ラマルティーヌ「湖」Lamartine « Le Lac » ロマン主義的抒情 

1820年に発表されたラマルティーヌの「湖」« Le Lac »は、ロマン主義的抒情詩の典型的な作品。この詩を読むと、フランス・ロマン主義の本質を知ることができる。

詩の内容は、失われた幸福を懐かしみ、それが失われたことを嘆くというもの。
昨年、愛する人と二人で幸福な時を過ごした。その湖に今年は一人でやってきた。時は否応なく過ぎ、幸福な時は失われてしまった。その悲しみを抒情的に歌う詩である。

「湖」は、4行の詩節が、16節に渡って展開する。
詩人は湖に向かい、昨年の幸福と今年の悲歎を語り、否応なく時に流される人間の運命を嘆く。その時、メランコリーに満たされた叙情性が生まれる。

マリア・カザレスの朗読は、その感情をこの上もなく見事に感じさせてくれる。とても抒情的で、詠嘆調。

第1詩節では、詩のテーマが設定される。
時間は常に流れていき、決して止めることはできない。

Ainsi, toujours poussés vers de nouveaux rivages,
Dans la nuit éternelle emportés sans retour,
Ne pourrons-nous jamais sur l’océan des âges
Jeter l’ancre un seul jour ?

こんな風に、いつでも、新たな岸辺に押し流され、
永遠の夜の中に運ばれ、戻ることができない。
私たちは、決して、年月という大海に、
錨を降ろすことはできないのか。たった一日でも。

ラマルティーヌが頭に描いている湖は、エクス・レ・バンにあるブルジェBourgetの湖と言われている。

詩の読解は、この湖の岸辺に打ち寄せる波を感じることから始まる。
そのリズムは、2/10.Ainsiという2音節が短い波。toujours poussés vers de nouveaux rivagesという10音節が長い波。そうした波が、絶えず(toujours)、私たちを新しい岸辺に押し流す。

ここで大切な言葉は、「新しい」nouveaux。
波の動きは反復しているように見えるが、常に新しい岸辺に向かう。
そうした時の流れが、第2詩行の最後に置かれた「決して戻らない」sans retourで確認され、強調される。

さらに、第3詩行の最後に、「年の大海原」l’océan des âgesとあり、波が時間の隠喩であることが示される。
時は永遠に流れ続け、決して戻ることはない。時間の流れる現実世界では、全てのものがいつか失われる。そして、永遠の夜へと運ばれていく。

そんな無情な時間という波の中で、一瞬でもいいから時を止めることはできないだろうか。
もちろんそれは不可能。それが十分にわかっているにもかかわらず、「時よ止まれ」と願うところから、この詩の叙情性が生まれる。

この第1詩節は、時間は過ぎ去り、決して戻らないという詩全体の基礎となる思想を、湖に打ち寄せる波のリズムに乗せて表現する、美しい詩節である。

ところで、この詩がフランス・ロマン主義の代表と見なされていたことは、アルチュール・ランボーのパロディによって明らかになる。

ランボーは、「花について人が詩人に語ること」« Ce qu’on dit au poète à propos des fleurs »の冒頭で、「湖」の冒頭の詩句「こんな風に、いつでも」« Ainsi, toujours, »を再現し、その後、ロマン主義とは正反対の詩句を連ねた。

Ainsi, toujours, vers l’azur noir
Où tremble la mer des topazes,
Fonctionneront dans ton soir
Les Lys, ces clystères d’extases !

こんな風に、いつでも、黒い紺碧の方へ、
そこではトパーズの海が震えている。
その方向に向かい、夜の間に機能するのは、
百合の花。恍惚感を吐き出させる浣腸。

百合の花Lysは詩の隠喩。ランボーは、ロマン主義の詩なんて、恍惚感を催させる浣腸だ!と言い放つ。とても烈しい! ランボーでないと、ロマン主義を代表する詩を浣腸などとは言えない。
他方で、Ly – clyで言葉遊びをし、lys(百合)-clystère(浣腸)を同一化する。そのことによって、烈しい内容を表現する。
それと同時に、lys, clys, extaseというロマン主義の核となる言葉の連続が音楽性を作り出す。
そのがランボーのすごさであり、面白さに他ならない。


第2−3詩節は湖に対する詩人の呼びかけ。彼女の不在を嘆きながら、思い出として、彼女が存在していた昨年の状況を描き出す。

Ô lac ! l’année à peine a fini sa carrière,
Et près des flots chéris qu’elle devait revoir,
Regarde ! je viens seul m’asseoir sur cette pierre
Où tu la vis s’asseoir !

