日本における自然観と美意識 もののあわれ

日本的な感性は自然の移り変わりに敏感であり、春は桜を楽しみ、秋は紅葉に感嘆する。その際、桜や紅葉がいつまでも咲き続けることを望むのではなく、それらが束の間の美であることに強く心を動かされる。

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ 

『古今和歌集』に収録された紀貫之のこの和歌は、桜の花と人の心の対応、過ぎ去る時間に対する意識、和歌全体を貫くしみじみとした抒情性など、日本的な美意識の一つの型を見事に表現している。

まず最初に、平安時代までに成立したと考えられるこうした美意識の基底には、どのような自然観があるのか考えてみよう。

葦牙(あしかび)

日本で最初に書物として残っているのは『古事記』(712)、次に『日本書紀』(720)。その二つの歴史書は、「天地開闢(てんちかいびゃく)」の神話から始められる。

『古事記』は、まず三柱の神の名前を挙げる。

天地開闢の時、高天原に、神が現れました。名を、天のみなか主の神、次に、高きみむすびの神、次に、かむみむすびの神と申され、これら三柱の神はそろって独り神であらせられます。そしてそのまま姿を隠されました。 

『日本書紀』では、中国の史書に基づき、世界の起源に関する一般的な説が述べられる。

昔、まだ天と地が分かれておらず 、陰と陽が分かれておらず 、混沌としていて鶏の卵のようでした。 そこにほんのちょっと兆しがありました。 その澄んで明るいものは 、薄く広がって天となりました。 重く濁ったものは地となりました。 天となるものは動きやすく、地となるものは固まりにくかったのです。 なので天が先に生まれ、 次に地が固まりました。 その後、その中に神が生まれました。 

その後で、日本の起源神話が告げられる。

その次に、国幼く、浮く脂のように、またくらげのように漂っていたとき、葦の芽のように萌え上がってできた物により神が現れ、 名を宇摩志阿斯訶備比古遲神(うまし/あしかび/ひこじ/神)、次に、天の常立の神と申され、これら二柱の神もまた、そろって独り神にあらせられます。そしてそのまま姿を隠されました。(古事記)

世界が生まれたとき 、国は漂っていました。 それは魚が水に浮かんでいるようでした。 天地の中に一つの物が生まれました。 葦の芽に似ていました。 国常立尊(くにの/とこ/たちの/みこと)です。(日本書紀)

『日本書紀』では、世界の起源に関して、『古事記』の説も紹介している。

ある書によると、昔、国も地も出来上がっていないときは、例えるならば水に浮かぶ油のように漂っていました。 その時、その国の中から、葦の芽が生えるように、一つの物が生まれました。そうして生まれた神を可美葦牙彦舅尊(うまし/あしかび/ひこじ)と言いました。(日本書紀)

この記述から、8世紀の初頭に、日本の成り立ちがどのように説明されていたかを見て取ることが出来る。
1)混沌として漂うなにかがある。
2)そこに葦の芽(牙)が萌え出る。
3)その葦牙(あしかび)が、「うまし/あしかび/ひこじ/」(古事記)あるいは、「とこ/たちの/みこと」(日本書紀)と呼ばれる神。

こうした創世神話は、稲作という農耕文化に基づいている。

混沌として漂う状態は低地湿地地帯の水辺を思わせ、その土の中から稲の穂先が現れる。それは稲作の最初の段階であると同時に、混沌(カオス)がコスモス(秩序ある宇宙)へと構造化されるシンボルともいえる。

稲作が日本にもたらされた時期に関しては、一般的に弥生時代とされているが、縄文時代にはすでにもたらされていたという説もある。
いずれにしても、縄文的な野生の生命力が、弥生時代になり稲作という作業を通して人間によって制御されるという図式で考えることは、記紀の紀元神話の成り立ちを考察する上で、一つの視点を提示している。

時代が下り、3世紀から始まる大和王権は、「豊葦原の瑞穂の国」と自称し、稲作を国家運営の基礎とした。豊葦原の瑞穂の国とは、神意によって稲が豊かに実り、栄える国という意味である。

