
アルベール・カミュの『異邦人(L’Étranger)』の最後には、死刑の判決を下されたムルソーの独房に司祭がやって来て、懺悔を促す場面が置かれている。
そこでは、それまで全てに無関心なように見えたムルソーが、司祭に飛びかかるほど強い拒否反応を示す。
裁判の弁論では、他の人々には不可解に見える彼の行動について、理由の推定が行われた。つまり、一つの出来事にはそれなりの原因があるとする一般論に基づいて、彼の行動に関する物語が作られたのだった。
司祭は、死後の魂を救済するという意図の下、独房の死刑囚に懺悔を強いようとする。それは、裁判の場を支配していた漠然と共有された社会通念ではなく、明確に定まった宗教的倫理によって、ムルソーを再定義し直すことに他ならない。
ムルソーにとって死は生の連続性の中にあり、そのまま受け入れることができる。しかし、司祭の勧めは、全く別のシステムを受け入れることになり、激しく反発せざるを得ない。
司祭が独房から去った後、ムルソーは、『異邦人』の最も中心的なテーマである「死」と直面する。
Alors, je ne sais pas pourquoi, il y a quelque chose qui a crevé en moi. Je me suis mis à crier à plein gosier et je l’ai insulté et je lui ai dit de ne pas prier. Je l’avais pris par le collet de sa soutane. Je déversais sur lui tout le fond de mon cœur avec des bondissements mêlés de joie et de colère. Il avait l’air si certain, n’est-ce pas ? Pourtant, aucune de ses certitudes ne valait un cheveu de femme. Il n’était même pas sûr d’être en vie puisqu’il vivait comme un mort. Moi, j’avais l’air d’avoir les mains vides. Mais j’étais sûr de moi, sûr de tout, plus sûr que lui, sûr de ma vie et de cette mort qui allait venir. Oui, je n’avais que cela. Mais du moins, je tenais cette vérité autant qu’elle me tenait. J’avais eu raison, j’avais encore raison, j’avais toujours raison. J’avais vécu de telle façon et j’aurais pu vivre de telle autre. J’avais fait ceci et je n’avais pas fait cela. Je n’avais pas fait telle chose alors que j’avais fait cette autre. Et après ? C’était comme si j’avais attendu pendant tout le temps cette minute et cette petite aube où je serais justifié.
どうしてかわからないのだけれど、何かがぼくの中で破裂した。大声で叫び始め、司祭を罵り、彼にお祈りをするなと言ってやった。彼の平服の襟飾りをつかみ、心の底で思っていることを、喜びと怒りで高揚しながら、彼の上にぶちまけた。彼は確信している様子をしていたんじゃないだろうか? でも、彼のどんな確信も、女の髪の毛一本の価値さえなかった。彼が生きていることさえ、確かとはいえなかった。だって、死者のように生きていたのだから。ぼくはと言えば、手には何も持っていない様子をしていた。でも、自分のことは確信していた。全てのことを確信していた。彼よりも確信があった。自分の生に関しても、これから訪れる死に関しても。そう、ぼくにはそれしかなかった。少なくとも、その真実をしっかりと捉えていた。真実がぼくを捉えているのと同じ位に。ぼくは正しかった。まだ正しい。常に正しい。こんな風に生きてきたのだし、別の風に生きることだってできたかもしれない。これをして、あれはしなかった。これはしなかったけれど、あれはした。で、その後は? ぼくはずっとこの時を待っていたかのようだった。このちっぽけな曙の時、ぼくは正当化されるのかもしれない。
(カミュ自身による朗読)