おお、湖よ。一年がもうじき過ぎようとしている。
この愛しい波を、彼女は再び目にするはずだったのに、
見てくれ。ぼくは一人やってきて、この岩の上に座っている。
ここに彼女が腰を下ろした姿を、お前も見たのに。

「おお、湖よ」Ô lacという呼びかけは、抒情性を高める効果を持ち、「見よ!」Regardeという命令が、感情の高まりをさらに盛り上げる。
昨年は幸福な時を過ごし、今年もまた再会を約束していたのに、彼女の姿はない。私は一人で、孤独に同じ景色を見ている。
そうした内容を、呼びかけや命令形を使い、読者に実感できるように表現している。

その一方、一年前の出来事が、もう遠い昔のことのようにも感じられる。
ラマルティーヌは、その感覚を表現するため、動詞の時制を最大限に活用した。

第1詩行は、l’année a finiと複合過去形。(内容的に言うと、現在完了と言った方が相応しい。)複合過去は、現在において完了したことを示す時制で、avoirの現在形が現在時制に属することを示し、avoir finiが完了を示す。その時制によって、一年が完了したことを示すと同時に、「私」は現在に位置していることがわかる。

第2詩行にあるelle devaitは半過去形。過去における現在を示し、一年前の時間に位置する。つまり、一年前には、彼女がもう一度この岸辺に戻り、この波を見ることになっていた。

第3詩節は、regardeという命令形(現在)と、je viensという現在形。現在に属する。

第4詩節のtu la visは単純過去形。この過去は、語り手の現在と切り離され、歴史のような一般的な過去の事件を示す。
湖に向かって、彼女がここに座るのを見た(tu la vis)と言うとき、一年前の出来事は、詩人の直接の体験であるよりも、歴史や物語ように、遠い過去の出来事として語られるのである。

代名詞の使い方にも注目しよう。
この詩の中では、愛する人は決して名指されず、最初からelleとしか言われない。elleを誰と名指す必要がないほど、彼女が詩人の心の中、頭の中に宿った存在であることが、そのことによって表現されている。

彼女の不在を確認するだけの内容の第2詩節だが、ラ・マルティーヌは時制や代名詞を最大限に活用し、詩的効果を高めている。

Tu mugissais ainsi sous ces roches profondes,
Ainsi tu te brisais sur leurs flancs déchirés,
Ainsi le vent jetait l’écume de tes ondes
Sur ses pieds adorés.

(湖よ)お前は深い岩礁の足元で、こんな風に、声を上げていた。
こんな風に、岩礁の引き裂かれた懐の上に砕けていた。
こんな風に、風が波の泡を投げ掛けていた。
彼女の愛しい足の上に。

動詞は全て半過去。mugissait, brisait, jetait.その時制で表されるのは、過去の状況。
単純過去は、舞台の前景で行われる行動を物語る。半過去は背景となる情景を描く。
第2詩節の最終行(tu (le lac) la vis s’asseoir)で単純過去が使われ、彼女が湖の畔の岩の上に座るのを見るという過去の行動が示された。
第3詩節では、昨年彼女と一緒に湖にいたときの情景が、半過去を使い、絵画のように描き出される。

Ainsiは、第一詩節の最初の言葉。ここではその言葉が3度反復される。ちょうど、打ち寄せる波のように。
永遠に波は岸辺や岩礁に打ち寄せる。こんな風に(ainsi)。

岩礁に関して、二行目でleurs flancs(脇腹、懐)という人間の体の一部を指す単語が使われた。これは湖の人間化して、波の動きを人間の鼓動と重ねるためと考えられる。その湖に、愛する彼女が昨年は足を浸していた。

こうして人間化された空間は、五感を持って捉えられることになる。mugir(声を上げる)は聴覚。se briser(砕ける)は視覚。jeter l’écume (…) sur ses piedsは触覚。従って、第3詩節で描かれる絵画は、客観的な情景描写というだけではなく、読者がその風景を五感を通して感じる、感覚的な側面を持っている。


第4−5詩節には、フランス・ロマン主義のエッセンスがつまっている。

Un soir, t’en souvient-il ? nous voguions en silence ;
On n’entendait au loin, sur l’onde et sous les cieux,
Que le bruit des rameurs qui frappaient en cadence
Tes flots harmonieux.

