、紀貫之の「仮名序」の世界がエコーのように響いてくる。「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」という言葉が「星々のコーラス」と照応し、私の心の声とともにハーモニーを奏で始める。


人間一人一人が自然の内に生き、自然と一つの存在であること。日本的な感性からすれば、それはごく当たり前の感覚にすぎない。

フランス人であるネルヴァルが、その「悟り」を当時の読者たちに伝えるためには、夢や狂気、神秘主義といった装いを纏わせる必要があったのではないか。つまり、そうした装いは、西洋的な合理主義とは異なる世界観を提示するための、彼なりの戦略だったのだとも考えられる。

『古今和歌集』的な感受性を心の底に持ち続けている私たち日本人が、「狂気と幻想」という色眼鏡を外しさえすれば、ネルヴァルの言葉は驚くほど素直に、そして深い共感とともに受け入れられるに違いない。

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