https://www.bacdefrancais.net/mp3/Camus-l-etranger-epilogue.mp3
ムルソーは、これまで、どんなことに対しても自分を正当化しようという素振りを見せなかった。その時その時を生き、どのような行動に対しても、人を納得させる理由を探すことはなかった。

しかし、司祭を前にした「ぼく」は、高揚した様子で「自分が正しい(j’ai raison)」と繰り返す。
キリスト教の説教に絶対的な確信をもっている司祭に対して、「ぼく」は「手に何も持っていない(les mains vides)」。
しかし、司祭と同じように自分を確信している。そのために、あえて、司祭について語るのと同じ言葉で自分についても語り、二人の人間が並行関係にあることを、言葉の上でも示している。
その二人の対立は、制度と生(vie)に基づいていると考えてもいい。
もしこう言ってよければ、ムルソーが生きるのは、時計で計られる物理的な時間ではなく、実体験として感じられる生きた時間。アンリ・ベルグソンの用語で言えば、「持続(durée)」。
その生においては、出来事は原因と結果の因果関係によって関連づけられるのではなく、これがあり、あれがありという風に、ただ単に連続して続いていく。
そうした「生きた時間」の中で、「ぼく」は、実際にしたこともあったし、しないこともあった。顕在化した行為と潜在的に留まった行為があり、それ以上でも以下でもない。全ては連続し、一つが原因で、次が結果というわけではない。
もし因果関係を見つけるとしたら、それは事後的な意味づけにすぎない。
そうした生の確信は、「ぼく」にとっては、小さいながら、一つの「曙(aube)」だと感じられる。
そして、もしかすると、その曙の日は、彼の死刑が執行される日かもしれない。
Rien, rien n’avait d’importance et je savais bien pourquoi. Lui aussi savait pourquoi. Du fond de mon avenir, pendant toute cette vie absurde que j’avais menée, un souffle obscur remontait vers moi à travers des années qui n’étaient pas encore venues, et ce souffle égalisait sur son passage tout ce qu’on me proposait alors dans les années pas plus réelles que je vivais. Que m’importaient la mort des autres, l’amour d’une mère, que m’importaient son Dieu, les vies qu’on choisit, les destins qu’on élit, puisqu’un seul destin devait m’élire moi-même et avec moi des milliards de privilégiés qui, comme lui, se disaient mes frères. Comprenait-il, comprenait-il donc ? Tout le monde était privilégié. Il n’y avait que des privilégiés.
何も、何も重要ではなかったし、なぜかもわかっていた。司祭もなぜか知っていた。ぼくがこれまで送ってきた不条理な人生の間ずっと、未来の奥から、暗い息吹が、まだ到来していなかった歳月を横切って、ぼくに向かって吹き上げて来ていた。その息吹は、今ぼくが生きている以上に現実的というわけでもない歳月の中を吹き抜けながら、ぼくに提示されたもの全てを均質にした。他者の死も、母親の愛も、ぼくにとって重要ではない。司祭の神など、ぼくにとって重要ではない。人が選択する生も、人が選び取る運命も重要ではない。というのも、ただ一つの運命が、ぼく自身を選んだに違いないのだから。そして、司祭と同じように自分たちを我が兄弟と呼び合う特権を持った数多くの人々を、ぼくと一緒に選んだに違いないのだから。彼は理解していたのだろうか。一体全体、彼は理解していたのだろうか? 全ての人が特権を受けていて、特権を受けた人しかいないのだ。
「生きた時間」の中では、一つのものが原因となり、その結果があるというのではなく、出来事がただ単に連続して発生する。その際、それぞれの出来事に重要性の区別はなく、全てが「平均化(égaliser)」されている。その実感を持った時、ムルソーは、生の時間を「息吹(un souffle )」のように感じたのだろう。
ただし、未来の底から「ぼく(je)」に向かって吹き上げてくる息吹は、「暗い(sombre)」。
なぜだろう?
