ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 4/4

第19詩節で言及された、生を生き、「私」から離れない、真の齧歯類(le vrai rongeur)とは何か?

墓石の下では死者たちを蝕み、個体を崩し、大地にしてしまう。
では、地上では、何をかじるのか?
その対象は、「正確さに対する限りない欲望」を抱いた意識ではないだろうか。

その欲望が「私」を苛み、意識は、自己へ向かう愛、あるいは憎しみになる。

Amour, peut-être, ou de moi-même haine ?
La dent secrète est de moi si prochaine,
Que tous les noms lui peuvent convenir !
Qu’importe ! Il voit, il veut, il songe, il touche!
Ma chair lui plaît et jusques sur ma couche,
 ce vivant je vis d’appartenir !

愛だろうか、おそらく。あるいは、私自身に対する憎しみか。
秘密の歯が、私のすぐそばにあり、
あらゆる名称が、その歯に相応しい!
名前はどうでもいい! ウジ虫は、見、望み、夢見、触れる!
私の肉体を好む、寝床に至るまで。
この生物に、私は属して生きるのだ!

自己に対する愛「あるいは」憎しみの「あるいは」は、どちらかの選択を迫るものではなく、「すなわち」の意味で考えてもいい。
愛と憎しみは、主体が客体に向かうエネルギーであり、そのエネルギー(力)が愛として現れることもあれば、憎しみとして現れることもある。

「私」への愛あるいは憎しみ、つまり自己意識は、その歯(la dent)で「私」をかじる。
その歯は避けることができないほど近く、「私」の内部にある。というよりも、「私」そのものでもあり、主体でありながら、客体でもある。

それを何と呼ぼうが同じことであり(tous les noms (…) Peu importe)、歯でかじるもの(意識)は、目で見たり、手で触れたり、夢を見たり、欲望を抱いたりする。

その「私」の意識は、決して純粋で抽象的な存在ではなく、「私」の肉体(ma chair)によって限定されている。寝ている時でも、身体とともにある。

私たちの知(connaissance)の限界は、私たちが自分たちの存在に関して持つことができる意識(la conscience)であり、そして、たぶん、「私たちの身体(notre corps)」に関して持つことができる意識である。(ポール・ヴァレリー「覚書と余談」)

意識は生きており、「私」も、その生命体に属することで、生きている。

ここで語られるのは、墓地の下ではなく、墓地の上での意識のあり方に他ならない。

続く第22詩節と23詩節は、数多くの感嘆文が連ねられ、詩句自体が生命感に満ちあふれている。そして、その勢いが、最終詩節の「風が立つ」へと繋がっていく。

Zénon! Cruel Zénon! Zénon d’Élée !
M’as-tu percé de cette flèche ailée
Qui vibre, vole et ne vole pas !
Le son m’enfante et la flèche me tue !
Ah ! le soleil… Quelle ombre de tortue
Pour l’âme, Achille, immobile à grands pas !

ゼノン! 残酷なゼノン! エレアの人ゼノンよ!
お前が私を射貫いたのだ、羽根の生えた矢で、
揺れ、飛び、飛ばない矢で!
矢の音が私を生みだし、その矢が私を殺す!
ああ!太陽。。。亀のなんという影なのか、
魂にとって、アキレウスよ、大股で歩く不動の男!

エレア派のゼノンは、古代ギリシアの哲学者で、パラドクスで名高い。
その中でも、飛ぶ矢のパラドクス、アキレウスと亀のパラドクスはよく知られている。

飛ぶ矢のパラドクスとは、飛んでいる矢は止まっているというもの。
矢が飛んでいるとして、その矢は,どのような時点でも、その瞬間は止まっている。
とすれば、どの瞬間でも止まっていることになり、従って、飛んでいる矢は止まっていて動かないということになる。

アキレウスと亀のパラドクスは、速度の速いものがいつまでたっても、遅いものに追いつくことができないというもの。
足の速いアキレウスと、遅い亀が競争する。その時、アキレウスのスタートする場所と亀のスタートする場所に差をつけ、亀はアキレウスよりも前の方で出発する。
同時にスタートし、アキレウスが亀を追い抜くためには、まず亀のスタートした点Aまで行かないといけない。その時、亀はその前の地点Bに行っている。
次にアキレウスはBまで行く。その時、亀はすでに地点Cにいる。
その繰り返しで、アキレウスは決して亀に追いつくことができない。

二つのパラドクスは、現実にはナンセンスである。
飛ぶ矢が止まっていることはありえないし、足の速いアキレウスはすぐに亀を追い抜く。
しかし、現実にはありえない論を展開するパラドクスが誤っていると、論理的に証明することは難しい。
そのために、哲学や論理学、数学等の分野で、古代ギリシアの時代から、2000年以上に渡って論じられてきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゼノンのパラドックス

第22詩節の中で、二つのパラドクスは、矢が飛ぶけれど飛ばない(flèche […] qui […] vole et ne vole pas)、大股で歩く不動のアキレウス(Achille, immobile à grands pas)という詩句によって、示されている。

ヴァレリーは、パラドクスを逆手に取り、矢に関しては、「私」は羽根の生えた矢(flèche ailée)に貫かれる(percé)、とする。
ゼノンのパラドクスに従えば止まっているはずの矢が、羽根を付け、音(le son)を立てて飛ぶ。その音が聞こえ、意識が覚醒することで、「私」が生まれる。しかし、その時には矢は肉体に届き、「私」は殺されてしまう(me tue)。

アキレウスと亀に関しては、太陽と影を付け足し、日差しが亀の影(ombre de tortue)を作り出す情景を想像させる。
その影がアキレウスにかかっているとしたら、彼は決して追いつかない筈の亀に追いついていることになる。少なくとも、魂にとっては(pour l’âme)。

詩人は、意識の働きを空回りさせるゼノンを否定し、身体という限界を伴い、風を身体に受けることを望む。
そして、第23詩節になると、自己の身体に強く語り掛けるようになる。

Non, Non !… Debout ! Dans l’ère successive !
Brisez, mon corps, cette forme pensive !
Buvez, mon sein, la naissance du vent !
Une fraîcheur, de la mer exhalée,
Me rend mon âme… O puissance salée !
Courons à l’onde en rejaillir vivant !