物:自然と人間 

「物」=全ての起源

稲穂(葦牙)の突き出す勢いは生命の象徴でもあり、その生命は稲の生長から収穫へと続き、翌年にはまた同じサイクルが繰り返される。
このように、稲作は、一年を周期とする季節の変化に基づき行われる。
そのことは、季節に対する日本的な感性と無関係ではないだろう。

ここで、四季の変化の中で生きる人間と自然の関係について考えてみよう。

葦牙が生成するとき、『古事記』では、「葦の芽のように萌え上がってできたにより神が現れ(如葦牙因萌騰之)」と記されている。
『日本書紀』でも同様に、「天地の中に一つのが生まれた。 葦の芽に似ていた(于時、天地之中生一。狀如葦牙) 」とある。

最初に生成するものは、記紀ともに、「物」である。

その「物」は、全ての生成物の起源となり、神であり、自然でもあり、人間にもなる。
『古事記』では、人間を「うつしき青人草」と呼ぶこともある。
全ての「物」には霊が宿り、崇拝の対象になれば神となり、恐れの対象となれば悪霊、鬼となり、眺める対象として自然が一方に立ち上がり、それを眺める側に立てば人間になる。

このような考えに従うと、人間と植物は同じ「物」であり、心を分かち合っていることも驚くにはあたらない。
柿本人麻呂は、山に雲がかかるように、自分の心をそっと隠しているが、しかし、木の葉はその心を知っていると歌う。

天雲の たなびく山の 隠りたる 我が下心 木の葉知るらむ
                         (『万葉集』)

和歌の歌人たちが、草や木、月や動物の声に心を託して歌うのは、「物」を全ての生命の始まりとする日本的な世界観に基づいていると考えても、間違ってはいないだろう。

人間と自然の分離

全てが「物」の変容だとしても、しかし、視点を変えれば、同一の存在ではない。

稲作を考えた場合、農作業は一年の周期の中で、季節に従って進められる。春の後には夏が来て、秋になる。そして冬がくれば、一年が終わる。
季節は次々に移り変わっていく。
と同時に、次の年になれば、季節は巡り、春はまた戻ってくる。
自然は、一方で時間とともに進行しながら、他方では永遠に回帰するという、二つの側面を持っているのである。

それに対して、人間の生は、子どもから老年への向かい、その流れは一方にしか向かわず、回帰することはない。人間にとって、時は無情に流れていく。

7世紀の唐の詩人、劉廷芝(りゅうきい)は、人間と自然の違いを次の詩句で見事に表現した。

年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず   (「代悲白頭翁」)

毎年毎年、花は同じように咲き、自然は変化しない。それに対して、人はこの世を去り、顔ぶれは毎年変化する。
そのように歌うとき、劉廷芝は、自然の中でも永劫回帰の側面にスポットライトを当て、時間の中に生きる人間の生の儚さを際立たせたのである。

同じ唐の詩人、杜甫の「国破れて山河在り 城春にして草木深し」という詩句からも、永遠の自然と儚い人間の生の対象が浮かび上がってくる。
人間の作り出した長安の都は、戦さで破壊される。他方で、自然の山や河は昔のままであり、春になると城内には草木が深く生い茂る。それだからこそますます、人間の不在が強く感じられる。

日本でも、『万葉集』の中で、人間と自然を異なった存在として歌う歌がある。

高山と 海とこそば 山ながら かくも現(うつし)く 海ながら しか真(まこと)ならめ 人は花物ぞ うつせみ世人

高山は山として現実にあり、海は海として真実として存在する。しかし、人は花であり、人生は儚い。
この歌の中で、現(うつし)や真(まこと)と空蝉(うつせみ)という二つの相が区別される。山や海といった自然は永遠 の存在、実物(さねもの)として捉えられる。他方、人間は花のように儚く散る存在と見做されている。

ここで注目したいのは、「人は花ぞ(人者花曽)」という表現である。
人は花と言われるだけではなく、「物」という規定がなされる。
つまり、人間はまず「物」という実物であり、その上で、花という属性が示されているのである。
そのことは、全てが「物」であることの証しといえる。

