「旅(Le Voyage)」は、1861年に出版された『悪の華(Les Fleurs du mal)』第二版の最後を飾る詩であり、詩集の最終的な帰結を示している。
ちなみに、最初に発表されたのは、1859年4月10日の『フランス・レヴユー(Revue française)』誌。
4行詩36詩節で構成され、全部で144行。『悪の華』の中で、最も長い詩になっている。
幸いyoutubeには、ファブリス・ルキーニの朗読がアップされているので、(最初は2分20秒くらいから。)、素晴らしい朗読を耳にすることができる。
第一部は、様々な旅行者のあり方が描かれる。
I.
Pour l’enfant, amoureux de cartes et d’estampes,
L’univers est égal à son vaste appétit.
Ah ! que le monde est grand à la clarté des lampes !
Aux yeux du souvenir que le monde est petit !
地図や版画の大好きな子どもにとって、
宇宙は、彼の旺盛な食欲に等しい。
ああ! 世界は、ランプの光の下で、何と大きなことか!
思い出の眼差しの下で、世界は、何と小さなことか!

ボードレールの時代、様々な国の様子を人々に伝えたのは、イラスト入りの雑誌だった。
子どもたちは、「マガザン・ピトレスク(Le Magasin pittoresque)」や「イリュストラシオン(Illustration)」にちりばめられた版画を見て、空想の羽を広げたに違いない。
そんな子どもたちにとって、彼等の思いが大きくなれば世界も大きく広がっただろうし、小さな思いしか持たない子どもにとって世界は小さなものと思われただろう。
世界が欲望に等しいというのは、思い描く気持ちと空想される世界との対応を意味している。
その上で、詩人は世界(le monde)という単語を反復し、現実からの視点と、空想(思い出)の視点とを対照させる。
現実に留まる限り、世界は大きく感じられる。
思い出、つまり過去の現実に基づいたと考えられる空想の中で、世界は小さく感じられる。空想の方がはるかに大きいのだ。
Un matin nous partons, le cerveau plein de flamme,
Le coeur gros de rancune et de désirs amers,
Et nous allons, suivant le rythme de la lame,
Berçant notre infini sur le fini des mers :
ある朝、私たちは旅立つ、脳髄は炎に包まれ、
心は恨みと苦い欲望で一杯。
私たちは行く、波のリズムに従い、
私たちの無限を、海の有限の上で揺すりながら。
旅立つとき、私たちは何らかの思いを抱いている。その思いは激しい。恨みや苦い欲望が、今・ここを離れ、遠くに向かう原動力なのだ。
その出発の様子を、ボードレールは、「私たちの無限(l’infini)を、海の有限(le fini)の上で揺すりながら」と描く。
「私たちの無限」と「海の有限」の対比。
それは、現実世界には限りがある一方で、無限は私たちの内部、つまり心や精神の中にあることを暗示している。
とすれば、旅は、精神の内部、心の中で行われることになる。
次に、現実の旅人と精神世界の旅人を区別するため、詩人は、現実の旅人に2つの4行詩を費やし、真実の旅人に別の2つの4行詩を費やす。
まずは現実の旅人。
彼等の旅には何らかの理由がある。
Les uns, joyeux de fuir une patrie infâme ;
D’autres, l’horreur de leurs berceaux, et quelques-uns,
Astrologues noyés dans les yeux d’une femme,
La Circé tyrannique aux dangereux parfums.
ある人々は、不名誉な祖国から喜んで逃れていく。
別の人々は、彼等の揺り籠への嫌悪から逃れる。また別の人々は、
彼等は一人の女の目の中で溺れる天文学者たちだが、
危険な香りのする専制的な魔女キルケーから逃れていく。
祖国から逃れる人。自分の出生から逃れる人。そして、天文学者が星を観察するように愛する人の目をのぞき込み、魅了されることから逃れる人。

Pour n’être pas changés en bêtes, ils s’enivrent
D’espace et de lumière et de cieux embrasés ;
La glace qui les mord, les soleils qui les cuivrent,
Effacent lentement la marque des baisers.
動物の姿に変えられないために、彼らは酔う、
空間や光や燃え上がる空に。
氷河が彼等にかみつき、太陽が彼等を焼く、
そしてゆっくりと、口づけの印を消していく。
魔女キルケーは人間を動物の姿に変え、家畜にしてしまう。その連想からだろう。動物に変身させられないために、旅人達は広い空間、光、太陽に照らされた空を求めて旅立ち、酔いしれる。そのことで、魔女から逃れようとする。
あるいは、彼等を苦しめる氷河や灼熱の太陽が、魔女の口づけの後を消していく。ゆっくりと。
しかし、真実の旅人は、ある目的を達成するために旅立つ人々ではない。
Mais les vrais voyageurs sont ceux-là seuls qui partent
Pour partir, cœurs légers, semblables aux ballons,
De leur fatalité jamais ils ne s’écartent,
Et, sans savoir pourquoi, disent toujours : Allons !
しかし、本当の旅人は、旅立つためだけに旅立つ人のみ。
心は軽く、気球のよう。
自分たちの運命から、決して遠ざかりはしない。
そして、理由も知らず、常にこう言う。行こう!
旅立つために旅に出る。これこそボードレールの旅人の姿に他ならない。
それは、ちょうど、美が何かの目的のためにあるのではなく、美そのもののためにあるのと同じことである。
何の目的もなく、出発する訳も知らずに、旅立つ。そうしたとしても、全ては運命として定まっている。旅人の気質(tempérament)が通奏低音となり、旅の基底に鳴り続けるのである。
Ceux-là dont les désirs ont la forme des nues,
Et qui rêvent, ainsi qu’un conscrit le canon,
De vastes voluptés, changeantes, inconnues,
Et dont l’esprit humain n’a jamais su le nom !
彼等の望みは、雲の形をしている。
新兵が大砲を夢見るように、真の旅人たちが夢見るのは、
巨大な欲望の快楽。常に移り変わり、未知であり、
人間の精神が決して名前を知らなかった快楽。

ボードレール的真実の旅人の思いが現実に投影されるとき、それは雲の形を取る。
雲は空中に漂い、形を変えながら浮游する。
実体はなく、形体だけの存在ともいえる。
そして、その形は気象条件によって様々に変化し、見る者の思いによってどのようにも捉えることができる。
だからこそ、見る者を捉えて放さない。
目的なく旅だった真の旅人を捉える欲望は、従って、激しいものであったとしても、常に変化し、未知であり、新しい何かを指し示すことになる。
「旅」の最終詩節で言及される「未知なるもの」「新たなるもの」が、ここですでに示されている。
それは、ボードレールが『悪の華』第二版を通して、新しい詩を生み出そうとしていたことの証だといえる。
「ボードレール 「旅」 Baudelaire « Le Voyage » 新しい詩への旅立ち 1/7」への1件のフィードバック