宮沢賢治「心象スケッチ」の意味――Mental Sketch Modifiedと中原中也

宮沢賢治と中原中也は、現在でも人気の高い詩人であり、愛読者も多い。二人の詩人のつながりについても、これまでさまざまな考察が行われてきた。しかし、興味深いことに、二人とも生前はほとんど無名といっていい存在だった。宮沢賢治が出版できたのは、大正13年(1924年)の詩集『花と修羅 心象スケッチ』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけであり、中原中也が生前に出版した詩集も、昭和9年(1934年)の『山羊の歌』一冊だけだった。

たぶん宮沢は中原のことを知らなかったのではないかと思われる。他方、中原は『花と修羅』が出版された際にたまたま手にし、それ以来、愛読していたことが知られている。そして、中原が宮沢について書いた文章を読むと、宮沢賢治のすべての著作の鍵となる「心象スケッチ(Mental Sketch Modified)」がどのようなものなのかを、とても分かりやすく知ることができる。

その理由の一つは、二人の詩人が同じような感受性を共有していたことにある。しかし、それだけではない。大正時代に日本で大きなブームとなったアインシュタインの相対性理論に由来する新しいものの見方に基づき、当時の人々は、物理的な世界観と精神世界とを融合させた世界のあり方を探ろうとしていた。そのような時代的背景も見逃すことはできない。

そうしたことを頭に置きながら、中原中也が宮沢賢治について書いた短い文章を手がかりに、二人の詩作の根底に流れる基調低音の調べを探っていこう。

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小泉八雲 ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn 怪談の思想

小泉八雲(Lafcadio Hearn)の一生を知るには、八雲自身が記した履歴書を参照するのが最も確実だろう。
それは、1903(明治36)年に東京帝国大学の講師を退職させられた翌年、早稲田大学に提出したものである。
なお、東京帝国大学を退職することになったのは、後任として夏目漱石が採用されることが決まっていたためだが、学生たちは八雲の授業を好み、留任を求める運動が起きたことも知られている。

小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)英国臣民。一八五〇年、イオニア列島リュカディア(サンタ・マウラ)に生る。アイルランド、英国、ウェールズ、(及び一時は仏国)にて成人す。一八六九年、アメリカに渡り、印刷人及び新聞記者となり、遂にニューオーリンズ新聞の文学部主筆となる。ニューオーリンズにて当時ニューオーリンズ博覧会の事務官、後兵庫県知事なる服部一三(はっとり いちぞう)氏にあう。一八八七年より一八八九年まで仏領西印度のマルティニークに滞在。一八九〇年、ハーパー兄弟書肆(しょし)より日本に派遣される。当時の文部次官(注:実際には普通学務局長)服部氏の好意により、出雲松江の尋常中学校に於て英語教師の地位を得。一八九一年の秋、熊本に赴き、第五高等中学校に教えて一八九四年に到る。一八九四年、神戸に赴き、暫時(ざんじ)『神戸クロニクル」の記者となる。一八九五年、日本臣民となる。一八九六年、東京帝国大学に招かれて講師となり、一九〇三年まで英文学の講座を担任す。— その間六年七ヶ月。日本に関する著書十一部あり。

   (田部隆二『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』より)

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