ある夕のこと、(湖よ)お前は覚えているか、私たちの船は音もなく進んでいた。
遠く、波の上、空の下で、聞こえてくるのは
船を漕ぐ音。リズミカルに、
調和した波を打つ。

ある夕のこと(Un soir)は、今まで描かれてきた情景から、何かが起こるときのきっかけになる言葉。これから、何かが始まる。

しかし、第4詩節では、動詞(voguions, entendaient, frappaient)は全て半過去形で、まだ何かが起こるわけではなく、状況を描く描写が続いている。
この4行の詩句は、ut pictura poiesis(詩は絵画のように、絵画は詩のように)を実現している。つまり、言葉によって絵画的な風景を描き出す。

ロマン主義的な要素として最も重要な言葉は、「覚えているか」t’en souvient-il。過去を思い出す行為こそ、抒情の源泉である。思い出とは過去の出来事ではなく、消え去った過去に対する「現在の感情」に他ならない。その感情がベースになり、不在、喪失、欠如、今ここにないものに対する憧れが生まれる。
しかも、憧れの対象に決して到達することはできない。その思いがメランコリーを生み出し、ロマン主義的な叙情性の起源となる。

第2詩句に出てくる「遠くに」au loinは、恋人たちが他の船から遠く離れ、二人だけでいることを示している。そして、二人は何も語らず(en silence)、遠くから聞こえる船を漕ぐオールの音だけが、静かな空間に響く。

リズミカルに(en cadence), (調和のとれた)harmonieuxは、宇宙の星々が奏でる天球の音楽を思わせる。こうした表現によって、現実の湖が理想の世界へと変容していく。

Tout à coup des accents inconnus à la terre
Du rivage charmé frappèrent les échos ;
Le flot fut attentif, et la voix qui m’est chère
Laissa tomber ces mots :

突然、地上で耳にしたことのない声が、
魔法にかけられた岸辺にこだました。
波が聞き耳を立てた。そして、愛しい声が、
こうつぶやいた。

突然(Tout à coup)は、出来事が始まる合図。実際、この節では、全ての動詞が単純過去で、出来事が順番に物語られていく。
こだま(les échos)が岸辺を打ち(frappèrent)、波が注意深くなり(fut attentif)、愛する人が言葉を漏らす(laissa tomber)。

愛する人は現実の女性でありながら、しかし、この時点で理想化されている。
彼女の声は地上では聞いたことのないもの(inconnu à la terre)で、その声に湖の岸辺さえ魅了される(charmé)。(charmerは本来魔法にかけるという意味。)

昨年、彼女と一緒に過ごした時間は現実だった。しかし、今、思い出すときには、理想化された時間、空間となる。

第4−5詩節で表現されたのは、決して到達できない理想へのメランコリックな憧れ。それこそ、フランス・ロマン主義的な抒情の核となる感情である。


第6詩節から第9詩節では、愛する人が話を始める。彼女の言葉は、時間に対して呼びかける、抒情的な祈りである。

Julie Charles

« Ô temps ! suspends ton vol, et vous, heures propices !
Suspendez votre cours :
Laissez-nous savourer les rapides délices
Des plus beaux de nos jours !

時よ! 飛び去らないで。そして、お前たち、幸福な時よ!
流れていかないで。
すぐに消え去ってしまう至福を味わわせておいて。
私たちの最も美しい日々を!

第6詩節の動詞は全て命令形(suspends, suspendez, laissez)に置かれ、時間に対する呼びかけが叙情性を帯びている。
「飛び去らないで。」「流れを止めて。」「味わわせておいて。」と呼びかけられた時間。その時間は、vol(飛翔)、cours(流れ)という名詞によって、飛び去り、流れてしまうことが示される。
幸福な時(heures propices, les plus beaux de nos jours)は束の間しか続かない。至福はすぐに(rapide)過ぎ去り、心ゆくまで味わうことはできない。

« Assez de malheureux ici-bas vous implorent,
Coulez, coulez pour eux ;
Prenez avec leurs jours les soins qui les dévorent ;
Oubliez les heureux.

この世に生きる多くの不幸な者たちが、時間に向かって祈りを捧げる、
過ぎ去ってくれ、過ぎ去ってくれと。彼等のために。
彼等の日々と共に、彼等を苦しめる心配を取り去ってあげて。
でも、幸福な者たちのことは忘れて下さい。

第7詩節でも3つの動詞(coulez, prenez, oubliez)は命令形で、時間に向かっての呼びかけが行われる。
最初の3行では、不幸な人間にとっては、時間は過ぎ去って欲しいものであることが示される。
その反対に、最後の一行で、幸福な人間たちは時間の流れから逃れたい、という望みが表現される。

幸福な者たちも時間の流れの中に生きていて、それを止めることはできない。それにもかかわらず、自分たちを忘れて欲しいという不可能な望みを、時間に投げ掛けるのである。

« Mais je demande en vain quelques moments encore,
Le temps m’échappe et fuit ;
Je dis à cette nuit : Sois plus lente ; et l’aurore
Va dissiper la nuit.

