ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 4/7 疾走する言葉たち 

大海原の牛の群れとマリア

第10節が幸福感を漂わせていたとすると、第11詩節では岩礁が現れ、大海原も喘ぎ、航海の困難が感じられる。

第11詩節

J’ai suivi, des mois pleins, pareille aux vacheries
Hystériques, la houle à l’assaut des récifs,
Sans songer que les pieds lumineux des Maries
Pussent forcer le mufle aux Océans poussifs !

ぼくは、何ヶ月もの間、ヒステリックな牛の群のように、
岩礁に襲いかかる波についてきた。
その間、考えてもみなかった、マリアの光り輝く足が、
鼻面を、あえぎ声を上げる大洋に押しつけることが可能だなどと。

ここでは、前の2つの詩節と異なり、「ぼく=酔いどれ船」の動きが再び語られる。
その際、牛のイメージが提示されるのは、大海原が大草原を連想させるからだろうか。
その草原を駆ける牛の群。ヒステリックというのは、他のものには目もくれず、集団で猪突猛進に進んでいく姿を想像させる。

酔っ払った船は大荒れの波に呑み込まれながら、何ヶ月も航海してきた。岩礁を打ちつける荒れ狂う波の間に、マストも帆も舵も失った船は、翻弄され、運ばれている。ランボーには、その様子がヒステリックな牛の群のように見えたのだろう。

その間、荒れ狂う大波を収めることができるとしたら、どのようにしてだろう。
そこでランボーが思い描くのは、マリアの輝く足。
それがあれば、牛=大波の鼻面を押させ、波を穏やかにできるのかもしれない。大洋(les Océans)にあえぐ(poussif)という形容詞が付けられているのは、波が大きな動きを止め、さざ波のように小さくなり、小刻みに動く様子を示している。

では、なぜランボーは、凶暴な波を静めるために、マリアの足を持ち出すのか。
キリスト教の図象学の中で、足下に月を踏むマリアの像がある。この図の中で、月は悪の力の象徴であり、マリアは足でそれを踏み潰す、つまり悪を退治するという解釈がなされている。

酔っ払った船であるぼくは、大浪に呑み込まれ何ヶ月も大海原に浮かんでいるのだが、その間、マリアの救いがあるなど思いもよらなかった。それほど、航海は厳しかったということになる。

陸地への再接近

第3詩節を思い出すと、酔いどれ船は海岸線の引き潮に流され、突き出した半島から沖へと運ばれた。その後、大海原を漂う。そして、第12詩節に至り、再び岸の方へと戻ってくる。

第12詩節

J’ai heurté, savez-vous, d’incroyables Florides
Mêlant aux fleurs des yeux de panthères à peaux
D’hommes ! Des arcs-en-ciel tendus comme des brides
Sous l’horizon des mers, à de glauques troupeaux !

ぼくは衝突した、信じられないようなフロリダ半島に。
だって、そこでは、花々と人間の皮膚をした豹の目が混ざり合っているんだ。
虹が、手綱の形をして伸びている、
水平線の下で、青緑色の群れの方に。

言葉の暴走。第12詩節は、そのように名付けるしかないほど、言葉が現実の事物とは無関係に疾走し始める。

一つしかないフロリダ半島がなぜ複数形になっているのか。(d’incroyables Florides)
人間の皮膚をした(à peaux d’hommes)豹とは何か。
その豹の目と花を混ぜ合わせる?(mêlant aux fleurs les yeux de panthères)
手綱のような虹はどんな形をしているのか。(des arcs-en-ciel comme des brides)
水平線の下に虹が出るのか? (des arcs-en-ciel sous l’horizon des mers)
海の色のような青緑色の群れとは何か。(de glauques troupeaux)

こうした言葉の組み合わせは、詩的言語が現実の事物を参照するものでないことを示すために、あえて行われていると考えた方がいいだろう。通常の言葉を黄金に変える言葉の錬金術の実験。

読者はランボーに導かれて、言葉の大海原で航海を続ける。そこでは、言葉を波のように感じ取り、運ばれるしかない。

フロリダ半島にぶつかったということは、船は大海原から陸の方に戻って来たことを意味する。

そのフロリダには、信じられない(incroyable)という形容がなされている。なぜなら、そこには、人間の皮膚をした豹という空想上の動物がいて、その眼が花と混ざっているのだから。
ここで読者は、現実に何を指しているのか不明な、あるいは現実を参照するのが不可能な言葉の連鎖から、何らかのイメージを自分で想像することを要求されている。

