ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » その4 疾走する言葉たち 

大海原の牛の群れとマリア

第10節が幸福感を漂わせていたとすると、第11詩節では岩礁が現れ、大海原も喘ぎ、航海の困難が感じられる。

第11詩節

J’ai suivi, des mois pleins, pareille aux vacheries
Hystériques, la houle à l’assaut des récifs,
Sans songer que les pieds lumineux des Maries
Pussent forcer le mufle aux Océans poussifs !

ぼくは、何ヶ月もの間、ヒステリックな牛の群のように、
岩礁に襲いかかる波についてきた。
その間、考えてもみなかった、マリアの光り輝く足が、
鼻面を、あえぎ声を上げる大洋に押しつけることが可能だなどと。

ここでは、前の2つの詩節と異なり、「ぼく=酔いどれ船」の動きが再び語られる。
その際、牛のイメージが提示されるのは、大海原が大草原を連想させるからだろうか。
その草原を駆ける牛の群。ヒステリックというのは、他のものには目もくれず、集団で猪突猛進に進んでいく姿を想像させる。

酔っ払った船は大荒れの波に呑み込まれながら、何ヶ月も航海してきた。岩礁を打ちつける荒れ狂う波の間に、マストも帆も舵も失った船は、翻弄され、運ばれている。ランボーには、その様子がヒステリックな牛の群のように見えたのだろう。

その間、荒れ狂う大波を収めることができるとしたら、どのようにしてだろう。
そこでランボーが思い描くのは、マリアの輝く足。
それがあれば、牛=大波の鼻面を押させ、波を穏やかにできるのかもしれない。大洋(les Océans)にあえぐ(poussif)という形容詞が付けられているのは、波が大きな動きを止め、さざ波のように小さくなり、小刻みに動く様子を示している。

では、なぜランボーは、凶暴な波を静めるために、マリアの足を持ち出すのか。
キリスト教の図象学の中で、足下に月を踏むマリアの像がある。この図の中で、月は悪の力の象徴であり、マリアは足でそれを踏み潰す、つまり悪を退治するという解釈がなされている。

酔っ払った船であるぼくは、大浪に呑み込まれ何ヶ月も大海原に浮かんでいるのだが、その間、マリアの救いがあるなど思いもよらなかった。それほど、航海は厳しかったということになる。

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