ヴィクトル・ユゴー 「この花をあなたのために摘みました」 Victor Hugo « J’ai cueilli cette fleur pour toi… » 人間と自然と愛と

「この花をあなたのために摘みました」(« J’ai cueilli cette fleur pour toi… »)は、ヴィクトル・ユゴーが愛人のジュリエット・ドルエに捧げた詩。
詩の最後に、「サーク島、1855年」と記されているが、原稿は1852年の日付があり、詩の背景となったのは、ユゴー一家が亡命したばかりのジャージー島だと思われる。

ユゴーは、その島の中を散策し、海に突き出た岬で見つけた花を詩の中心に据え、ジュリエットへの愛を歌った。

その詩の中で描かれる自然は、ユゴーの世界観を密かに垣間見させてくれる。

1行は12音節(アレクサンドラン)。
韻は同じ音が2度続き、次の韻に移行する平韻(AABB)。
島の切り立った岬の斜面で花を摘むところから、そこに広がる自然の光景が、目に入る順番に、次々と語られていく。

J’ai cueilli cette fleur pour toi sur la colline.
Dans l’âpre escarpement qui sur le flot s’incline, 
Que l’aigle connaît seul et peut seul approcher, 
Paisible, elle croissait aux fentes du rocher.

この花を あなたのために 丘の上で摘みました。
険しい断崖が、大浪の上に傾きかかり、
鷲だけが知り、鷲だけが近づくことができる、
その断崖の割れ目の間で、静かに、その花は大きくなっていました。

英仏海峡の高い波に洗われる岬の先端。その斜面は鷲しか近づくことができないほど険しい。
第3詩行で、鷲「だけ(seul)」という言葉が反復され、人間を寄せ付けない厳しさが強調される。

そうした険しい場所でありながら、摘まれた花は穏やかで、丘の情景との対照が際立っている。

この冒頭の4行の後、ユゴーは摘んだ花に関する記述をするのではなく、目に入る周囲の自然の情景を描いていく。

L’ombre baignait les flancs du morne promontoire ;
Je voyais, comme on dresse au lieu d’une victoire
Un grand arc de triomphe éclatant et vermeil, 
À l’endroit où s’était englouti le soleil, 
La sombre nuit bâtir un porche de nuées.
Des voiles s’enfuyaient, au loin diminuées ;
Quelques toits, s’éclairant au fond d’un entonnoir, 
Semblaient craindre de luire et de se laisser voir.

影が、どんよりとした岬の斜面を覆っていました。
私の目に入ったのは、勝利の場所にすっと立ち上がるような、
大きな凱旋門が赤く輝く姿。
太陽が呑み込まれたあの場所です。
暗い夜が、雲の玄関ポーチを構築するのも見えました。
何艘もの帆船が逃げ去り、彼方で小さくなっていきました。
いくつかの家の屋根が、漏斗の形のくぼ地の奥で輝いていましたが、
光を放ち、姿を見られれるのを、恐れているようでした。

夕闇が迫り、周囲は暗くなる。太陽は既に沈み、暗い夜がやってくる。
こうして世界が闇に包まれていく間に、「私」の目に入る光景がある。

最初に見えるのは、太陽が沈んだ場所に浮かび上がる大きな凱旋門。それが何なのかよくかわからない。とにかく、ユゴーの目には、赤く輝く勝利の建造物が見えたのだろう。
では、この情景が意味するものは何か?
それは、自然の動きである。
太陽は沈み、視界から消え去る。しかし、それは決して最終的な消滅や破壊ではなく、別の何かが生成する。死の後には再生が続く。自然の生が絶えることはなく、なんらかの形で続いていく。
しかも、花を摘んだ断崖の風景の中で、ユゴーは、太陽の位置に凱旋門を浮かび上がらせ、勝利をイメージさせる。

次いで、太陽が沈んだ後の暗い夜の間に、雲が形作る玄関ポーチが作り出される。
闇は死の時ではなく、創造の時と見做される。

他方で、人工物は、太陽が沈んだ後では、夜の闇に包まれ、消滅の方向に向かう。
帆船は島から離れ、小さくなっていく。
家々に点る灯は、遠慮がちに感じられる。

こうした大自然と人工物の対比は、ユゴーの自然観の理解を深めさせてくれる。
自然の生命は昼から夜へ、夜から昼へと循環し、様々に形を変えながら、永遠に続いていく。


こうした自然観を描いた後、愛する人のために積んだ花の記述に移っていく。

J’ai cueilli cette fleur pour toi, ma bien-aimée.
Elle est pâle, et n’a pas de corolle embaumée,
Sa racine n’a pris sur la crête des monts
Que l’amère senteur des glauques goëmons ;

この花を あなたのために 摘みました、愛する人よ。
花は青白く、花冠は良い香りではありません。
その根が山の頂上で吸収したのは、
青緑色をした海藻の、苦い香りだけでした。

まず、アナフォール(詩句の冒頭での同じ語句の反復)の手法が用いられ、「この花をあなたのために摘みました」と、冒頭の詩句と同じ言葉が繰り返される。

その花は、決して美しくも、香り高くもない。
波打ち際に取り残された海藻(goëmon)のような、嫌な臭いがするという。

なぜそんな花を愛する人のために、摘んだのだろう?