だめだとわかっていても、もうしばらくこのままでいたい。
時は私からすり抜け、逃げ去っていく。
私は夜に向かって言うの。もっとゆっくりって。でも、曙が
夜を消していくでしょう。

私たちは夜の中にいる。その間は何も見えず、聞こえず、幸福感に浸されている。しかし、時間は否応なしに流れ、朝がやってくる。

«  Aimons donc, aimons donc ! de l’heure fugitive,
Hâtons-nous, jouissons !
L’homme n’a point de port, le temps n’a point de rive ;
Il coule, et nous passons ! »

だから、愛し合いましょう。だからこそ、愛し合いましょう! この逃げ去っていく時を、
大急ぎで、楽しみましょう!
人間には港がなく、時間には岸辺がありません。
時は流れ、私たちも過ぎ去っていきます!

第9詩節になると、3つの感嘆文(aimons ! jouissons !, passons !)が続き、抒情性が強く打ち出される。

時間は否応なく過ぎ去る。だからこそ、その時間を楽しむという思想は、ルネサンス期にロンサールによって歌われた「愛しい人よ、さあ、バラを見に行こう」のテーマ、「時間の喪失」(la fute du temps)の再現。

しかし、同じテーマでも、時代によって扱いが違い、意味することが違う。
ロンサールは「愛しい人よ、さあ、バラを見に行こう」の中で、Carpe diem(その時をつかめ)という思想を表現した。過去や未来を考えるのではなく、今という時を生きること。今を充実させること。
他方、ラマルティーヌでは、Carpe diemは中心的な主題にならない。過ぎ去った過去を思い出として甦らせる。そこで生まれる喪失感がメランコリーとなり、抒情的な感情を生み出す。
その違いを理解することで、ロマン主義がよりよく理解できるようになる。


第10詩節からは再び詩人の語りになる。しかし、以前の描写的な表現とは異なり、詩人も彼女の祈りに感染したかのように、抒情的な表現へと傾いていく。
実際、第10−11詩節では時間に、第12詩節では永遠、虚無、過去、暗い深淵に、そして第13詩節では、湖や岩、洞窟、森に向けて、抒情的な呼びかけが行われる。

Temps jaloux, se peut-il que ces moments d’ivresse,
Où l’amour à longs flots nous verse le bonheur, 
S’envolent loin de nous de la même vitesse
Que les jours de malheur ?

嫉妬深い時よ。この陶酔の時、
愛は、ゆったりとした波のように、私たちに幸福を滴らせせてくれる。
なのに、そんな陶酔の時でさえ、私たちから遠く離れたところに、飛び去っていくのだろうか。
不幸な時と同じ早さで。

時が嫉妬深いというのは、二人の幸福を嫉妬して、時間が流れ去るという意味。
長い波(à longs flots)のlongは、court(短い)との対比で、ゆっくりと流れる時のイメージを波で表現している。
それは、ivresse(酔い)とか、忘我(extase)につながる時間だといえる。
そんな時間(非時間=永遠)も、現実にいる限り、流れ去って行く。

Eh quoi ! n’en pourrons-nous fixer au moins la trace ?
Quoi ! passés pour jamais ! quoi ! tout entiers perdus !
Ce temps qui les donna, ce temps qui les efface,
Ne nous les rendra plus !

ああ、なんということだろう! 私たちは陶酔の時の痕跡さえ留めることができないのか。
なんということだろう! 永遠に過ぎ去ってしまった! なんということだろう、完全に失われてしまった!
陶酔の時を与えてくれたこの時よ。陶酔の時を消し去っていくこの時よ。
お前は、その陶酔を、もう二度と私たちには返してはくれないだろう!