従って、「高山と海とこそば」の歌は、「物」の世界を前提とし、一方には「実物」としての自然が現れ、他方には「空蝉」としての人間が分岐するという、二元的な思考に基づいていることになる。

季節の移り変わりと季語

自然は、いつでも永遠あるいは永劫回帰の側面から捉えられるだけではなく、時間の中で変化し、消滅するという側面で捉えられることもある。
そして、変化の相は、季節の移り変わりとして表現される。

次々に

季節の移り変わりを一年の周期に限ってみれば、春が来て、夏になり、秋への移行し、冬になる。季節は次々に進んでいくだけで、その順番が決して逆転することはない。一つの季節が終わり、次の季節に移行し、美しい景色も時間の経過とともに消滅していく。

時間の経過が「次々に」進行するという意識は、『古事記』の冒頭に置かれた創世神話の中で、明確に表現されている。

 天地開闢の時、高天原に、神が現れました。名を、天のみなか主の神、次に、高きみむすびの神、次に、かむみむすびの神と申され、 これら三柱の神はそろって独り神であらせられます。そして、そのまま姿を隠されました。
 その次に、(中略)、葦の芽のように萌え上がってできた物により神が現れ、 名をうましあしかびひこちの神、次に、天の常立の神と申され、 これら二柱の神もまた、そろって独り神にあらせられます。そして、そのまま姿を隠されました。

最初の三柱の神の名前、次の二柱の神の名前が、文字通り次々に挙げられる。
その上、これらの神々は、独り神であると言われ、何の働きもなく、すぐに姿を消してしまう。

次々に現れては姿を消す状況は、時間の経過とともに全てが失われていく現実世界のあり方と対応していると考えることが可能だろう。

人間の生も、春夏秋冬という季節も、後戻りはできず、永遠に続くものはなく、全ては虚しく消滅する。
この視点に立てば、儚いのは、人の世だけではなく、自然も同様となる。

『古今和歌集』には、人の世と自然の儚さを歌った詠み人知らずの和歌がある。

うつせみの 世にも似たるか 花桜 咲くと見しまに かつ散りにけり

散る花に自分を重ね、生の儚さを慨嘆する歌もある。

秋風に  あへず散りぬる  もみぢ葉の  ゆくへ定めぬ  我ぞかなしき

人間も花も、時間の経過と共に散っていく。そのように現実を捉える意識の基礎には、「次々に」時間が流れている。

暦と季語

最初に日本に暦がもたらされたのは6世紀と言われ、7世紀の終わりからは正式に採用されたとされている。

当時の暦は、一般には旧暦と呼ばれる太陰太陽暦法であり、季節と月の関係は次のようなものだった。
春:睦月(1月)、如月(2月)、弥生(3月)
夏:卯月(4月)、五月(5月)、水無月(6月)
秋:文月(7月)、葉月(8月)、長月(9月)
冬:神無月(10月)、霜月(11月)、師走(12月)

ところで、旧暦では、各月の一日(ついたち)を月の満ち欠けに拠って決めるため、元日がぴったり立春の日になることは珍しく、早ければ新暦の1月18日であることも、遅ければ2月19日であることもあった。日付だけでは季節を正確に知ることはできなかったのだ。
そこで、太陽の運行に拠って決まっている立春などの二十四節気や雑節が、何月何日になるのかを常に意識することが必要とされた。
おおまかに言えば、旧暦は立春の頃を元日とし、新暦の2月初め頃となる。そこから類推して、旧暦は新暦よりも約1ヶ月くらい遅れていることになる。

万葉集の時代、この暦と現実の季節を言葉の上で一致させるようになる。
例えば、大伴稲公(いなきみ)の歌。

時雨の雨 間無くし降れば 三笠山 小末(こぬれ)あまねく 色づきにけり

しぐれの雨は、万葉の時代には、晩秋のものとして詠われることが多かった。
小末(こぬれ)とは小枝の意。
秋が深くなり、時雨が降り、三笠山のもみじが紅葉したを歌っている。
そして、こうした和歌を通して、時雨、紅葉という言葉が連結し、秋の季語が形成されていったと考えてもいいだろう。