「ぼく」が目覚めた朝、死刑を執行されるかもしれない。未来にあるものは、死。
死すべき存在である人間は誰しも、生の果てに死を迎える。「ぼく」は、その漠然とした思いをリアルに感じている。
そして、死の息吹が通り過ぎていくとき、過去の出来事も、まだ起こっていない出来事も、潜在的に留まった出来事も、全て同じ価値しかもたない。
そのような意識を持つムルソーは、3つの時間帯を区分する。
一つは、これまで送ってきた「人生(vie)」。それが「不条理(absurde)」だと感じられる。裁判や司祭の慣習的な制度と彼の生の感覚は決して交わることなく、対立的に存在してきたからだろう。
二つめは、「まだ到来していなかった年(les années qui n’étaient pas encore venues)」。動詞が大過去に置かれているのは、死を直前にしたムルソーにとって、到来していない未来も、すでに過去のものと感じられていることがわかる。
三つめは、「今ぼくが生きている以上に現実的というわけでもない歳月(les années pas plus réelles que je vivais)」。
分かりにくい時間の表現だが、時間の中で生起する出来事に対して、リアリティーを感じる度合いが低いことは理解出来る。
そのことは、次に、何度も繰り返される、「重要ではない(Que m’importaient)」という言葉で表現される。
人々の死、母の愛、キリスト教の神、人の命、運命、何一つ特別な価値を持つわけではないと、「ぼく」は感じている。
特別に価値を持つ人がいるわけではなく、全ての人は等しく特権を持っている。
では、その特権とは何か? それが次に明かされる。
Les autres aussi, on les condamnerait un jour. Lui aussi, on le condamnerait. Qu’importait si, accusé de meurtre, il était exécuté pour n’avoir pas pleuré à l’enterrement de sa mère ? Le chien de Salamano valait autant que sa femme. La petite femme automatique était aussi coupable que la Parisienne que Masson avait épousée ou que Marie qui avait envie que je l’épouse. Qu’importait que Raymond fût mon copain autant que Céleste qui valait mieux que lui ? Qu’importait que Marie donnât aujourd’hui sa bouche à un nouveau Meursault ? Comprenait-il donc, ce condamné et que du fond de mon avenir… J’étouffais en criant tout ceci. Mais, déjà, on m’arrachait l’aumônier des mains et les gardiens me menaçaient. Lui, cependant, les a calmés et m’a regardé un moment en silence. Il avait les yeux pleins de larmes. Il s’est détourné et il a disparu.
他の人々も同様に、ある日、死刑を宣告されるかもしれない。司祭も同様に、死刑を宣告されるかもしれない。もし、彼が殺人罪で非難され、母親の葬儀で涙を流さなかったという理由で死刑執行されるとしても、どうでもいいのではないだろうか? サラマノの犬の価値は、彼の妻と同じだった。自動人形みたいな小女は、マッソンが結婚したパリの女とか、ぼくとの結婚を望んだマリーと同じくらい罪深い。レイモンが、彼よりももっといい奴であるセレストと同じくらい、ぼくの友だちだったとして、何だというのだろう? マリーが今日、新たな別のムルソーと口づけをしたとしても、何だというのだろう? この断罪された男、彼は分かっているのだろうか。ぼくの未来の奥から・・・。こんなことを叫んでいると、息苦しくなった。しかし、すでに、ぼくの手から司祭は引き離され、看守たちがぼくを脅していた。だが、司祭は彼等をなだめ、一瞬の間、何も言わずにぼくを見た。目に涙をためていた。そして、振り返り、去っていった。
死刑宣告をされたムルソーは、特別な存在ではない。司祭も含め、誰もが死刑を宣告される可能性がある。
死が、死すべき存在(mortel)である人間の運命なのだ。別の言い方をすれば、全ての生は死へと向かって進んでいる。
そのように思い至ったムルソーの心に、過去の様々な思い出が浮かび上がってくる。サラマノの犬と彼の死んだ妻、等々。
恋人のマリーでさえも、他の思い出と変わるところがない。
そんな思いを、司祭は理解しているのだろうかとふと思ってしまう。と、先ほどの怒りが湧いてきて、息が詰まりそうになる。
そんな様子を見て、看守達が司祭をムルソーから引き離し、司祭は独房から出て行く。
最後まで、制度の側の人間は自分を確信し、ムルソーと相容れることはない。
その後、「ぼく」は冷静さを取り戻し、冒頭で語られた母親の死を再び取り上げ、小説の核心となる思索にふける。
Lui parti, j’ai retrouvé le calme. J’étais épuisé et je me suis jeté sur ma couchette. Je crois que j’ai dormi parce que je me suis réveillé avec des étoiles sur le visage. Des bruits de campagne montaient jusqu’à moi. Des odeurs de nuit, de terre et de sel rafraîchissaient mes tempes. La merveilleuse paix de cet été endormi entrait en moi comme une marée. À ce moment, et à la limite de la nuit, des sirènes ont hurlé. Elles annonçaient des départs pour un monde qui maintenant m’était à jamais indifférent.
