ネルヴァルの名刺(裏面) 「アルテミス」  Gérard de Nerval « Artémis »

アレクサンドル・デュマに渡した名刺の裏面に書き付けられた「アルテミス」では、オルフェウスによって暗示された神秘に関する、ネルヴァル的開示がなされる。
(名刺の表面に書かれた「エル・デスディチャド」を参照)
https://bohemegalante.com/2019/05/12/el-desdichado-carte-de-visite-nerval-endroit/

Apollon et Artémis

アルテミスは、ローマ神話ではダイアナと同一視され、狩りと月の処女神であるが、ギリシア神話の中では、ゼウスとレートーと間に生まれた子どもで、アポロンの双生児とされている。

名刺の表側の「私」がフェビュス(アポロン)であるならば、裏面にアルテミスの名前があることに驚きはない。

しかし、詩の内容は、ギリシア・ローマ神話とはかなり異質であり、謎めいている。「アルテミス」では、オルフェウス的詩人の神秘に関して、なぞなぞのようなゲーム感覚で詩句が展開する。

二つの神秘 :時間と男女

第1カトラン(4行詩)では、二つの謎と回答のヒントが提示される。

La Treizième revient… C’est encor la première ;
Et c’est toujours la seule, ou c’est le seul moment :
Car es-tu reine, ô toi ! la première ou dernière ?
Es-tu roi, toi le seul ou le dernier amant ?…

十三番目が戻ってくる。。。それはまた第一番目。
いつも変わらず唯一のもの、あるいは唯一の瞬間。
というのも、女王なのか、其方は! 最初の、あるいは最後の?
王なのか、其方は。ただ一人の、あるいは最後の恋人?

1.最初の謎かけ:時間

十三番目が一番で、それがさらにただ一つのもの、という謎かけ。
とても不思議ですぐには答えが出ない。そこで、ネルヴァルはヒントを準備する。それが瞬間(le moment)という言葉。
このヒントになる単語は男性名詞。それに対して、それ以前の序数についている冠詞は女性形。とすると、瞬間と対応する単語で女性名詞。このように考えると、時間(une heure)であることがわかる。

十三番目(la Treizième)というのは13時(13 heures)で、最初(la première)は1時。アナログ時計の文字盤を思い浮かべると、時計の針は1時から一周すると13時。同じ場所に戻ってくる。まさに、「十三番目が戻ってくる。。。それはまた第一番目」。

では、それがただ一つの時というのは、どういうことだろうか。
時間(heure)を当てる謎かけは、この本質的な問いへの導入に他ならない。答えのヒントは、「十三番目が戻ってくる」に隠されている。

そこで今度は、戻る(revenir)という動詞に注目しなければならない。
普通、時間は決して戻ることはないと考えられる。直進し不可逆的な時間意識。それに対して、時間が回帰するとは、日常的な常識を覆すことに他ならない。
他方、アナログ時計の文字盤は多くの場合円盤であり、その上を針が回転する。その針の先は時間を示す数をたどる。
そして、針の根元は時計盤の中央で一点に集中し、あたかも全ての時間の源のようである。それは回転軸上の時間の源。「いつも変わらず唯一の」時間とは、その原初的な時間を暗示している。

ネルヴァルはこの最初の謎かけで、神秘とは何か、私たちの告げようとしたのではないか。
現実世界の時間は、直線的で不可逆な流れとして捉えられる。大人が子どもに戻ることはなく、死の後の再生もない。一度起こったことは取り戻せない。
神秘とはそうした常識を覆すものに他ならない。神秘的な出来事は、特別なことでありながら、特別なことではない。私たちの現実感覚には適合しない現象を、私たちは神秘と呼ぶ。

オルフェウスは地獄に降り、そこから戻る。それは死と再生の過程である。その後、彼はオルフェウス教を広める。その教義の中心は、輪廻転生と言われる。肉体は死ぬが魂は不滅であり、別の肉体の中で生を続ける。修行の目的は肉体という監獄から最終的な解脱であり、そのために秘儀的な通過儀礼が課す厳しい試練を受ける。入信者は、オルフェウスの死と再生を反復すると言ってもいいだろう。