大伴家持の歌。

卯の花の 咲く月立ちぬ 霍公鳥(ほととぎす) 来鳴き響(とよ)めよ、含(ふふ)みたりとも

卯の花は4月の花。旧暦で、4月は卯月と呼ばれる。
その月には、初夏の鳥であるホトトギスが鳴く。
ここで家持は、4月になっても卯の花はまだつぼみのままなので、ホトトギスに、もっと鳴いて卯の花を開花させて欲しいと願う。

春は、鶯と梅の季節。高向老(たかむくのおゆ)の歌。

鶯の声(おと) 聞くなへに 梅の花 吾家(わぎへ)の園に 咲きて散る見ゆ

万葉の時代、梅の花は外来の植物で、珍しいものだったという。その梅とウグイスを結び付け、ウグイスの声を聞きながら、梅の散る姿を見ると歌う。そうすることで、暦の春と季節の風物が、歌の世界で結びつくようになる。

このようにして、春は梅と鶯、夏はあやめ、卯の花とホトトギス、秋は萩と鹿の声、紅葉と雁、冬は冬は雪と、雪に紛れて咲く梅、という取り合わせの季語が成立していった。

11世紀初頭に書かれた清少納言の「枕草子」の冒頭、それぞれの季節の美が、「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて。」といったように、数え上げられる。こうした季節感も、季語と同じように、言葉として書かれることで、人々の心の中に定着していったのだろう。

季語と季節のずれ

こうした季語が季節感を表現するようになると、あえて季語と季節のずれを和歌のテーマにすることも起こる。

年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ

暦の新年になる前に、春が来てしまった。そうしたずれが起こったとき、その時を去年と言っていいのか、それとも今年というべきなのか。
この和歌は、人々の意識の中に、それほど強く暦が定着したことを示している。

では、暦と現実の季節のずれが起こったとき、どのように対処すべきなのか。

春来ぬと 人はいへども うぐひすの なかぬかぎりは あらじとぞ思ふ

壬生忠岑(みぶのただみね)のこの和歌は、春の季語として鶯が定着したことを前提としている。その上で、暦では春になったことと、鶯が鳴いていないという現実とをつなげ、暦よりも、現実の鶯の声を大切にしたいと歌っている。

こうしたずれを主題にした和歌の存在は、逆接的に、暦と季語の強い結びつきを示している。

もののあわれ

「ながめ」と「あわれ」

「次々に」という時間意識は、人間も自然も時間の中で推移し、全てのものは儚く消えていくという意識につながる。

散る花を  何か恨みむ  世の中に  我が身も共に  あらむものかは (詠人知らず)

花も散るし、人間も衰え死んでいく。どちらも同じように時間に流されて消えていく。時の流れの無情さと、我も人も自然でさえも同じだと思うことで、運命を甘受する諦観を歌っている。

小野小町も、永遠に続くものはなく、美しい花が時間とともに萎れていくように、私も年老いていくという感慨を歌う。

花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

「散る花を」の句とは違い、「花の色は」では、全てが衰える運命を甘受するという以上に、深い情感が込められている。「いたづらに」という言葉が、作者の悲しみをこっそりと暗示し、大きな声で悲しいと言われるよりもずっと深く、秘められた感情が表出されるのである。

この和歌について、紀貫之は、『古今和歌集』の「かな序」の中で、「あはれなるようにて強からず」と書いている。その「あはれ」の感情は、小町の「いたずらに(・・・)ながめせし」という姿勢に由来している。

「ながめ」というのは、風景を遠くから見渡すという意味と同時に、もの思いにふけりながらぼんやりと見るという意味でもある。つまり、凝視してはっきりと物を見るのではなく、景色の風情、趣に思いをはせ、心の中にその情景を取り込んでしみじみと感じることといっていいだろう。

『源氏物語』の「須磨」の中での一場面。
光源氏は須磨を離れ京都に戻る決意をし、左大臣に挨拶に行き、その夜を左大臣宅で過ごす。翌朝、彼は朝早く、暗い間に還ろうとする。その翌朝の描写は次の様なものである。

