小泉八雲の語る荘子「胡蝶の夢」  Lafcadio Hearn speaks of Zhuangzi’s ‘Butterfly Dream’

小泉八雲(Lafcadio Hearn:1850-1904)は、日本文化に触れた際の印象を記した『知られぬ日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan)、そして日本各地に伝わる伝説や怪異譚を独自の語り口で紹介した『怪談』(Kwaidan)などの著作によって、明治期の日本文化を海外に広く紹介するうえで大きな役割を果たした。

彼は1850年、当時イギリスの保護領であったギリシアのレフカダ島に生まれた。父はアイルランド生まれのイギリス軍の軍医、母はペロポネソス半島南端に位置するキティラ島出身のギリシア人であった。
一家は1852年に父の故郷であるアイルランドに移り住むが、父が別の女性と生活を始めたことなどから、母はギリシアへ帰国し、ハーンは大伯母に育てられることになる。
その後、1869年に単身でアメリカ合衆国へ渡り、ジャーナリストや作家としての活動を開始した。

1890年に来日したラフカディオ・ハーンは、島根県で出会った小泉セツと結婚し、1896年には日本国籍を取得した。彼が日本を深く愛していたことは疑いようがない。
それでは彼は、どのようにして日本文化を理解しようとしたのか。この問いはきわめて興味深い問題である。

ここでは、その答えの一端を『怪談』の末尾に置かれた、昆虫に関する随筆「蝶」に求めたい。そこには、荘子の寓話「胡蝶の夢」への言及が見られる。ハーンは、荘子と蝶との関係について、次のように述べている。

Again, I should like to know more about the experience of that Chinese scholar, celebrated in Japan under the name of Sōshū, who dreamed that he was a butterfly, and had all the sensations of a butterfly in that dream. For his spirit had really been wandering about in the shape of a butterfly; and, when he awoke, the memories and the feelings of butterfly existence remained so vivid in his mind that he could not act like a human being.

私がさらに知りたいと思うのは、日本で荘周(そうしゅう)の名で知られるあの中国の学者の経験だ。彼は自分が蝶である夢を見、その夢の中で蝶としてのあらゆる感覚を味わった。というのも、彼の精神は実際に蝶の姿をとってさまよっていたからだ。そして、目覚めたときにも、蝶として存在していたときの記憶や感情があまりにも鮮明に心に残っていたため、人間として振る舞うことができなかったのである。

(Lafcadio Hearn, Kwaidan: Stories and Studies of Strange Things, “Butterflies,” 1904)

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本人に抱いた第一印象

ラフカディオ・ハーンが強く日本に惹かれたことはよく知られているが、来日当初、彼の眼には日本人の姿がどのように見えていたのだろうか?

その疑問の回答となる一節が、1894年に刊行されたGlimpses of Unfamiliar Japan(『なじみのない日本を垣間見る』)に収録された« From the Diary of an English Teacher »(英語教師の日記から)と題された章の中にある。
それは、松江中学に英語教師として赴任したハーンが二度目の新学期の印象を綴ったシーンで、以下のように書き始められる。

Strangely pleasant is the first sensation of a Japanese class, as you look over the ranges of young faces before you. There is nothing in them familiar to inexperienced Western eyes; yet there is an indescribable pleasant something common to all.

日本の教室に入ってまず感じるのは、不思議なほど心地よい感覚だ。目の前にずらりと並んだ若い顔を見渡すときだ。未熟な西洋人の目には、どの顔にも見慣れた特徴は何ひとつない。それなのに、すべての顔に共通して、言葉では言い表せないような心地よい何かが感じられるのだ。

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小泉八雲 ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn 怪談の思想

小泉八雲(Lafcadio Hearn)の一生を知るには、八雲自身が記した履歴書を参照するのが最も確実だろう。
それは、1903(明治36)年に東京帝国大学の講師を退職させられた翌年、早稲田大学に提出したものである。
なお、東京帝国大学を退職することになったのは、後任として夏目漱石が採用されることが決まっていたためだが、学生たちは八雲の授業を好み、留任を求める運動が起きたことも知られている。