この詩節は、ロマン主義を理解する上で、最も重要であり、かつ最も分かりやすい詩句だといえる。
ロマン主義は、失われたもの(消失)、今ここにないもの(不在)に対する憧憬に基づいている。そして、渇望するものを決して手に入れることができないところから、メランコリックな感情が発生する。
そのためには二つの条件が必要となる。
1)対象が失われていること。
2)その痕跡があること。痕跡とは、失われたものの思い出。

第11詩節で、この条件がはっきりと示される。
まず、la trace(痕跡)という言葉。大切なのは、過去の事実ではなく、過去を思い出すこと。その思い出は、現在における過去の幻。決して存在することはない。

第2詩行で、過去の陶酔が完全に失われてしまっていることが、passé, perduという動詞の過去分詞を使って強調される。

3−4詩行では、時制によって、時間の推移が具体的に表現され、読者は時の流れを実感する。
最初のdonnaは単純過去形。すでに終わってしまい、今の私とは切り離された時間であることが明示される。
複合過去形のa donnéは、現在の時点で完了していることを示す。従って、現在という時間滞の出来事。
その過去を示した後、現在形(efface)を使い、今、時間が流れていることを感じさせる。
最後に単純未来形(rendra)。その時制によって、過去、現在、未来という時間の流れを表現する。
こうして、時間が否応なしに流れていくことが、時制の使い分けによって見事に示されている。

こうして時間が流れるおかげで、過去が消え、その痕跡ができ、思い出によるメランコリックなリリスムが生まれる。それがロマン主義の基本的な構図である。

第12−13詩節でも、呼びかけ、疑問形、感嘆文が多く使われ、詠嘆調で、叙情性が強調される。

Éternité, néant, passé, sombres abîmes,
Que faites-vous des jours que vous engloutissez ?
Parlez : nous rendrez-vous ces extases sublimes
Que vous nous ravissez ?

永遠よ、虚無よ、過去よ、暗い深淵よ、
お前たちは、お前たちが呑み込んでいくその日々をどうしようというのか?
言ってくれ。私たち二人に、あの崇高な忘我を、いつか返してくれるだろうか。
お前たちが私たちから奪っていくあの忘我を。

最初に呼びかけられている4つの単語は、全て現実の次元とは異なる次元を思わせる。
永遠と虚無は一見対立するようだが、現実を超越した次元という意味では共通している。
過ぎ去った時間は、そうした非時間の中に呑み込まれてゆく。
ここで詩人は、忘我(extase)の時間を戻してくれるのかと、未来形の疑問形で尋ねる。この疑問文は反語的で、過ぎ去った時間は戻って来ないということを前提にしている。従って、ここでも、過ぎ去る時間(la fuite du temps)のテーマが前提となっていることがわかる。

Ô lac ! rochers muets ! grottes ! forêt obscure !
Vous, que le temps épargne ou qu’il peut rajeunir,
Gardez de cette nuit, gardez, belle nature,
Au moins le souvenir !

おお、湖よ! 物言わぬ岩よ! 洞窟よ! 暗い森よ!
時間はお前たちを見逃してくれるのか、あるいは若返らせてくれるのか。
お前たちに頼みたい。ああ、美しい自然よ、この夜の
思い出だけでも保ってくれ。

フランス語では、大切な要素は文の後に置かれる。
第13詩節では、思い出(le souvenir)が最後に置かれ、ロマン主義的な叙情性の本質が示される。すでに指摘したように、思い出は現在の意識。思い出すことは、今の時点で失われたものを喚起すること。それに強く惹かれることで、メランコリーが発生し、抒情が生まれる。
その過去は理想の時であり、時間がいやおうなく流れることで、現在も喪失の時となる。逆に言えば、不在の時、喪失の時だからこそ、そこにないものを思い、それにあこがれる。こうした不在と思い出の関係が、ロマン主義の最も本質的な機構である。

「湖」の中では、そこに自然という要素が付け加えられる。
自然は文明と対立し、そこから二つの考え方が生まれれる。
1)文明は進歩。
これは合理主義、科学主義の考え方。19世紀の初頭には産業革命があり、進歩は蒸気船、蒸気機関車によって象徴された。
2)文明は退化。
ルソーによって主張されたように、人間の最も幸福な時は原初の時代であり、文明が進むにつれて人間は堕落すると考えられる。
単純化した言い方だが、ルソーの「自然に帰れ」という言葉が、この考え方の標語となる。

「湖」の最初、昨年一緒に過ごした女性は、今年はいないという状況が示された。次に、湖の自然は昨年のままだと言われた。第13詩節ではその二つのテーマが再び取り上げられ、詩人は「思い出」という言葉で、ロマン主義的な抒情を表現する。
そして、こうした詩句が、崇高な忘我(ces extasses sublimes)を読者に感じさせるように導く。


第14詩節から3つの詩節に渡り、さらに詠嘆が強まる。
そのために、ラマルティーヌの悲歎が読者に伝わり、私たちも彼の抒情世界に入り込むことになる。

Qu’il soit dans ton repos, qu’il soit dans tes orages,
Beau lac, et dans l’aspect de tes riants coteaux,
Et dans ces noirs sapins, et dans ces rocs sauvages
Qui pendent sur tes eaux.