いや、違う!。。。立て! 継続する時代の中に!
破壊しろ、我が肉体よ、この思考の形態を!
飲め、我が胸よ、風の誕生を!
新鮮な息吹が、海から湧き上がり、
私に我が魂を返してくれる。。。おお、塩辛い力よ!
潮の流れに向かって走ろう、再び湧き上がるのだ、命を宿して!

この思考の形態(cette forme pensive)とは、ゼノンのパラドクスに代表される、空回りする意識の働きを指す。
意識は、「私」の肉体(mon corps)を伴い、肉体を通した存在の感覚と共に働かなければならない。

Gustave Courbet, Mer orageuse

海から吹く風を感じるのは、肉体だ。
肉体があるからこそ、風の新鮮さ(une fraîcheur)を感じ、そして、その感覚が「私」の胸(mon sein)に「私」の魂(mon âme)を呼び起こす。
ここで繰り返される「私の」という言葉は、肉体、胸、魂が一般的な存在ではなく、「私」という個に属していることを強く示している。

その「私」に、生は宿る。
生とは、精神だけで生きるものではない。身体があり、そこに魂が宿る。
その時、精神も、不動の永遠ではなく、継起する時間(l’ère successive)を生きることになる。

風が波(l’onde)を立て、海も「私」も風の一吹き毎に沸き立ち、生きる(vivant)力にみなぎる。


第24詩節、意識は「私」から再び海へと向かい、海に向かって呼びかけが行われる。

Oui ! grande mer de délires douée,
Peau de panthère et chlamyde trouée,
De mille et mille idoles du soleil,
Hydre absolue, ivre de ta chair bleue,
Qui te remords l’étincelante queue
Dans un tumulte au silence pareil,

そうだ! 錯乱に恵まれた偉大な海よ、
豹の皮よ、穴の開いた外套よ、
数限りない太陽の偶像たち、
絶対の海蛇よ、お前の青い肉に酔い、
お前は、自らの燃えさかる尾を再び噛む、
沈黙に似た騒乱の中で、

海は風に吹かれて、錯乱したように荒れ狂っている。
そして、しぶきを立て飛び挙げる波には太陽の光が当たり、キラキラときらめいている。
詩人はその光景を、豹の皮(peau de panthère)や、穴の開いたマントに見立てる。マントの穴は、青い海原の上で無数にきらめく光の輝きだが、詩人はそれを太陽の生み出す偶像とみなす。

大海原は海の怪物ヒドラ。
青い海に大きな波が立ち上がり、その姿は、大蛇が自分の燃えるような尾を噛んでいる(remords l’étincelante queue)ように見える。

葛飾北斎、富嶽三十六景、神奈川沖浪裏

この荒れ狂う海を前に、海辺の墓地で瞑想にふけってきた「私」は、風が立つのを感じる。(第25詩節)

Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !

風が立つ!。。。 生きようとしなければならない!
巨大な空気が、私の本を広げ、また閉じる。
波が、粉末になって、岩々から吹き挙げている!
舞い上がれ、キラキラと眩しいページたちよ!
粉砕しろ、波たちよ! 粉砕しろ、喜びに満ちた水で、
静かな屋根、三角帆の小舟が餌をついばむこの屋根を!

墓地の一角に腰を掛け、地下の死者たちを想い、大海原を思い、自己を想い、そこに佇んでいた「私」。
本の存在を忘れ、精神は肉体を離れ、自己の限界を忘れて、パラドクスがはびこる世界に入り込んでいた。
それは生を失った、死者たちの世界。

その時、風が吹き、「私」が手にしている本のページを開けたり、閉じたりする。それは生命の息吹であり、「私」を再び生の世界へと導くサインとなる。

目を開けると、波が岩に当たり、砕け散っている光景が広がっている。
海には、小さな小舟が、三角形の帆を浮かべて、ちょうど屋根の上の小鳥のように見える。
この最後の一行は、「海辺の墓地」の冒頭の一行「この静かな屋根、そこには鳩が歩き(Ce toit tranquille où marchent des colombes)」への回帰に他ならない。

しかし、それは最初に墓地にやって来たときの「私」の意識に戻ることではない。
「私」は、身体としての個体性を保ちながらも、海でもあり、墓石の下の死者たちの集合体でもある。普遍でありながら、個別でもある。個別の生を生きながら、意識の根源的な普遍性も合わせ持っている。

「生」とは、そうした二つの見え方をする統一体の流れであり、力でもある。
そして、「私」は「生」に参加している。
「海辺の墓地」での思索は、そうした認識に「私」を導いたといえるだろう。

最後に、144行の詩句を読み切った報いとして、ドビュシーの「海」の第2楽章「波の戯れ」の音の流れに、身と心を任せることにしよう。

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