ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 読み方の提案 1/2

「酔いどれ船」の第1−14詩節、56行の詩句を読み、瑞々しさや素晴らしさを感じるだけではなく、難しさを感じているかもしれない。分からない、という感覚。
そこで、旅の中間地点で一度船を止め、この詩の読み方について、いくつかの提案をしておきたい。

見ること — イメージを五感で感じる

最初のキーワードは見者、le voyant。
この言葉は、動詞 voir(見る)から来ている。
では、何を見るのか?
普通に考えると、見る対象は現実のもの。五感で感じるもの。普通、それがリアルなものと考えられる。

それに対して、ランボーには、現実のものと想像力が生み出すもの、両方が同じに見える。二つにレベルの差はない。
そのことは、1872年のベルギー旅行の際に書かれた「アマランサスの花の列」の中で、非常にわかりやすく表現されている。
https://bohemegalante.com/2019/07/09/rimbaud-plates-bandes-damarantes/

一般には、現実だけが現実であり、想像力が生み出す事象は空想であり、幻影、妄想と見なされる。
しかし、ランボーには、その両方があってこそ、人間の生の全体なのだ。
物理的な客観世界と内的な意識の世界は誰にとっても、現実だろう。そう考えると、ランボーの詩の世界がよりよく理解できる。

Et j’ai vu quelquefois ce que l’homme a cru voir !
ぼくは時に見たことがある。人が見たと思ったものを。

この詩句は、現実と想像が一つの生の2つの側面であることを読者に伝えている。

非連続性

夢の世界の大きな特色は、非連続性(discontinuïté)と断片性(fragmentaité)。
夢の中では、出来事のつながりがなく、唐突に何かが起こり、しかも断片的。論理性、因果律がなく、わけがわからない。

「酔いどれ船」でも、それぞれの描写や出来事につながりがなく、唐突で、意味不明な言葉のつらなりが続くような感じがある。
その時、無理にイメージをつなげて物語を探ろうとすると、意味がわからなくなる。
夢の中でと同じように、出来事に身を委ねるしかない。
次々に出てくる言葉を論理的に理解し、その繋がりの因果律を探すことは、無駄な作業になりかねない。
それぞれのヴィジョンをそれ自体として「見る」こと=体験することが、ランボーと一緒に航海を楽しむコツだ。

ランボーが見たように、私たちも見ること。それが最も重要なポイントになる。

リアル

夢の世界について、柄谷行人が次のように書いている。

夢の方が現実よりもリアルな体験である。
現実の世界で何かを見たり聞いたりするときには、自分と対象との間に距離がある。見たくなければ目をつぶればいいし、聞きたくなければ耳をふさげばいい。

しかし、夢の中では、目をつぶっても見えるものは見えるし、耳をふさいでも聞こえるものは聞こえる。夢は人間の「内部」の体験であり、生の直接性そのものなのだ。

柄谷はこう書く。(『意味という病』所収「夢の世界」)

われわれは夢を見るという。こういう表現は正しくないので、われわれは夢の中では何も見ていない。見るとは「距離」をおくことだが、距離がないことが「夢の世界」の特徴なのである。しかし、われわれは眼ざめたとたん距離をおいて「夢の世界」を見る、つまり外側からそれを見る。(中略)
要するに、われわれがふつう夢の世界と呼んでいるのはすべて「事後の観察」である。夢の世界ではわれわれは文字通り夢中に生きているのであって、しかも生きているということとそれを眺めることに何の乖離もなく生きているのだ。

狂気のついても、次の様に書く。

狂人は過酷なほどの明瞭な観念に苦しんでおり、けっして非現実な空想に耽っているのではない。彼は「現実」よりずっと強烈にリアルな世界にすんでいて、その「世界」の軛からのがれることができないのだ。外側からみれば幻聴だとしても、当人にとってはどんな現実の声よりも明瞭で脅迫的である。

ランボーが「酔いどれ船」の中に書き記している航海は、まさにランボーの「リアル」を言葉によって定着したものだ。
彼が「見る」と言っていることは、距離のある現実的な「見る」ではなく、柄谷の言葉を借りれば、「夢中に生きている」こと。つまり、生の直接的な体験だ。

ランボーの詩句は、このリアルな体験を伝える。

リアルを生きる

「酔いどれ船」にも、河から海へ向かい、大海原で航海を続け、再び湾に戻るなどという大きな枠組みはある。しかし、合理的な解釈で物語を組み立てようとしても、理解はできない。
狂人の妄想を聞いてばかげていると言うのと同じ位、意味のないことになってしまう。

まずは、論理を捨て、ランボーの酔いどれ船に乗ること。ランボーのリアルを同船者としてリアルに生きること。彼と一緒に酔うこと。

もちろん、そうすれば、全ての言葉の連なりが「分かる」わけということはない。読者は、感じられることだけ感じる。それだけで、十分。

J’ai vu le soleil bas, taché d’horreurs mystiques,
Illuminant de longs figements violets.

この詩句を読むとき、海に沈みかかるle soleil basを思い浮かべ、horreursを感じ、そこにmystiquesを感じる。その太陽の光でilluminerされたde longs figementsを想い浮かべ、violetという色彩で彩る。
このように言葉を非連続的な状態でたどり、言葉それぞれを生きることで、リアルを感じること。
わからないところがあってもいい。
わかりすぎてしまったら、混沌に顔を書き込み、混沌を殺してしまうことになりかねない。

分析や解釈をする前に、まずはこうして詩をリアルに生きることが、ランボーの詩を読む最大の楽しみだし、美を感じる第一歩になる。

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