太平洋戦時中のヒットラー像 

「変なはなしだと思われるかも知れません。まったく変なはなしです。しかし、それを変だと思わないほど、ぼくは日常そのことに慣れっこになっていたんです。いや、そうじゃない。今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです。」

机の前に座る男性と積まれた本の画像

これは、昭和13年(1938年)に発表された石川淳の「マルスの歌」に登場する人物の言葉だ。
後から考えればおかしい、あるいは間違っていたと思えることでも、その渦中にある時には慣れてしまっていて、変だと思うことも疑問を持つこともない。そうしたことはしばしばあるし、むしろそれこそが普通なのだろう。

逆に言えば、それほど当たり前だと思っていることや常識を問い返すことは難しく、さらに言えば、後から振り返って「変だ」「間違っている」と言い、過去の当たり前や常識を批判することほど易しいこともない。かつての当たり前を非難する際に「今の常識も実は変かもしれない」と疑うことは難しいのに対し、今の常識とは異なる過去のものを批判することは容易だからだ。

そうした視点から第二次世界大戦中の日本におけるヒトラー像を振り返ると、当時の日本の「当たり前」が見えてくる。

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太宰治「十二月八日」 昭和16年  真珠湾攻撃当日の日記

黒と白の肖像写真で、髪型が少し乱れている中年男性の顔を捉えています。

21世紀の今の時点から第二次世界大戦のことを考える時、どうしても現在の視点からしか見たり、考えたりすることができない。戦争のない今では、戦争に反対することが当たり前であり、当時の日本人たちは本心では反戦だったけれど、声を上げることができなかったに違いないと思ってしまうのは、自然な反応ではないだろうか。

しかし、その時代に生きていた人間たちは、その時代に当たり前とされていたことの中で生きていたのであり、それは現在の「当たり前」とは違っている。

明治時代の後半から大正時代、そして昭和の初年にかけて、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争へと戦争や軍事的緊張が続く時代を経験していた。昭和13年(1938年)には国家総動員法が成立し、昭和15年(1940年)頃になると、やがてアメリカとの決戦をも視野に入れる方向へと進んでいた。
そして、昭和16年(1941年)12月8日未明、大日本帝国海軍が、オアフ島の真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊の基地を奇襲攻撃した。日本はその後、アメリカとイギリスに対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入する。

太宰治の「十二月八日」は、作家の妻がまさにその日の出来事を綴った日記形式の短編作品で、昭和17年(1942年)2月1日発行の『婦人公論』に発表された。
そして、そこには、いかにも太宰治らしいユーモアを通して、当時の日本人が戦争をどのようにとらえ、受け入れていたのかが、淡々と綴られている。

若い女性のモノクロ肖像写真で、伝統的な服装を着ており、穏やかな表情をしている。

太宰治は、この作品の中で、100年後の読者を想定し、こんなふうに書いている。
ちなみに、語り口も女性のものになっているのだが、もしかすると、昭和13年(1938年)に太宰と結婚した美知子という女性の視点を借りて、太宰自身が語っているのかもしれない。

昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経たって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此(こ)の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

2026年の今、私たちは約80年後の読者にすぎないのだが、多少は太宰の望みに応えることにもなることを期待しながら、戦争の歴史の参考にさせてもらうことにしよう。

本文は「青空文庫」で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/253_20056.html

YouTubeに朗読もアップされている。

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平和ぼけ、お花畑、ポエム — 日本人のDNAは平和の精神

富士山が朝焼けに包まれている風景

日本の歴史を振り返ったとき、663年の白村江の戦いから1894年の日清戦争まで、約1200年の間、日本が外国へ軍を派遣して戦争を行うことは、ほとんどなかった。16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵したことは、唯一といっていい例外だった。

国内においては、672年の壬申の乱、12世紀末の平家と源氏の戦い、戦国時代など、いくつかの大きな戦乱があった。しかし、江戸時代の約260年間には、徳川幕府の統制によって大名同士が戦争をすることはなく、いわば「パクス・トクガワーナ」とでも呼べる時代が続いた。