小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)英国臣民。一八五〇年、イオニア列島リュカディア(サンタ・マウラ)に生る。アイルランド、英国、ウェールズ、(及び一時は仏国)にて成人す。一八六九年、アメリカに渡り、印刷人及び新聞記者となり、遂にニューオーリンズ新聞の文学部主筆となる。ニューオーリンズにて当時ニューオーリンズ博覧会の事務官、後兵庫県知事なる服部一三(はっとり いちぞう)氏にあう。一八八七年より一八八九年まで仏領西印度のマルティニークに滞在。一八九〇年、ハーパー兄弟書肆(しょし)より日本に派遣される。当時の文部次官(注:実際には普通学務局長)服部氏の好意により、出雲松江の尋常中学校に於て英語教師の地位を得。一八九一年の秋、熊本に赴き、第五高等中学校に教えて一八九四年に到る。一八九四年、神戸に赴き、暫時(ざんじ)『神戸クロニクル」の記者となる。一八九五年、日本臣民となる。一八九六年、東京帝国大学に招かれて講師となり、一九〇三年まで英文学の講座を担任す。— その間六年七ヶ月。日本に関する著書十一部あり。

   (田部隆二『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』より)

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によるボードレールの散文詩「異邦人(L’Étranger)」の翻訳 Lafcadio Hearn « The Stranger »

パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)は、1850年にギリシアで生まれた。父はアイルランド人の医師で、母はヴィーナスが誕生した島として知られるエーゲ海のキュテラ島出身。

2年後に両親はアイルランドに戻るが、間もなく離婚。ハーンは父方の大叔母に育てられ、フランスの神学校やイギリスのダラム大学などでカトリックの教育を受ける。ただし、彼はキリスト教に反感を持ち、ケルトの宗教に親近感を示した。

1869年、大叔母が破産し、ハーンはアメリカに移民として渡り、シンシナティでジャーナリストとして活動するようになる。その後、ニューオーリンズの雑誌社に転職し、さらに、カリブ海のマルティニーク島へ移住する。

日本にやってきたのは、1890年4月。8月から、島根県松江の学校に英語教師として赴任した。
1891年1月、松江の士族の娘、小泉セツと結婚。同じ年の11月、松江を離れ、熊本の第五高等学校の英語教師になる。
1894年、神戸市のジャパンクロニクル社で働き始める。
1896年9月から東京帝国大学文科の講師として英文学を担当。その年に日本に帰化し、小泉八雲と名乗った。
東京では最初、牛込区市谷富久町で暮らしたが、1902年に西大久保に転居。
1903年、帝国大学の職を解雇され、後任として夏目漱石が赴任する。
1904年9月26日、心臓発作のために死去。享年54歳。

ラフカディオ・ハーンの生涯をこんな風に足早に辿るだけで、彼がシャルル・ボードレールの散文詩「異邦人」に親近感を持ち、英語に翻訳したことに納得がいく。

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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によるボードレールの散文詩「髪の中の半球」の翻訳 Lafcadio Hearn « A Hemisphere in a Woman’s Hair »

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がアメリカで新聞記者をしている時代、フランス文学の翻訳にも興味を持ち、ボードレールの散文詩の翻訳などもしていた。

1883年12月31日発行の「タイムズ・デモクラット(Times Democrat)」紙に、« ボー ドレールからの断片(Fragments from Baudelaire) »という記事があり、ボードレールの散文詩4編の翻訳が掲載されているが、その著者(訳者)がハーンであると推定されている。

フランス語を日本語に訳すのとは違い、英語の翻訳であれば、フランス語の構文はほぼ保つことができる。そうした中で、どのような変更が加えられたのか見ていくのは、ハーンの文学観を知る上で大変に興味深い。
ここでは、「髪の中の半球(Un Hémisphère dans une chevelure)」の原文と英語訳を対照しながら読んでみよう。

Un Hémisphère dans une chevelure

Laisse-moi respirer longtemps, longtemps, l’odeur de tes cheveux, y plonger tout mon visage, comme un homme altéré dans l’eau d’une source, et les agiter avec ma main comme un mouchoir odorant, pour secouer des souvenirs dans l’air.

意味や読解については、以下の項目を参照。
ボードレール 「髪の中の半球」 Baudelaire « Un Hémisphère dans une chevelure » 散文で綴った詩

A Hemisphere in a Woman’s Hair

Ah! let me long, long breathe the odor of thy hair; let me plunge my whole face into the rippling of thy locks, even as a thirsty man plunges his face into the waters of a spring. Let me shake thy tresses with my hand, as one shakes a perfumed handkerchief, as one memories from them into the air around me.

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