司祭が立ち去り、ぼくは平静さを取り戻した。へとへとに疲れ、簡易ベッドの上に身を投げ出した。眠ったように思う。というのも、目が覚めた時、顔に星の光がかかっていたからだ。郊外のがやがやした音がぼくのところまで上ってきていた。夜や地面、潮の匂いが、こめかみを爽やかにしていた。まどろんだような今年の夏の素晴らしい穏やかさが、上げ潮のように、ぼくの中に入り込んできていた。その時、夜も終わろうとしている時、サイレンが吠えた。それは、ぼくにとって今となっては永遠にどうでもいい世界へ、人々が出発する合図だった。
「ぼく」が「平静さ(calme)」を取り戻した様子は、身体感覚として表現される。
まどろんだ後で目を覚ました時、「顔の上に月の光がかかっている(des étoiles sur le visage)」。「郊外のがやがやした音(Des bruits de campagne)」が聞こえ、「夜や地面、潮の匂い(odeurs de nuit, de terre et de sel)」を感じる。
「まどろんだ夏の素晴らしい穏やかさ(merveilleuse paix de cet été endormi)」が、「波(marée)」のように、彼の体の中に入り込んでくる。ここでは、「ぼく」の五感が自然に対して開かれ、自然の中に溶け込んでいるかのようである。ちょうど、ジャン・ジャック・ルソーが、夢想の中で、自然と一体化し、忘我の状態にいる時のように。
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/
そして、夜が終わろうとする時、「出発(des départs)」を告げる「サイレン(sirènes)」の音が聞こえる。
誰が、どこに、出発するのだろう?
サイレンの音も出発も複数形であり、ムルソーの出発ではない。
向かう先は、「ぼくにとって今となっては永遠にどうでもいい世界(un monde qui maintenant m’était à jamais indifférent.)」。
「ぼく」は死へと向かう。とすれば、「ぼく」にとって永久に無関心になった世界とは、普通の人々が普通に生活する、無意識の因習に支配される世界。例えば、労働者たちが通う職場。
けたたましく吠えるサイレンが、そうした世界と「ぼく」の意識を、完全に分離する。そして、「ぼく」は、母親の死に思いを巡らせる。
Pour la première fois depuis bien longtemps, j’ai pensé à maman. Il m’a semblé que je comprenais pourquoi à la fin d’une vie elle avait pris un « fiancé », pourquoi elle avait joué à recommencer. Là-bas, là-bas aussi, autour de cet asile où des vies s’éteignaient, le soir était comme une trêve mélancolique. Si près de la mort, maman devait s’y sentir libérée et prête à tout revivre. Personne, personne n’avait le droit de pleurer sur elle.
本当に久しぶりに、母さんのことを考えた。母さんがどうして人生の最後に「婚約者」を持ち、どうして最初からやり直すような遊びをしたのか、理解したように思えた。あちら、あちら、生命がいくつも消えていく老人ホームの周りで、夜は憂鬱な休息のようなものだった。死の間際になり、母さんは解放され、全てを生き直す準備が整っているように感じていた。誰も、誰も、母さんのことを、涙する権利はなかった。
『異邦人』は、「今日、母さんが死んだ(Aujourd’hui, Maman est morte.)」という簡潔な文から始まり、彼女の死や葬儀におけるムルソーの無関心と思われる様子が、彼を人とは違う変な人間と見せる大きな要素となってきた。
そのムルソーが、最後に、母の死を彼なりの仕方で理解することで、小説は終わりを迎える。
まさに、輪が閉じられるのである。La boucle est bouclée.
「ぼく」は、母親がなぜ老人ホームで死を迎える前に、「婚約者」とあだ名されるペレーズ老人と親しくし、人生をもう一度始めようとしたのか、理解する。
生きることは、結局、遊びなのだ。生は常に死に向かって進む。その意味では、不条理そのものだ。しかし、その流れの中で、全ては同様に生起し、消滅する。死もその一部にすぎない。従って、死に特別な価値を置き、涙する必要はない。
こう言ってよければ、死は一つの眠りであり、眠りの後には目覚めが来る。
もちろん、現実には、死は人生の終わりを告げる。一人の人間の生に限れば、最終的な終わりとなる。
しかし、他者の死の後も、人は生きる。自分の死の後も、誰かが生きる。
そうした視点に立てば、途切れのない生の流れの感覚を持つ人間にとって、死は生の連続性の一部でしかないと感じられるはずである。
「ぼく」は、母親の晩年の生き方から、彼女も「生きた時間」感覚を持っていたのだと確信する。
そして、最後に、自分自身を見つめる。
Et moi aussi, je me suis senti prêt à tout revivre. Comme si cette grande colère m’avait purgé du mal, vidé d’espoir, devant cette nuit chargée de signes et d’étoiles, je m’ouvrais pour la première fois à la tendre indifférence du monde. De l’éprouver si pareil à moi, si fraternel enfin, j’ai senti que j’avais été heureux, et que je l’étais encore. Pour que tout soit consommé, pour que je me sente moins seul, il me restait à souhaiter qu’il y ait beaucoup de spectateurs le jour de mon exécution et qu’ils m’accueillent avec des cris de haine.