日本が外国に進出して戦争を行ったのは、1894年の日清戦争から、第二次世界大戦が終結した1945年までの約50年間だったといえる。

そして1945年以降、日本は再び対外戦争を行わない時代に入った。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などにおいても、日本が直接の戦争当事国として参戦することはなく、2026年までこの状態を維持してきた。

このように振り返ってみると、日本は飛鳥時代から現在まで、明治から昭和にかけての約50年間を除けば、外国へ軍を派遣して戦争を行うことが比較的まれだった国だといえる。その意味で、日本人のDNAには、「平和の精神」が刻み込まれているといってもいいだろう。そして、そのことは、日本が世界に誇ることのできる最も大きな美徳の一つだと言っても、決して間違いではない。

もちろん、ここでいう「DNA」は生物学的な意味ではない。長い歴史の中で形成され、日本人の社会や文化に深く刻み込まれた性質を、あえて「DNA」と呼んでいるのである。外国との大規模な軍事的対立を繰り返すことなく、戦争を避ける方向を選択してきた歴史的な知恵と伝統は、日本に深く根付いているはずだ。

ところが近年、外交努力によって平和を維持しようとする姿勢に対して、「平和ぼけ」「お花畑」「ポエム」といった言葉を投げかけ、軍事力を強化することこそがリアルな政策であるという主張が受け入れられる風潮が強まっている。

しかし、軍備の増強が、本当に戦争の抑止につながるのだろうか。リアルはいったいどちらの側にあるのだろう。

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「文明開化」は何をもたらしたのか 「認識の罠」から考える — 平和な日本のために

明治時代の日本での華やかな衣装を着た男性と女性の列、背景には桜や伝統的な建物が描かれている

文明開化とは、明治時代に日本が欧米の文化を吸収し、江戸時代までの制度や習慣が大きく変化した現象を指す。一般的な歴史観では、文明開化は近代日本の発展につながったと考えられている。

その成功を象徴する出来事の一つが、第一次世界大戦後に成立した国際連盟において、イギリス、フランス、イタリアと並ぶ常任理事国となったことだといえる。1868年の明治維新からわずか50年ほどしかたっていない1920年(大正10年)に、日本は列強の一員となったのである。

そのときの日本人が抱いたプライドは、現代の日本人が「G7の一員であるアジア唯一の国」という表現から感じるプライド以上のものだったのかもしれない。

では、文明開化以前の日本は、封建制度のもとで身分制度などによって自由が制限され、欧米に比べて遅れた時代だったのだろうか。

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8月15日 終戦までに何があったのか

少年が傘をさして幼い子供を背負い、草原を歩いているアニメのシーン

毎年8月になると、6日は広島への原爆投下、9日は長崎への原爆投下、そして15日には終戦がニュースとして取り上げられ、「不戦の誓い」が繰り返され、戦争の惨禍が語られる。
ただし、そこに至るまでの過程については、断片的に語られることはあっても、歴史の流れの中に位置づけて理解されることは少ないのではないかと思われる。

ここでは、1945年に限定し、日本がどのような状況にあり、何が起こり、どのような判断を経て降伏が決断されたのかを、政治的な思想に左右されることなく、事実に沿ってたどってみたい。そうすることで、戦争の現実がよりはっきりと見えてくるだろう。

アドルフ・ヒトラーと軍の高官が行進しているモノクロの歴史的な写真

日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ枢軸国として、イギリス・アメリカ・フランス・中国・ソ連などの連合国と戦っていた。

しかし、1943年9月にはムッソリーニ政権下のイタリアが無条件降伏しており、1945年5月にはヒトラー政権下のナチス・ドイツが無条件降伏する。

爆発の中で身をひそめる兵士たちと煙の立ち上る戦場の惨状

日本でも、1945年2月、東京の南約1250キロの洋上に浮かぶ硫黄島がアメリカ軍の攻撃を受け、約2万人の守備隊はほぼ全滅した。その結果を受けて、日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」

当時の日本国内では、軍部や政府だけでなく、議会やマスコミ、さらには国民の多くも、アメリカ軍との戦いを前にして、「徹底抗戦」「本土決戦」「一億玉砕」といったスローガンを叫ぶ雰囲気に包まれていた。硫黄島守備隊の玉砕は、一億国民の「模範」とされたのである。