Qu’il soit dans le zéphyr qui frémit et qui passe,
Dans les bruits de tes bords par tes bords répétés,
Dans l’astre au front d’argent qui blanchit ta surface
De ses molles clartés.

Que le vent qui gémit, le roseau qui soupire,
Que les parfums légers de ton air embaumé,
Que tout ce qu’on entend, l’on voit ou l’on respire,
Tout dise : Ils ont aimé !

お前(湖)が休息しているときも、嵐の時も、
美しい湖よ、気持ちのいい斜面を目にしながら、
暗い樅の木の中でも、湖面に垂れかかっている
荒々しい岩の中でも、

震え、通り過ぎる、西風の中でも、
岸辺から岸辺へと何度も打ちつける波の音の中でも、
お前(湖)の表面を、どんよりとした光で白く染める、
銀色の額をした星の中でも、

うめき声をあげる風、ため息をつく葦、
香の立ち篭めた大気の軽やかな香り、
聞こえ、見え、胸に吸い込むもの、
あらゆるものがこう言ってほしい、「二人は愛し合った!」と。

伝統的なフランス詩法においては、4行で一つの節を形成する詩節で、意味が完結しないといけないという規則があった。さらに一行ごとに文の要素がまとまっていることが原則だった。しかし、ここでは、フレーズは終わらず、12行の詩句が一つの文になっている。
その中で、主語と動詞は、最終行の「あらゆるものがこう言ってほしい」(tout dise)。その前の第14−15詩節では、その条件が示され、第16詩節の3行は「あらゆるもの」(tout)の内容だった。
こうした構文のために、様々な言葉が重ねられながら完結せず、その言葉の畳掛けが、詩人の息せき切った心の鼓動が伝わってくる。実際、qu’il soit, qu’il soit, dans… et dans … de dans…が連続し、「二人は愛し合っていた。」という思い出がかき立てる感情を高めている。

その感覚を味わう最もよい方法は、マリア・カザレスの朗読を聞くことだろう。息せき切った感じがひしひしと伝わってくる。

第14ー15詩節のQue+接続法は、「・・・であろうと」という条件を意味する。
第14詩節では、対立する状態ー静寂と嵐、明と暗、木(生物)と石(無性物)ーが描き出され、どんな状態であろうともという条件だけが示され、文が続く。
第15詩節では、西風、波、星に言及される。前の詩節で言及されたものが現実の自然のいろいろな姿だったのに対して、地上から天上へと詩人の思いは高まっていく。そのために、「美しい湖よ」と呼びかけられた湖は、白い光を通して銀色の星との繋がりが暗示される。
そして、ここでも文は終わらず、渇望の対象が何かわからないまま、その渇望の強度だけが上昇する。

第16詩節の中に出てくるQue+接続法は、命令を意味する。Que tout diseが主語+動詞(接続法)で、全てが言うようにの意。
4詩行目の最初に置かれた全て(tout)という言葉が、風(vent)、葦(roseau)、香り(parfums)、聞こえ、見え、胸に吸い込むもの全てを受けている。

そして、64行に渡って繰り広げられた詩人の思いの最後に、全てのものが言うべき内容が明らかになる。« ils ont aimé.» 彼等は愛し合った。
この複合過去形を、第2詩節の« tu la vis s’asseoir. »の単純過去と比べると、二つの過去時制の違いが、この詩の中で最大限に活かされていることがわかる。
単純過去は、今とは切り離された過去の時点の出来事。
複合過去は、現在の時間の中で、完了した出来事。

従って、« ils ont aimé. »は、今では終わってしまった出来事の思い出ということになる。そのすでに存在していない愛を強く望んだとしても、時間が流れ全てを消し去ってしまう時間の中で、決して戻ってくることはない。
その不可能性がメランコリーを生み出し、決して達することができない理想へを憧れること。それがロマン主事的抒情の源泉である。

第14−16詩節の12行の詩句の高揚感が、読者の感情を高め、詠嘆的な抒情の世界へと導く。

ラマルティーヌの「湖」は、そうしたロマン主義的抒情を最も見事に表現した詩作品だといえる。

フランス語での解説サイト:


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