ただし、試練の過程でその意味を知ることはできず、秘儀は不可解で不可思議なものと見なされる。
「アルテミス」が書かれたと推定される1853年の秋、ネルヴァルはジョルジュ・サンドに精神の異常をきたした状態を示す手紙を送った。その中で、ギリシアのアテネに近い小都市エレウシスで行われた秘儀の式文に言及した。
「我は太鼓から食し、シンバルから飲んだ。」
この謎の言葉に対して、「シルヴィ」の作者は、「はっきりとわかる意味は欠けている。」とした上で、「必要な時には、無意味なことや馬鹿げたことの境界を越えなければならない。」という解釈を加えた。
死後の再生、輪廻転生等も常識では考えられない不条理なことであり、時間の回帰もその中に加えられる。それらは、現実感覚に適合しないという意味で、神秘に属する。

2.二番目の謎かけ:男女

一つ目の神秘は時間に関係していたが、二つ目の神秘は男女の区分に関するなぞなぞである。
「女王なのか、王なのか」と問いかけるとき、その相手は誰なのか。
ここでも、最初の(la première)、最後の(la dernière)、最後の(le seul)の後の名詞が隠されている。
そして、ヒントが最後に置かれる。唯一の恋人(le seul amant)。
問いかけられた相手(tu)は、女性にせよ、男性にせよ、恋人なのだ。

では、問いかけられた相手(tu)は、同じ人なのか、別の存在なのか。つまり、女王に問いかけ、王の問いかけているのか。それとも、女王なのか王なのかと、一人の人間に問いかけているのか。
謎のヒントは、時間に関するクイズにある。1時、13時、そして全ての時間の起源となる唯一の時という考え方を適用すると、最初の恋人、最後の恋人、全ての恋人の起源となる唯一の恋人という発想が浮かぶ。

ここでの神秘は、男女の区別であり、その現実的な概念に従わないことにある。相手が最初の人なのかも最後の人なのかわからないという時間的な順番を超え、男なのか女なのかもわからない。

この謎は、実は、錬金術から来ている。錬金術とは、非金属を金に変える術であり、非金属と金の絶対的な差に変更を加えるという意味で、神秘的な術と考えられる。

ネルヴァルは、先に言及したジョルジュ・サンド宛の手紙の中で、エレウシスの秘儀で使われる呪文を書きつけた後、錬金術の石である「ボローニャの石」に出てくるルキウス・プリスクス(LUCIUS PRISCUS …)という名前を、自分のサインのように記していた。

ボローニャの石

「ボローニャの石」の碑文は、神々の魂に捧げる(D. M. )という題名が付けられ、アエリア・ラエリア・クリスピス(AELIA LAELIA CRISPIS)とルキウス・アガト・プリスキウス(LUCIUS AGATHO PRISCIUS)という二つの固有名詞が上げられ、それぞれに説明が加えられている。
アエリアは、「男でも、女でも、両性具有でもない」で始まり、娘でも若くも年寄りでもないなど、全ての属性を否定する言葉が続く。そして、最後に、「それら全てである。」と結論付けられる。
ルキウスも同様に、「夫でも、恋人でも、親戚でもなく」の後も否定が続き、その後、墓石と遺体がどちらでもなく、どちらでもあるという謎の文で終わる。

ネルヴァルは、意図的に「アルテミス」の詩句を謎めいたものにし、「ボローニャの石」の碑文と同じほど解釈を難しくした。
詩人がそのことに自覚的であったことは、アレクサンドル・デュマに渡したのではないかと考えられる「ロンバール原稿」を見ると推測できる。
そこでは詩の下に、次の様な言葉が見られる。

