カミュ 『シーシュポスの神話』 Albert Camus Le mythe de Sisyphe 幸福なシーシュポスとは

シーシュポスは、ギリシア神話の登場人物で、非常に賢いと同時に狡猾であるともされる。
彼は何度も神々を欺き、とりわけ、死の神タナトスを鎖で縛り人間の死を停止させたために、神々の激しい怒りを買ったエピソードが知られている。

そして、そうした神々に対する反抗のために捉えられ、地獄で罰を受けることになる。その罰とは、大きな岩を山の頂上まで運び上げるというもの。一旦頂上に近づくと岩は麓へと落下し、シーシュポスは再び岩を山頂まで運ばなければならない。そして、その往復が永遠に繰り返される。

アルベール・カミュはその古代ギリシア神話の登場人物を取り上げ、『シーシュポスの神話』と題された哲学的エセーの中で、「不条理(absurde)」という概念を中心にした思想を提示した。
シーシュポスは「不条理なヒーロー(le héros absurde)」なのだ。

不条理は人間の生存そのものであり、それは悲劇的なことだ。
しかし、その悲劇は悲劇だけでは終わらない。そのことは、エセーの最後が、「シーシュポスを幸福だと思い描かなければならない」という言葉で終わっていることでも示される。
ここでは、悲劇から幸福への転換がどのような思考によって可能になるのか探っていこう。

エセーは、シーシュポスの神話の概要を簡単に紹介することから始まる。

 Les dieux avaient condamné Sisyphe à rouler sans cesse un rocher jusqu’au sommet d’une montagne d’où la pierre retombait par son propre poids. Ils avaient pensé avec quelque raison qu’il n’est pas de punition plus terrible que le travail inutile et sans espoir. 

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カミュ 『ペスト』 Albert Camus La Peste 疫病や戦争を前にして、人はどう生きるべきか?

アルベール・カミュが1947年に出版した『ペスト』は、アルジェリアのオラン市を舞台にし、ペストが一つの町を外部の世界から隔離し、人々の生活を一変させてしまう様子をドキュメンタリー風に描いた小説。

実際、人類の歴史の中で、ペストは人間に何度も大きな災禍となってきた。カミュがそうした歴史を参照したことは確かだ。
それと同時に、この小説の中で、ペストはナチス・ドイツの象徴でもあった。そのことは、カミュ自身が証言している。
疫病と戦争には自然災害か人災かという違いはある。しかし、一般市民に甚大な被害をもたらすという点においては変わりがない。

ここでは、市中に広がる不安な病について、最初に「ペスト」という言葉が使われた時の記述をたどり、カミュがペストと戦争をどのようなものだと捉えていたのか探っていこう。

最初に出てくるベルナール・リューは、ペストに罹った多くの患者の治療にあたる医師であり、また、出来事の推移を綴る語り手でもある。彼は「私」という代名詞を使わず、三人称を使うことで客観的な視点を確保し、ペストの発生から収束までを年代記風に語っていく。

 Le mot de « peste » venait d’être prononcé pour la première fois. A ce point du récit qui laisse Bernard Rieux derrière sa fenêtre, on permettra au narrateur de justifier l’incertitude et la surprise du docteur, puisque, avec des nuances, sa réaction fut celle de la plupart de nos concitoyens. Les fléaux, en effet, sont une chose commune, mais on croit difficilement aux fléaux lorsqu’ils vous tombent sur la tête.

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サルトル 『嘔吐』 Jean-Paul Sartre La Nausée 存在とは何かという問い

サルトルと言えば「実存主義(existentialisme)」という哲学思想が浮かび、「実存(存在)は本質に先立つ(l’existence précède l’essence )」という表現と共に、代表的な小説として『嘔吐(La Nausée)』という題名が連想される。

そこで、『嘔吐』の読者は、まず哲学的な興味から作品にアプローチすることになるだろう。
しかし、主人公ロカンタンが日記らしきものに書くことは、「存在するとはたんにそこにあることだ。・・いたるところに無限にあり、余計なものであり、・・それは嫌悪すべきものだった。・・私は叫んだ、”なんて汚いんだ。なんて汚いんだ”。」(白井浩司訳『嘔吐』)
こんな調子が続くと、読者の頭の中は、???となってしまう。