Henri Rousseau, Combat de tigre et buffle

現実的に解釈すれば、フロリダは語源的には花の国(le pays des fleurs)を意味しているので、2行目の花を連想させる。
その花々の中には、葉が肌色で、豹の目のようなきらきらと輝く花も見えるに違いない。
現代の読者であれば、、アンリ・ルソーの絵画等を思い描いてもいいかもしれない。

水平線の下の虹を見ることはできない。もしその虹について語るとしたら、それは、目に見えないものを想像していることになる。
青緑色の群れは、第11詩節の牛の群と繋がり、その色彩からは波を思わせる。
虹が波と繋がるごく普通の風景。それを水平線の下に位置させることで、現実的な感覚を混乱させる。

酔いどれ船は、フロリダ半島にも、水平線の下の虹にもぶつかる。それが可能なのは、酩酊しているからだ。

此方と彼方

第13詩節

J’ai vu fermenter les marais énormes, nasses
Où pourrit dans les joncs tout un Léviathan !
Des écroulements d’eaux au milieu des bonaces,
Et les lointains vers les gouffres cataractant !

ぼくは見た。巨大な沼が発酵するのを。その魚入れの中で、
藺草に囲まれ、怪物レヴィアタンが丸ごと腐っている!
凪の真ん中を海水が流れるのを。
遠くの風景が、深淵に向かって滝のように落ちていくのも。

船は、半島にぶつかった後、さらに奥まった所まで入り込む。その沼地は、巨大さと圧迫感という矛盾する要素が共存している場所である。

沼は巨大だと言われ、聖書に出てくる巨大な怪物レヴィアタンがいる。
それに対して、魚を入れる梁(nasse)は囲い込み、束縛するイメージを与える。発酵する(fermenter)、腐る(pourrir)という動詞が続き、水の動きがなく、停滞した場所であることが示される。
藺草も沼地に生える草で、海ではなく、沼に相応しい。

そこから海の方を振り返ると、そこも凪で、停滞している。
しかし、岸から潮の流れがあり、もっと遠くの方まで視線をやると、水平線の彼方には、滝のように水が落ちていく様子が見える。此方は沼で、彼方は深淵という対比がここでなされている。

第13節の最初の2行は、陸地に近づき、動きが止まり、自由を失った「ぼく=酔いどれ船」の姿を浮き彫りにしている。それに対して、後の2行では、そこから振り返り、大海原に見える光景が描かれる。
この対照は、第1詩節の船曳きたちとアメリカン・インディアンの対比を連想させる。
沼地では、巨大な怪物でさえ、腐ってしまう。
それに対して、たとえ難波し全てを失おうとも、大海原には自由がある。

黒い香り

第14詩節

Glaciers, soleils d’argent, flots nacreux, cieux de braises !
Échouages hideux au fond des golfes bruns
Où les serpents géants dévorés des punaises
Choient, des arbres tordus, avec de noirs parfums !

氷河。銀色の太陽。真珠色の波。燃えさかる熾火の空!
褐色の湾の奥での、ぞっとするような座礁。
そこでは、巨大な蛇が、南京虫に食い尽くされ、
ねじれた木々から落下しいく。黒い香りを放ちながら。

最初に、いきなり4つの名詞が列挙される。氷河、太陽、波、空が次々に目に入る。動詞がないために、時間の経過がなく、瞬間が連鎖する勢いが感じられる。

座礁はこの詩節の5番目の名詞だが、意味的には動詞的な要素が強く、次に続く蛇の落下へと繋がっていく。音的にも、座礁(échouages)と落下する(choir)という動詞は、chという音で共鳴する。

第3詩行になると、不思議な光景が描かれる。
蛇、南京虫、曲がりくねった木、黒い色、香りは、全て当たり前の存在。しかし、それらの組み合わせが、現実の現象とは異なる世界を生み出す。

基本となるのは、巨大な蛇が曲がりくねった木から落ちること。
その蛇を南京虫たちが貪り喰っている。巨大な存在が極小の虫に食い尽くされる状況は、ラ・フォンテーヌの寓話「ライオンとハエ」などを思わせるが、現実のレベルではイメージすることが難しい。

さらに、蛇が落下する時、臭覚を刺激する香りが立ち、黒という色が付けられる。そのことによって、落ちるという視覚的なイメージに、臭覚と視覚が加えられ、ボードレール的な共感覚の世界が生み出される。

第14詩節で描き出されたヴィジョンは、前後の詩節と脈絡もなく、言葉が次々と繰り出され、疾走していく。その中で、落ちる動作に焦点が当たり、「黒い香り」が発散する。
それが何かと問うのではなく、勢いのある詩句に酔い、難波続きでも航海を続けよう。

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