自然と人間 『源氏物語絵巻』の「御法」とフラ・アンジェリコの「受胎告知」

源氏物語絵巻の「御法(みのり)」とフラ・アンジェリコの「受胎告知」は、時代も国も主題も全て異なっているが、右側に家屋の内部が描かれ、左側には庭が描かれている点では共通している。

興味深いことに、二つの庭の草花の役割はまったく異なっている。そこから、日本的な感受性と、ヨーロッパ的な感性の違いを読み取ることができる。

日本的感性 ー 山川草木に想いを託す

『源氏物語絵巻』の「御法」は、光源氏の愛する紫の上が亡くなる直前の場面を描いている。

秋、源氏は明石の中宮と、紫の上を見舞うため二条の旧邸に赴く。そこで、風に揺れる秋の花々を見ながら、紫の上が別れの和歌を詠み、源氏と中宮も返答の歌を詠む。

絵巻の中で、中央にいる男性が光源氏。右上で源氏と向き合うのが紫の上。中宮の姿は屏風の後ろに隠れて、小さな姿で描かれている。
源氏と紫の上は顔を少し前に傾け、袖で顔を隠して、涙を抑えるようなしぐさをしている。しかし、死別の悲しみの表現は抑制されている。

この絵の鑑賞者は、物語の中で読まれた和歌を知っていることが前提になっている。

おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩の上露 (紫の上)

ややもせば 消えをあらそふ 露の世に 遅れ先だつ ほど経ずもがな (光源氏)

秋風に しばしとまらぬ つゆの世を 誰か草葉の 上とのみ見ん (明石の中宮)

「御法」の左側に描かれているのは、この3つの和歌に描かれている萩、その上の露、草葉など、野分の風に揺らぐ庭の様子である。

デジタル復元された「御法」は色彩豊かで、草の様子がよりはっきりと見える。

秋の風に吹かれて弱々しく揺れる荻、薄、おみなえしなどは、三人の悲しみの表現となり、室内の人物の心を描き出していると言うこともできる。

日本的な伝統では、このように、山川草木の姿が、そのまま人の心の表情として表現され、そのように理解する心持ちが出来上がっていた。

ヨーロッパ的感性 ー 象徴的理解

フラ・アンジェリコの「受胎告知」(サン・マルコ寺院)でも、右側が室内で、左には庭が描かれている。つまり、「御法」と同じ構図。

室内の二人の女性は、聖母マリアと天使ガブリエル。天使がマリアに懐妊を告げる、その瞬間が捉えられている。
対面する二人は両手を前に組み、受胎告知に相応しい、敬虔な様子が感じられる。

左側を占める庭園は、塀によって二つに区切られている。
手前はよく手入れされ刈り込まれた草と、淡い緑に彩りを添える質素な花。
塀の向こうは荒々しい木々が並び、前景とは対象をなしている。

手前の庭は室内から続く空間であり、マリアのいる現実と地続きだとすると、塀の向こうは天使が降ってきた天上を象徴していると考えられる。

この庭の草花は、日本の伝統とは違い、マリアの感情を表現しているのではない。地上と天上の象徴であり、二つの次元の対比を表している。その意味で、人間の心と繋がり、感情を表現するものではない。

ヨーロッパの伝統では、自然と人間とは切り離された存在であり、自然を描くことがそのまま人間の感情を表現するものではないことが、フラ・アンジェリコの「受胎告知」を『源氏物語絵巻』の「御法」と比べてみることで、よく理解できるだろう。

風景と心象

フランスでは、19世紀のバルビゾン派や印象派の絵画で、自然の風景が数多く描かれた。
ところが、その際、風景が人間の心のあり方を反映しているという議論は起こっていない。絵画の歴史の中で、自然の光景が心象風景と見なされることはなかったといってもいい。

19世紀半ば、自然の風景を写実的に描いた画家テオドール・ルソーの代表作「アプルモンの樫」。

Théodore Rousseau, Les Chênes d’Apremont 

画面の中央に置かれた雄大な木々。その上には青い空に白い雲が浮かぶ。
木々の下には牛たちが木陰で休んだり、真夏の暑い日差しの中、水の飲んだりしている。
その影の小ささは、太陽が真上にあり、正午に近いことを示している。
この絵画が与える印象は実際の風景の写生であり、画家の感情が込められているようには見えない。

こうした中で、文学では、自然を使い人の心の状況を描くことが、19世紀初頭のロマン主義の時代に流行した。
その典型は、ラマルティーヌの「湖」で描かれた湖の岩や波だろう。
https://bohemegalante.com/2019/03/18/lamartine-le-lac/

さらに遡ると、18世紀後半のジャン=ジャック・ルソーがスイスの湖の畔で経験した、自己と自然の一体化体験に行き着く。
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/

詩の世界では、19世紀後半のヴェルレーヌが、心模様と外界の雨と対応を、有名な「巷に雨が降る如く」の中で歌った。

Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville ;
Quelle est cette langueur
Qui pénètre mon coeur ?

巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん? (掘口大學訳)

https://bohemegalante.com/2019/07/26/verlaine-ariettes-oubliees-iii/

もしも、日本人にとって当たり前の「自然と心の対応」が、ヨーロッパ的感性にとっては特殊だとしたら、二つの文明のあり方を知る上で非常に興味深いテーマだといえる。

日本では『万葉集』の時代から、山川草木が人の心の表現であった。
この現象は決して擬人化ではなく、人間と自然がウチの関係にあったからだと考えた方がいいだろう。
https://bohemegalante.com/2019/10/25/monono-aware/2/

そのことを頭に置いた上で、酒井抱一の「夏秋草屏風図」を見てみよう。

酒井抱一、夏秋草屏風図

一陣の風が秋草を揺らし、蔦の紅葉を空中に舞わせている。大きく空いた中央の部分には、銀箔の上に墨で微妙な陰影が施され、右上の水の流れとともに、全てが時と共と運びされれる儚さが漂っている。そして、時の流れの無情さに由来する「あわれ」の感情が伝わってくる。
そこで、私たちはこの絵を屏風絵を見て、草花に「御法」と同じ感傷が込められているのを感じるのである。

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