理解できないですか!。。。以下を読んでください。/神々の魂に。— ルキウス・アガト・プリスキウス/夫でもなく/ジェラール・ド・ネルヴァル

この記述は、「ボローニャの石」の碑文が、「アルテミス」の第3—4行詩句の下敷きになっていることを証明している。

全ての否定を超越した総合という観点からすると、女王か王かと呼びかけられる相手は、一人だと考えてもいいだろう。
男性でも女性でもなく、最初でも最後でもなく、それら全てである存在。唯一の時に対応する、唯一の存在だといえる。
そこで、第三詩行の冒頭に置かれた「なぜなら(car)」という言葉は、「起源の時」と「起源の恋人」の対応関係を示し、両者とも、唯一者が多様な展開をするという原理に基づいていることの暗示となっている。多は一であり、一は多なのだ。

エンブレムの薔薇 立葵

第2カトランでは、愛、死、薔薇へと主題が次々に変化し、最後に「アルテミス」のエンブレムが示される。

Aimez qui vous aima du berceau dans la bière ;
Celle que j’aimai seul m’aime encor tendrement :
C’est la mort, ou la morte… O délice ! ô tourment !
La rose qu’elle tient, c’est la Rose trémière.

愛せよ、あなたを愛した人を、揺り籠から棺桶まで。
私だけが愛した女(ひと)は、まだ私を優しく愛している。
死なのか、死女なのか。。。おお、甘美な喜び!おお、激しい苦しみ!
彼女が手にする薔薇は、立葵。

1.再生と愛の神秘

愛のテーマは、第一カトランの最後の一語「恋人(amant)」から続くものでる。
そこでは、女王あるいは王は、最初の、最後の、あるいは唯一の恋人。その恋人は« toi »と呼びかけられていたが、今度は« vous »になり、あなたを愛した人を愛するように要請する。

その際、揺り籠から棺桶までという時間的な限定が付されているように見えるが、詩人はあえて曖昧さを生み出している。
「生まれた時から死の時まであなたを愛した人」を愛するのか。あなたを愛した人を「生から死まで愛する」のか。
前者であれば、あなたはすでに棺桶に入ったことになり、死んだ存在である。

後者の場合には、生まれてから死ぬまで一生の間という意味で、解釈としては問題がない。
しかし、ネルヴァルはあなたを愛した(aima)という動詞の時制を単純過去にし、共存しないはずの二つの時間帯を一つに結びつけている。

フランス語の単純過去は、エミール・バンヴェニストの用語を使えば、「歴史」モードに属する時制であり、語られた出来事が話者の現在とは断絶し、歴史的な時間帯に属すことを示す。従って、現在の時間帯とは切り離された、過去の時間帯を示している。

それと同時に、一人称の代名詞とは相性が悪い。一人称とともに使用される文学テクストの中では、「私」はあたかも第三者の「彼」であるかのような印象を生み出す。
第6詩行の« J’aimai »はその例である。「私が愛した」のは、過去の歴史的な時間帯の中であり、今とはつながらない。それなのに、愛した女性が今でも私を愛している(m’aime)という。
ここで詩人は、動詞の時制の特性を活かし、断絶した二つの時間を繋げていることになる。

過去は、あなたを愛した人と私が愛した女性の時間帯。
今は、愛せよと命じ、ずっと愛しているという確認の時間帯。
その二つの時間帯の関係は、過去の回帰、あるいは時間の永続性を暗示していると考えてもいいだろう。

愛と時間の関係をネルヴァルがはっきりと意識していたことは、1853年11月のサンド宛の手紙によって確認することができる。
その手紙のエピグラフとして、彼はローマの詩「ヴィーナス祭りの前夜」から2行の詩を引用した。

Aime demain qui n’a jamais aimé
Et qui n’aima qu’une fois aime encor.
Pervigilium Veneris

明日になったら愛してくれ。決して愛したことのない人を
そして、一度しか愛さなかった人を、もう一度愛してくれ。

この詩句の中でも、愛する(aimer)という動詞は、命令(aime)、複合過去(a aimé)、単純過去(aima)に置かれ、明日(demain)、また(encore)という時間を示す副詞とともに、過去と現在という二つの時間帯が設定されている。そして、過去の愛が現在に再生し、永続することが歌われる。

そのことは「ヴィーナス祭りの前夜」の内容からも確認することができる。
その詩は、冬が終わり、春の復活を歌ったもので、自然が再生し、鳥や木々に愛が満ちあふれる様子が描かれている。愛のテーマも、時間の回帰と関係しているのである。

2.死と再生の神秘

第7行詩になると、死が出現する。なぜ? 

