
愛する人から愛されていないと感じる時、人はどれほど悲しみ、悩み、苦しむことだろう。時には最悪の行動を取ることさえある。
そうした葛藤を、太宰治は、1940(昭和15)年に発表した「駆け込み訴え」の中で、イエスを裏切ったユダの口を通して生々しく語った。
ユダは「役所」の「旦那さま」に向かい、イエスの最後の日々の出来事を辿りながら、自らの感情の動きを赤裸々に語っていく。
そこで述べられる言葉はユダの主観の反映であり、全てが彼の心の内を明かすことになる。
読者はそれらの言葉を自分なりに解釈し、ユダの心理を読み解いていく。そんな楽しみが読書にはある。例えば、最初の一節。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。(「駆け込み訴え」)
このユダの言葉は、本当に「あの人」に対する憎しみから発せらたものなのか? 「可愛さ余って憎さ百倍」的なものなのか? 訴え出たユダにはイエスへの愛が残っているのか? イエスを「売った」自分をどのように感じているのか? 等々。
ここでは、キリスト教に焦点を当てるのではなく、愛と憎しみの葛藤という心理劇を、ユダの訴えの生々しい言葉から読み解いてみよう。
「駆け込み訴え」本文(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html
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