ちなみに、当時の日本列島の人口は約7000万人であり、「一億」という数字は、日本の植民地だった満洲、朝鮮半島、台湾、内南洋など、日本本土以外の地域の居住者(その多くが朝鮮人や台湾人だった)を含めた人口を指していた。

ここから、1945年2月以降の出来事を、年表風に見ていくことにしよう。
(空爆による死者数については、統計により差があるために、未来に残す戦争の記憶というサイト(https://wararchive.yahoo.co.jp/history/)の数字を記すことにする。

また、確実な日付を跡づけできないためにリストに記すことができないのだが、京都府各地に50回以上の空爆があり、400人以上(諸説あり)が犠牲になったという。「京都は空襲を受けなかった」という俗説は、戦後に流れた偽りの情報だということがわかる。

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宗教は平和をもたらすのか

私たちは、宗教は慈愛をもたらし、人々に平穏を与えるものだと、漠然と信じている。しかし、現実の世界に目を向ければ、キリスト教圏とイスラム教圏の対立は激しく、宗教的な衝突が戦争やテロを引き起こしている。歴史を振り返っても、キリスト教の内部ではカトリックとプロテスタントの間に殺戮があり、ユダヤ教徒への迫害も繰り返されてきた。現代のイスラム教においても、シーア派(イランなど)とスンニ派(サウジアラビアなど)の対立は続いている。

こうした現実を前にすると、「愛」を説くはずの宗教が、なぜ争いを生み出してしまうのかという問いがどうしても浮かんできてしまう。私自身、この疑問を長く抱いてきたが、柄谷行人による伊藤仁斎論を読んでいて、一つの答えに出会った。

柄谷が解説する儒学者・伊藤仁斎(1627-1705)の思想は、「私」と「あなた」という対の関係を出発点にしていて、その関係を一般化・抽象化することを拒む。ここに重要な視点がある。以下の引用を読んでいくと、宗教が実際の殺戮を抑止する方向に働かない理由が見えてくる。

仁とは愛であり、愛は「実徳」である。つまり、愛は、対関係においてのみある。それゆえに「実徳」なのだ。朱子は、仁を「愛の理」、すなわち愛の本質または本質的な愛とみなす。

(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』「伊藤仁斎論」、p. 224.)

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カミュ 『ペスト』 Albert Camus La Peste 疫病や戦争を前にして、人はどう生きるべきか?

アルベール・カミュが1947年に出版した『ペスト』は、アルジェリアのオラン市を舞台にし、ペストが一つの町を外部の世界から隔離し、人々の生活を一変させてしまう様子をドキュメンタリー風に描いた小説。

実際、人類の歴史の中で、ペストは人間に何度も大きな災禍となってきた。カミュがそうした歴史を参照したことは確かだ。
それと同時に、この小説の中で、ペストはナチス・ドイツの象徴でもあった。そのことは、カミュ自身が証言している。
疫病と戦争には自然災害か人災かという違いはある。しかし、一般市民に甚大な被害をもたらすという点においては変わりがない。

ここでは、市中に広がる不安な病について、最初に「ペスト」という言葉が使われた時の記述をたどり、カミュがペストと戦争をどのようなものだと捉えていたのか探っていこう。

最初に出てくるベルナール・リューは、ペストに罹った多くの患者の治療にあたる医師であり、また、出来事の推移を綴る語り手でもある。彼は「私」という代名詞を使わず、三人称を使うことで客観的な視点を確保し、ペストの発生から収束までを年代記風に語っていく。

 Le mot de « peste » venait d’être prononcé pour la première fois. A ce point du récit qui laisse Bernard Rieux derrière sa fenêtre, on permettra au narrateur de justifier l’incertitude et la surprise du docteur, puisque, avec des nuances, sa réaction fut celle de la plupart de nos concitoyens. Les fléaux, en effet, sont une chose commune, mais on croit difficilement aux fléaux lorsqu’ils vous tombent sur la tête.

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