まず注目しなければならないのは、死のイメージが、苦痛と同時に、喜びをも生み出すことである。
「おお、甘美な喜び!おお、激しい苦しみ!」
これはまさに神秘が私たちに作り出す二重の感覚だといえる。
神秘は、私たちを恐れさせると同時に魅了する。恐れながらも引き寄せられてしまう。

ネルヴァルは、ナポリを舞台にした中編小説「オクタヴィ」の中で、魔女のような不思議な女に出会い、彼女から逃げ去ろうとするとき、「私を魅了し、恐れさせた亡霊」と記している。
また、死を青白い薔薇の冠を被った女性の姿でイメージし、死という言葉は何も暗鬱な考えを引き起こさなかったとしている。

死は、「アルテミス」の中では、回帰でもある。
タロット・カードの十三番は死あるいは死女。

冒頭の「十三番目」が戻って来たのだ。
死は生の終わりであり、一つの断絶を生み出す。
しかし、冬の後には春が再生し、愛が生物たちの間にみなぎる。
円環する時間の中では、死の後には再生がある。

さらに言えば、死がなければ、復活はない。ネルヴァルがしばしば取り上げた、古代エジプトの女神イシスの信仰、エレウシスの秘儀、オルフェウス教、ピタゴラス派、錬金術、フリーメーソン的な試練、キリスト教の復活祭等、全ては死と再生の循環という「神秘」に基づいている。死のイメージは、十三番目を回帰させ、死と復活の秘儀を暗示する役割を果たしている。

8行の詩句の最後、ネルヴァルは、「アルテミス」という詩のエンブレムを作り上げ、回帰をさらに巧みに印象付けることに成功した。
そのエンブレムとは、死女が手に持つ薔薇、「立葵」(la Rose trémière)である。

ネルヴァルはこの詩の後に執筆した「オーレリア」の中でも、立葵と死を結んだ美しいエピソードを語っている。
ある夢の中で、美しい女性が植物の生い茂る庭園と一体化し、立葵の長い枝を腕で抱きかかえながら、「彼女自身の偉大さの中に」消え去っていく。その光景を前にして、夢を見る「私」は、「自然があなたと共に死んでしまう。」と叫ぶ。

ネルヴァル的思考において、この死が決定的な終わりではないことは、「彼女自身の偉大さの中に消え去る」という表現から推測される。彼が信仰する女神イシスも姿を消す際に、同じ表現が使われている。その消滅は最終的な終末を意味するのではなく、次の出現の予告でもある。

しかし、「アルテミス」でそれ以上に重要なことは、薔薇につけられた« trémière »という形容詞が、回帰の象徴となることである。
この言葉を二つに割ると、« Tre/zième »の«Tre »と« Pre/mière »の« mière »。
つまり、十三番目であり、一番目であるものが、立葵(Rose trémière)となり戻って来たのだ。

このように、2つのカトランの最初の詩句が、最後の詩句の最後の言葉の中に凝縮され、回帰を美しい姿で描き出している。

「エル・デスディチャド」のエンブレムは「黒い太陽」だった。
「アルテミス」では「立葵」がエンブレムとなり、時間の回帰に基づく死と再生の神秘を美しく象徴するといえるだろう。

深淵の聖女の神秘

二つのテルセ(三行詩)では、薔薇と聖女が繰り返し出現する。

Sainte napolitaine aux mains pleines de feux,
Rose au cœur violet, fleur de sainte Gudule :
As-tu trouvé ta croix dans le désert des cieux ?