ぼくも、全てを生き直す準備が出来ているように感じていた。大きな怒りの感情がぼくの中にある悪を洗い流したかのように、ぼくは、惑星や星々の輝くこの夜を前にして、希望がからっぽになり、生まれて初めて、世界の優しい無関心に心を開いていた。夜がとてもぼくと似ていて、結局のところひどく親しげなのを感じ、ぼくは幸福だった。今も幸福だと感じた。全てが成し遂げられ、ぼくがそれほど孤独ではないと感じるために、ぼくに残されているのは、処刑の日、多くの観客がいて、ぼくを憎しみの叫びで迎えてくれることを望むことだけだった。
死を目の前に見据え、「全てを生き直す(tout revivre)」準備ができていると感じるのは、母親と同じであり、自分がどのような思考に基づいて生きてきたのか自覚したことを意味している。
その自覚は、途切れのない生の流れと対立する、無自覚的に共有され制度化された時間あるいは社会的習慣の存在によってもたらされる。裁判での型にはまった因果論的思考や贖罪を語る司祭の言葉が、「ぼく」に違和感を抱かせ、苛立たせることで、逆に母の理解へと導かれ、生の感覚が何かを自覚することができたのである。
だからこそ、「ぼくの処刑の日(le jour de mon exécution)」には、人々が多く集まり、憎しみの言葉をぶつけて欲しいと願う。強い反発が、「ぼく」を反対側により強く押しやるのだ。
そう願えるのは、「ぼく」が、夜の間に、一つの確信を持ったからだった。「世界の優しい無関心(la tendre indifférence du monde)」に関する確信。
サイレンの音に促されて、人々は、「ぼく」にとって「無関心な(indifférent)」世界へと向かった。
それと比例するかのように、世界も「無関心(indifférence)」である。そして、その無関心は「優しい(tendre)」。
カミュは、『シーシュポスの神話』の中で、不条理についてこう書いている。
L’absurde naît de cette confrontation entre l’appel humain et le silence déraisonnable du monde.
不条理は、人間の呼びかけと、世界の非理性的な沈黙が、向かい合うことから生まれる。
一方が他方を押しつぶしてしまえば、対立は消滅する。無関心が優しいとすれば、二つの原理が「向かい合う(confrontation)」ことを保証するからである。
母の死は、ムルソーと社会という二つの原理の存在を最も顕在化させる機会だった。裁判において、殺人そのもの以上に、母の葬儀の際のムルソーの態度が問題になったのも、そのためである。
こうすべきという行動を人々はムルソーに期待し、それに従わない彼を断罪した。断罪されることで、ムルソーの行動の意味が、彼自身にとっても明らかになった。
小説の最後が幸福感に満ちているのは、そのためだろう。
星の輝く美しい夜の無関心な世界が、彼を「幸福(heureux)」だと感じさせ、「さほど孤独ではない(moins seul)」と感じさせる。
人間は、そうした不条理な世界を生きている。たとえ、それがどんなに不条理だとしても。

17世紀の人間嫌いアルセストは、宮廷社会の決まり事に反抗し、心の中で思うことは全て口にし、規範と対立する選択をした。
20世紀のムルソーは、不条理な世界の無関心を優しさと捉え、持続的な生の流れの中で、全てが生起し消滅する動きに身を委ねる姿勢を貫いた。
21世紀、私たちは個人と社会のズレの中で、どのような生き方を選択しているのだろうか。
ウルグアイの元大統領のホセ・ムヒカの映画見たんですね。ここでも”幸せ”について語られるんです。幸福と孤独の対比をうまく表現してますよね。映画も傑作です。(=^・^=)
http://chokobostallions.seesaa.net/article/477857841.html
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「ムヒカ」の情報、ありがとうございます。
まだ見ていないので、今度見ようと思います。
予告を見ただけですが、興味を引かれます。
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