明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかなる木陰の、いと白き庭に薄く霧りわたりたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜のあはれにおほくたちまされり。隅の高欄におしかかりて、とばかり、眺めたまふ。

光源氏が朝暗い間に大臣宅を去ろうとする時、有明の月がとても美しい。花の咲いた木々はすでに盛りを過ぎているが、少しの花が若葉の蔭かげに咲き残ったのが見える。わずかに霞がかかったその庭の様子は、「あわれ」の面で、秋の夜に優っているとさえ感じられる。源氏は、隅すみの欄干によりかかって、しばらくその様子を「ながめ」ている。
こう言ってよければ、「ながめ」ることが、「あわれ」を生み出す姿勢である。

それは何故か?
答えは、眺めることは、客観的に対象に視線を送ることではなく、対象以上の何かを感じ取ることにある。見えないものまでも見る行為。

柿本人麻呂の作とされる明石の浦を歌った歌は、見える物があえてぼんやりとしている。

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島かくれゆく 舟をしぞ思ふ

ほのかに夜が明け、朝霧が立ちこめる風景は、おぼろげな印象を与える。その風景の中を小さな舟が浮かび、島の向こうへと進み、見えなくなっていく。そして、見えるものが消えることで、見えない何かが感じられる。
その結果、ほのぼのとした「ながめ」がしみじみとした物思いへと人を誘い、「あわれ」という感情を導く。

もののあわれ

「あわれ」という感情は、時間と共に何かが失われていく時に感じるものであり、それが美と結びつくとき、「もののあわれ」という表現がなされることになる。

春はただ 花のひとへに 咲くばかり、もののあはれは 秋ぞまされる

『拾遺和歌集』に収められた詠み人知らずのこの歌は、「もののあわれ」が、消滅と関係していることを示している。

花は、咲き誇る時ではなく、散る時。
春の景色であれば、夜、月のおぼろげな光の下で、霧や霞に包まれている時。
恋であれば、燃え上がる時ではなく、はかなく終わる間際。

そうした時、悲しみを感じるだけではなく、美を感じ取るとき、もののあわれという言葉で表現される感覚が現出する。

その際に、失われる事態をながめ、そこに喪失以上の何かを直感する、人間の心の動きを欠かすことはできない。

心の動きを最も感じやすいのは、恋愛においてだろう。しばしば理性では抑えきれない情念があふれ出し、制御不能となる。
藤原俊成はそのことをよく知っていたに違いない。

恋せずば 人は心も なからまし もののあわれも これよりぞ知る

恋をする時、人の心は大きく動く。その動きのおかげで、もののあわれを知ることができると、俊成は歌った。
もう一歩踏み込んで考えると、心が外の世界の変化に対応して動き、散りゆくものや消え去るものと一つになるとき、もののあわれの美を感じると言うこともできる。

『源氏物語』では、六条院の鈴虫の宴の折、光源氏は琴を合奏し、興が乗ってきた時、「もののあわれ」という言葉を口にする。

月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。

月を見る夜にはいつでも「もののあわれ」の感を抱くけれど、その夜の月の色はことの他その感が強い。そこで、この世のことではない世界、つまり死後の世のことまでも想像するというのである。

この言葉の後、光源氏は、亡くなってしまった権大納言が、花や鳥の色や音の美を語る相手として、今は懐かしく思われると付け加える。

この一節から、紫式部のもののあわれは、見えるものが消えていくことに対してだけではなく、消えてしまい、今では目に見えないものを思い出させる役割を果たしていることがわかる。
あわれが哀れだけではなく、心が慰められるという含意を持っている理由が、そこにあるのだろう。

。。。。。。。。。。

平安時代に成立した美的な感性は、全てのものは時間の中で押し流され消えてしまうという時間意識に基づき、哀しみを感じると同時に、しみじみとした物思いに浸り、心を慰めることにしっとりとした喜びも見出した。

「もののあわれ」に象徴されるこの美意識は、室町時代の美意識の核となる無の思想と複雑に融合しながら、日本的な美を生み出していった。
その点については、次の段階の検討が必要になる。

日本における自然観と美意識 もののあわれ」への3件のフィードバック

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      いいね: 1人

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