少し頑張って、サルトルの哲学の主著『存在と無(L’Être et le Néant)』にトライして、「存在とはある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。」(松浪信三郎訳)が彼の主張だと言われても、ますます???が重なるばかり。

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カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger 最後の一節(excipit)

アルベール・カミュの『異邦人(L’Étranger)』の最後には、死刑の判決を下されたムルソーの独房に司祭がやって来て、懺悔を促す場面が置かれている。

そこでは、それまで全てに無関心なように見えたムルソーが、司祭に飛びかかるほど強い拒否反応を示す。

裁判の弁論では、他の人々には不可解に見える彼の行動について、理由の推定が行われた。つまり、一つの出来事にはそれなりの原因があるとする一般論に基づいて、彼の行動に関する物語が作られたのだった。
司祭は、死後の魂を救済するという意図の下、独房の死刑囚に懺悔を強いようとする。それは、裁判の場を支配していた漠然と共有された社会通念ではなく、明確に定まった宗教的倫理によって、ムルソーを再定義し直すことに他ならない。

ムルソーにとって死は生の連続性の中にあり、そのまま受け入れることができる。しかし、司祭の勧めは、全く別のシステムを受け入れることになり、激しく反発せざるを得ない。
司祭が独房から去った後、ムルソーは、『異邦人』の最も中心的なテーマである「死」と直面する。

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カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger ムルソーの裁判 Plaidoyer de l’avocat de Meursault

『異邦人(L’Étranger)』の第2部は、アラブ人を銃で撃ち、死なせてしまったムルソーの裁判と死刑になるまでが語られる。

裁判では、アラブ人を殺した動機と同時に、母の葬儀に際してのムルソーの態度が取り上げられ、検察や弁護士が、全てをある一定の論理に従って整理しようとする。
その一方で、ムルソーにとって、全てが自分とは関係のない出来事のように思われる。
そのズレは、裁判が社会通念に従い、不可解な生の出来事を一つの物語として組み立て直す作業だということを示している。

裁判官は、「なぜ?」という疑問に対する答えがなされることで、判決を下すことができる。納得がいく説明ができなければ、罪人として告発された人間を裁くことはできない。

ところが、ムルソーは、しばしば、「なぜかわからない」と応える。彼は、自分の行動を社会通念に合わせて説明しなおすことをしない人間なのだ。
そうした側面は、第一部では、母の葬儀に対する無関心な態度や、恋人マリーに愛しているかと問いかけられ、「わからない」としか答えない様子、理由もなく殺人をしてしまう行動などから、描き出されていた。

第2部では、裁判の場面を通して、ムルソーが対峙せざるをえない社会通念がより明確に浮かび上がってくる。

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カミュ 「異邦人」 Albert Camus L’Étranger 冒頭の一節(Incipit) 変な奴の違和感

時々、ちょっとおかしいと感じる人に出会うことがある。逆に、自分が他の人と少し違っているのではないかと感じ、居心地が悪くなる時があったりする。
そうした違和感は、あまり意識化されていない回りの雰囲気を漠然と感じ取り、そこから多少ズレていると朧気に感じる時に生まれてくる。
つまり、個人がおかしいというよりも、目に見えない規範との違いが、居心地の悪さ、違和感を生み出すのだといえる。

アルベール・カミュは、1942年に出版された『異邦人(L’Étranger)』の中で、そうした違和感をテーマとして取り上げた。

ムルソーは、母親の死、恋人への想い、殺人等に対して、「当たり前」とは違う反応をする「変な奴」。
普通であれば、ある状況に置かれればこうするだろうという行動を取らない。そのために、他の人たちは、彼の行動の理由も、彼自体も理解できない。
しかも、いくら「なぜ?」と問いかけても、ムルソーの答えはピンとこない。

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