Roses blanches, tombez ! vous insultez nos dieux :
Tombez, fantômes blancs, de votre ciel qui brûle :
– La sainte de l’abîme est plus sainte à mes yeux !

手に炎が燃えさかる、ナポリの聖女よ、
聖ギュデュルの花、紫の花芯の薔薇よ、
あなたはご自分の十字架を、天の砂漠の中に見出したのですか。

白い薔薇たちよ、落ちてしまえ! お前たちは我らが神々を侮辱しているのだ。落ちてしまえ、白い亡霊よ、お前たちの燃えさかる空から。
ー 深淵の聖女は、私の目には、より神聖なのだ!

この6行の詩句のなぞなぞを解く鍵はどこにあるのか。あるいは、ここで明かされる神秘とは何なのか。

1.語句の反復

第2カトランの最後は、13番目=1番目の薔薇(Rose trémière)で終わった。その薔薇が2つのテルセでは中心的なイメージを形作る。

薔薇は古代ギリシアではヴィーナスの象徴であり、キリスト教では聖母マリアの象徴となる。
矛盾するように見えるが、ネルヴァルは「アルテミス」というギリシアの女神の名前を持つソネットの中で、キリスト教の伝統に従い、薔薇を聖女と関係付ける。神話の女神ではなく、キリスト教の聖女が2つのテルセで歌われる。
その理由を探ることで、なぞなぞが徐々に解けていくはずである。

ナポリの聖女は、先ず第一に、「エル・デスディチャド」と「アルテミス」を結びつける働きをする。
名刺の表側では、ナポリにあるポジリポの丘やイタリアの海、ブドウの枝と結ばれた薔薇が呼び起こされた。それらのイメージが、名刺の裏側では、ナポリの聖女と紫の花芯の薔薇という言葉で喚起される。

二つのテルセでまず目に飛び込んで来るのは、聖女と薔薇を中心として、同じ言葉が何度も戻ってくることである。しかも、その際、様々な次元でのヴァリエーションが施される。

聖女を意味するSainteは、ナポリの聖女、聖(女)ギュデュル、深淵の聖女と三度反復される。その上で、より神聖である(plus sainte)というように、形容詞としても使われる。

薔薇も二度姿を現すが、一方が紫の花芯を持ち、他方が白い。さらに、単数と複数という違いがある。

薔薇の白(Roses blanches)は、亡霊の白(fantômes blancs)として戻ってくる。こちらの違いは、女性形と男性形というヴァリエーション。
その二つは、どちらも「落ちてしまえ」という命令を受け、落ちる(tomber)という動詞も反復される。

このように、わずか6行の詩句の中で、数多くの単語が反復され、「十三番目が戻ってくる」で始まった回帰する時間が、言葉そのものによって実現されていることが確認できる。

2.皮肉と攻撃

第1テルセの薔薇は単数だが、第2テルセでは複数になる。
薔薇が聖女の象徴であれば、ナポリの聖女以外にも数多くの聖女が存在している、その複数化は個別の例から一般的な例へ移行だと考えてもいいだろう。

ナポリの聖女に対して、天の砂漠の中で自分の十字架を見つけたのかと、詩人は問いかける。
それに対して、燃える天の聖女たちに対しては、我々の神々を侮辱していると非難し、そこから落ちろと命じる。
ここでは、個別(単数)から一般(複数)への移行に伴い、皮肉から攻撃への変化が見られる。

天の砂漠とは、天が空になってしまうことであり、それは19世紀前半に文学的なテーマとなった神の死、神の不在を意味する。ネルヴァルも、「オリーブ山のキリスト」と題したソネットの中でそのテーマを取り上げ、「神は存在しない!」「私は神の目を探したが、見えるのは眼球の窪みだけだった。/巨大で、黒く、底のない窪み。」という印象的な詩句を記している。