その理由を明かすためだろう。詩人は、その花に直接語り掛ける。

Moi, j’ai dit : « Pauvre fleur, du haut de cette cime, 
Tu devais t’en aller dans cet immense abîme
Où l’algue et le nuage et les voiles s’en vont.
Va mourir sur un cœur, abîme plus profond.
Fane-toi sur ce sein en qui palpite un monde.
Le ciel, qui te créa pour t’effeuiller dans l’onde, 
Te fit pour l’océan, je te donne à l’amour. »

私は花にこう話かけました。「かわいそうな花よ、この丘の頂上から
お前は、あの巨大な深淵の中へと去っていかなければならなかった。
海藻も、雲の、帆船も、そこに去って行く。
一つの心の上で死んでくれ。その心はあの深淵よりも深い。
あの胸の上で萎れてくれ。その胸の中では一つの世界が呼吸をしている。
波の中で葉を散らすためにと、お前を創造した天空は、
お前を大海原のために作った。私はお前を愛に与える。」

この呼びかけの中で強調されていることは、全ては消え去るということである。
花が去っていくべきだった巨大な深淵には、海藻、雲、帆船も呑み込まれる。
ここでは、自然も人工物も区別されない。全てが深淵へと向かう。

Victor Hugo, Barque fuyant sous le vent

その深淵よりも、心の方が深いと言われることで、人の心と深淵が一つの尺度で並べられ、人間も自然の中に組み込まれる。
だからこそ、人の胸の中で世界が鼓動するのだ。

全てを一つの統一体とみなすこうした自然観は、「全てのものに魂が満ちている。」と考えるヴィクトル・ユゴーのパンテイスム的思想に基づいていると考えてもいいだろう。

彼は花に向かってこう言う。神はお前が大波の中で花弁を散らすために、お前を創造した、と。このように消滅、死を強調しているが、それは決して最終的な死ではない。形は変わるが、何も死なない。

そして、あたかも彼が神であるかのように、「私はお前を愛に与える。」と宣言する。すると、太陽が沈んだ場所に凱旋門が浮かび上がったように、花が花びらを散らした後には、愛が生まれる。

この言葉は、「自然も人間も全ては生きている」という自然観に基づいた、愛の宣言だといえる。

Le vent mêlait les flots ; il ne restait du jour
Qu’une vague lueur, lentement effacée.
Oh ! comme j’étais triste au fond de ma pensée
Tandis que je songeais, et que le gouffre noir
M’entrait dans l’âme avec tous les frissons du soir !

風が大波を混ぜ合わせていた。日差しで残っていたのは、
おぼろげな光だけ。その光もゆっくりと消えていきました。
ああ、私は、考えれば考えるほど、悲しかったのです。
でもその一方で、私は夢を見ていました。そして、黒い深淵が
私の魂の中に入ろうとしていました、夕べのあらゆる震えと共に。

風が吹き、波が高くなる。大洋の光のわずかな残りも、徐々に消えていく。
こうして、消滅に焦点を当てるのは、創造の語るよりも人間の感性により強く働きかけるからだろう。
合理主義的な思考の中では、死は最終的な終わりであり、太陽が沈み全てが闇に包まれる光景は深い悲しみを引き起こす。

しかし、夢想(songe)の中では、別の感受性が働く。深淵は死であるが、再生を含み込んでいる。その深淵が魂の中に入り込むことは、闇と同時に光を受け取ることにもつながる。
その時、夜の震え(frissons)は、恐怖と同時に、生命の躍動を感じさせもする。
生きた自然は決して死を迎えることなく、変形を続ける。

詩人が摘んだ「この花」は、日本の和歌でのように、詩人の心の内を明かすわけではない。
詩人は花を愛に与える。その能動的な行為が、自然の生命力と愛をつなぎ合わせ、愛する人に絶えることのない愛を伝えることになる。

そして、「この花をあなたのために摘みました」が一つの花であり、ユゴーはこの詩を愛に与えることで、ジュリエット・ドルエに愛を伝えたのだった。

そこでの自然の役割は、ユゴーの心の反映ではなく、死と再生を繰り返しながら決して死ぬことのない自然のあり方を通して、彼の愛の永遠性を暗示することだった。

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