芥川龍之介の「羅生門」は、『今昔物語』の「羅城門の上層に登り死人を見たる盗人の語」を物語の骨格として作られていて、火事や地震や飢饉が続き、荒れ果てた平安時代末期の京都を舞台にし、死体の積み重なる羅生門の上で、行き場を失った下人が哀れな老婆から着物を剥ぎ取り立ち去っていく話。
自分が生き残るためにはどんな悪事を犯してもしかたがないと決意する男と、死んだ女の髪を抜き、鬘にして売ろうという醜い老婆の姿からは、暗く陰惨なイメージしか浮かんでこない。
そんなあらすじを追うだけで、人間のエゴイスム、善悪の判断基準の相対性、下人の心理の変化といった主題を考える前に、芥川がなぜそんな醜悪な世界と人間を描いたのかという疑問が自然に浮かんでくる。
その問いについて考える上で参考になるのは、芥川の『今昔物語』のについての考察。その中では、『源氏物語』の美との対比が論じられている。
『今昔物語』の芸術的生命は生まなましさだけには終わっていない。それは紅毛人(こうもうじん)の言葉を借りれば、brutality(野性)の美しさである。あるいは優美とか華奢とかには最も縁の遠い美しさである。(中略) 『源氏物語』は最も優美に彼等の苦しみを写している。(中略)『今昔物語』は最も野蛮に、— あるいはほとんど殘酷に、彼等の苦しみを写している。僕等は光源氏の一生にも悲しみを生じずにはいられないであらう。(中略) が、『今昔物語』の中の話(中略)には、何かもつと切迫した息苦しさに迫られるばかりである。 (「今昔物語鑑賞」http://yab.o.oo7.jp/kon.html 読みやすくするために多少字句を変更した。以下同。)
『源氏物語』の優美さが「源氏物語絵巻」の中で見事に映像化されているとすると、『今昔物語』的な「brutality(野性)の美しさ」は、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」を通して後世の人々に伝えられてきたといってもいいだろう。
様々な悪行によって地獄に落ちた人々や飢餓に苦しむ人々の描かれた絵画は、優美な宮廷の貴族たちを描いた絵巻とは正反対の印象を与える。 しかし、それにもかかわらず、日本の国宝に指定されていることからもわかるように、美的価値が認められてきた。
芥川龍之介が、こうした「野生の美」を大正時代に甦らせる際、念頭に置いたのではないかと考えられる詩集があった。それは、シャルル・ボードレールの『悪の華』。 その詩集の中では、一般的に美しいと考えられるテーマではなく、悪徳や醜悪さが歌われ、新しい時代の美が逆説的な姿で表現された。
ここでは、最初に、目を背けたくなるような荒れ果てた世界に目を向け、次に、下人が悪を決意するまでの心的過程を辿ってみよう。その心的変化をもたらすのは猿のような老婆だが、彼女こそが醜さと美の関係を転換させる鍵でもある。
続きを読む →