その天空で十字架を見つけたかどうかを問うことは、皮肉でしかない。神が不在の場所で十字架が見つかるはずがないし、見つかったとしての何の意味もない。従って、第一テルセから読み取れることは、聖女に対する揶揄だということになる。

ナポリの聖女に対するのと同じ皮肉は、白い薔薇が白い亡霊と同格に置かれていることからも読み取ることができる。
そして、その理由は、天の聖女達が「我らが神々(nos dieux)」を侮辱していることだと明かされる。

キリスト教の神であれば、« Dieu »のように、単数で、綴り字の最初のDの文字は大文字に置かなければならない。それに対して、詩人の神は、« dieux »と、複数で、最初も小文字で記す。
従って、ここでは二つの信仰が対比され、詩人は、聖女達の信じるキリスト教の神とは異なる多神教の神々の側にいることことが明かされている。

このように見てくると、「落ちてしまえ」という命令、薔薇から亡霊への呼称の変更は、キリスト教の神に対する明確な姿勢を示しているように見える。

3.深淵の聖女

ネルヴァルは決して単純な詩人ではないし、「アルテミス」はオルフェウス的詩人の神秘的な側面を、なぞなぞ風に明かしている詩である。とすれば、単にキリスト教を批判するだけではない謎が隠されているに違いない。その謎の鍵を持つのが、深淵の聖女である。

深淵の聖女la sainte de l’abîmeは、矛盾する意味の言葉を並べることで強い効果を作り出す、撞着語法(オクシモロン)に基づく表現である。地獄の女神?
実際、白い聖女たちが天上にいるとすれば、深淵の聖女は地下の神々と共にいる。そして、詩人の目には、その聖女の方が天上の聖女よりも神聖にみえる。
このように読み説くと、深淵の聖女はナポリの聖女を含む天上の聖女と対立し、その二項対立の中で、詩人は一方を選んでいるかのように考えることになる。

しかし、ネルヴァルの明かす神秘は、キリスト教の神対異教の神々の対立ではない。ネルヴァルは、その奥に潜む秘密をこっそりと伝える。
「エリュアール原稿」に記された注で、深淵の聖女がロザリア(Rosalie)だと打ち明けられているのである。

L’Extase de Sainte Rosalie

聖ロザリアはシチリア島のパレルモの守護聖女。そして、この注が決定的な意味を持つのは、ナポリの聖女も聖ロザリアと考えられるからである。
「ロンバール原稿」では、ナポリの聖女の部分は、シチリアの聖女と記されていた。
さらに、ナポリを舞台にした中編小説「オクタヴィ」の中で、主人公が偶然出会った女性の部屋には、聖ロザリアの像があり、その頭には、紫色の薔薇が被せられている。詩の中の薔薇の花芯の紫色は、その反映だろう。

「オクタヴィ」の主人公は、神秘的な部屋の中で、「ヴェスヴィオ火山の燃えるようなワイン」を飲まされ、目の前の女性がテッサリアの魔女のように見えてくる。一夜の夢のためなら魂を捧げてもいいほど魅力的な魔女。

彼女から逃れるかのように家から外に出ると、ヴェスヴィオ火山が噴火している。「アルテミス」の聖女の手を燃やす炎は、その噴火を思わせる。
そのような連想をたどると、ネルヴァル的世界の中で、ナポリの聖女は聖ロザリアだと認定できる。

そして、もし対立するはずの天上と深淵の聖女が同一の存在だとしたら。。。「シルヴィ」の作者であれば、「そこには気が狂うほどのものがある!」と叫ぶに違いない。

「アルテミス」の神秘の中心をなすのは、キリスト教の神(Dieu)と異教の神々(dieux)の一致なのだ。

Sainte Gudule

その予告は、聖ギュデュルの花によって行われていた。
聖ギュデュルはブリュセルの聖女。聖ロザリアとは何の関係もない。ここで名前が出てくるのは、地理的な南(ナポリ、シチリア、ギリシア)と北(ブリュッセル)の対比を出現させるためではないか。そして、花芯が紫の薔薇を聖ギュデュルの花とすることで、ナポリの聖女と一体化し、対立するものの一致を暗示する。

この南北という空間上の概念が、天上と深淵という、聖性と深く関係する概念への架け橋となる。
本来は聖性の宿る天が砂漠であるとしたら、聖性はどこで見出されるのか。

その謎に対して、詩人は、深淵の聖女はより神聖だとヒントを差し出す。ここで比較の対象は白い薔薇だが、その前提は、燃える空と深淵の対比。そして、逆接的に、天上よりも地下の方が神聖だと断言することは、謎解きの回答ではある。

しかし、ネルヴァルは、そこに、もう一段階のひねりを入れる。二人の聖女が同一であるとし、比較をしながら、比較の意味をなくす。なぞなぞの最終回答は、同一性なのだ。

その同一性とは永遠に不変なものではなく、変転の連続性によって保証される。十三が一へと戻り、それが常に同一であるように、聖性も天から地へ移行し、地から天へと戻るだろう。
聖性は唯一であり、それがキリスト教の神として顕現することもあれば、異教の神々として現れることもある。今は深淵の女神の方が天上の聖女たちよりも聖性が強く感じられる。
しかし、決してそれで終わるわけではない。去っては戻る。死の後には再生が続く。

深淵の聖女とは、聖ロザリアでもあり、聖ギュヂュルでもあり、マリアでもあり、全ての聖女でもある、根源的な存在だといえる。時計板の中心軸に位置し、全ての時の根源となる時間に匹敵し、一でありながら多、多でありながら一を実現する。

「アルテミス」の神秘

「アルテミス」の明かす神秘は、全ての存在の「回帰」であり、それがオルフェウスの地獄からの帰還を説明する。さらに、「エル・デスディチャド」の詩人が、オルフェウスの竪琴に乗せて、聖女のため息と妖精の叫びを「代わる代わる」歌う理由も、その神秘によって明かされる。

ネルヴァルは、名刺の裏に書き付けた謎かけ遊び風の詩で、表に書かれた詩を見事に説明しているといえる。



二人の詩人の訳

中原中也訳

十三番が甦る……するとまたそれが一番だ、
してそれは何時も唯一つ、又は唯一つの機会だ。
されば汝は! 太初の女王か終末の女王?
王か? 汝唯一人のそれとも最後の、情人か?……

愛せよ揺籃より柩にまで汝を愛せし者を愛せよ、
わが愛したる者のみ独り、今も猶我をば愛す。
それぞ死よ ― はたは死人よ……やさしくるおし!
持ちたりしそが手の花はたち葵。

火に充ちし手のナポリの聖女、
心菫に泣ける薔薇、聖ギジルが花、
汝は見しや天の砂漠に汝が十字架?

白薔薇よ、落ちよ! 汝わが神々を涜す。
落ちよ、白き霊体、燃ゆる汝が空より落ちよ、
―地極の聖女はわが目にはいと聖なれば!

入沢康夫訳

「十三番目の女」が帰ってくる…また最初の女だ、
いつも唯一の女、-同じつかの間だ、
おお女王よ! 最初の女か最後の女か?
王よ、唯一の恋人、または最後の?

揺りかごから棺の中まで愛してくれた女を愛せよ。
私独りが愛した女は今だ私を優しく愛する、
その女は「死」- あるいは死の女…おお歓びよ! 苦しみよ!
その女の手にする薔薇は「喪の薔薇」だ。

火にみちた手をしたナポリの聖女よ、
紫色の芯もつ薔薇、聖女ギュデルの花よ、
天の砂漠にきみの十字架は見つかったか?

白薔薇たちよ、落ちよ! 汝らは我々の神々を侮辱する!
落ちろ、白い亡霊たち、燃える汝らの空から、
-深淵の聖女は、私の目にはさらに聖女だ!

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