
オノレ・ド・バルザック(1799−1850)はフランスを代表する小説家。
彼は「戸籍簿と競争する」という意図の下、19世紀前半のフランス社会を描き出そうとした。
言い換えると、現実社会を小説によって「再現」し、社会の全体像を把握しようとしたといえる。
そのために、詳細な描写が行われると同時に、語り手がいたるところに顔を出し、全てを解説しようとする。語り手が饒舌なところが、バルザック小説の特色の一つになっている。

『知られざる傑作(Le Chef d’œuvre inconnu)』は、17世紀を代表する画家ニコラ・プッサンの若い時代の話。彼がポルビュス(Porbus)のアトリエを最初に訪問する所から始まり、老画家フレノフェール(Frenhofer)から絵画論(=芸術論)を学ぶ場面を中心に、物語が展開する。

ちなみに、ピカソはこの小説を愛読し、フレノフェールのアトリエがあったとされるパリのグラン・ゾーギュスタン通りに自分のアトリエを持ち、「ゲルニカ」を制作した。
最初に、『知られざる傑作』の冒頭(incipit)を読み、バルザックの語り口に耳を傾けてみよう。
Vers la fin de l’année 1612, par une froide matinée de décembre, un jeune homme dont le vêtement était de très mince apparence, se promenait devant la porte d’une maison située rue des Grands-Augustins, à Paris. Après avoir assez longtemps marché dans cette rue avec l’irrésolution d’un amant qui n’ose se présenter chez sa première maîtresse, quelque facile qu’elle soit, il finit par franchir le seuil de cette porte, et demanda si maître François Porbus était en son logis.
1612年の終わり頃、12月の寒い朝、一人の若者が、薄着の格好で、パリのグラン・ゾーギュスタン通りにある一軒の家の扉の前を行ったり来たりしていた。長い間その通りを歩いている様子は、恋する男の優柔不断さを思わせた。初恋の女性がどんなに簡単に相手を受け入れてくれるとしても、彼女の家を訪れる勇気がなかなか持てないのだ。若者は、最後にやっと扉の入り口を跨ぎ、フランソワ・ポルビュス先生が在宅かどうか尋ねた。
小説としてごく普通の始まり方なので気づかないでいてしまうのだけれど、「1612年の終わり頃」という書き出しは、「語り手」によって語られている。
その語り手が、青年の服は薄着だと言い、なかなか大画家の家の扉をくぐれない様子を、初めての恋人のところに向かう男の内気さにたとえる。
語り手は、多くの場合、小説家の代理人となり、物語を前進させ、描写をし、必要とあれば、登場人物の心理を説明し、出来事の原因や結果を明らかにする。
19世紀後半になると、ギュスターブ・フロベールなどは、語り手の存在をできるかぎり見せないようにして、登場人物の行動で全てが行われるような小説を目指した。
バルザックとフロベールのどちらがよくて、どちらが優れているか、という問題ではない。二人が異なった小説の語り方をしたと知ることで、読者の読み方にも幅ができ、小説に対する理解が深まることにつながる。
Sur la réponse affirmative que lui fit une vieille femme occupée à balayer une salle basse, le jeune homme monta lentement les degrés, et s’arrêta de marche en marche, comme quelque courtisan de fraîche date, inquiet de l’accueil que le roi va lui faire. Quand il parvint en haut de la vis, il demeura pendant un moment sur le palier, incertain s’il prendrait le heurtoir grotesque qui ornait la porte de l’atelier où travaillait sans doute le peintre de Henri IV délaissé pour Rubens par Marie de Médicis. Le jeune homme éprouvait cette sensation profonde qui a dû faire vibrer le cœur des grands artistes quand, au fort de la jeunesse et de leur amour pour l’art, ils ont abordé un homme de génie ou quelque chef-d’œuvre.
家にいるという返事を、下の階を箒で掃いている老女がしたので、若者はゆっくりと階段を上るのだが、一段一段立ちどまっている。新しく宮廷に通うようになった貴族が、王様からどのように扱われるか不安に思っているといった風だ。螺旋階段の上まで達した時にも、踊り場にしばらくの間留まる。アトリエのドアを飾っているグロテスクな取っ手を手に取るかどうか迷っているのだ。そのアトリエでは、アンリ四世お抱えの画家だったが、マリー・ド・メディシスがルーベンスを選んだために、お役御免になってしまった画家が、仕事をしていた。若者は深い感動を感じていた。その感覚は、偉大な芸術家たちの心を震わせたものに違いない。彼等が青春のただ中にいて、芸術に対する愛に燃えている時、天才と出会ったり、傑作を目にすると、そうした感覚を持つものだ。
若者は勇気を出して、アトリエのある階までの階段を上り、最後にアトリエのドアのノブ(heurtoir)の前まで来る。物語の展開はそれだけにすぎない。
しかし、バルザックは、若者の様子を細かく描写し、心の内を説明する。

階段を上る時に一歩一歩立ち止まるのは、王の前に進み出る新米の貴族の不安感と同じ気持ち。
ドアノブの前でどきどきするのは、才能のある多くの芸術家と同じ気持ち。
さらに、語り手は、アトリエの中の画家が、どのような人物かも予告する。
アンリ四世とマリー・ド・メディシスの結婚を描いた連作絵画は、ルーベンス作。
その有名な絵画は、当時の読者も知っていたことだろう。
その知識を前提にして、語り手は、若者が面会を希望している画家フランソワ・ポルビュスが、本来はアンリ四世のお抱え画家でありながら、1612年にはその地位をルーベンスに奪われてしまった状態にあると説明する。
Il existe dans tous les sentiments humains une fleur primitive, engendrée par un noble enthousiasme qui va toujours faiblissant jusqu’à ce que le bonheur ne soit plus qu’un souvenir et la gloire un mensonge. Parmi ces émotions fragiles, rien ne ressemble à l’amour comme la jeune passion d’un artiste commençant le délicieux supplice de sa destinée de gloire et de malheur, passion pleine d’audace et de timidité, de croyances vagues et de découragements certains.
人間の全ての感情の中に、一本の原初的な花が存在している。その花は、高貴な熱狂によって生み出される。その熱狂は弱まり続け、最後には、幸福はただの思い出になり、栄誉は偽りになっていく。こうした脆弱な感情の中で最も恋愛に似ているのは、栄光と不幸を定められている甘美な苦しみの道を歩み始めたばかりの芸術家の若々しい情熱。その情熱には大胆さと内気さ、漠然としたできるという気持ちと絶対にだめだという落ち込んだ気持ちが入り交じっている。
この一節で、バルザックは、語り手の口を借り、彼自身の芸術家像を提示する。
「一本の原初的な花(une fleur primitive)」というのは、才能の源と考えてもいいだろう。その花を産み出すのは、「高貴な熱狂 (un noble enthousiasme)」。
芸術家はインスピレーションを受け、熱狂し、情熱(passion)的に作品を作り出す。
しかし、そうした熱狂状態は時間の経過とともに弱まり、繰り返し創造を行っているうちに型にはまったものになり、作品は生命感を失ってしまう。幸福が思い出になり、栄光が偽りになるとは、最初の生き生きとした生の感覚が失われるということだろう。
才能がある芸術家、一本の原初的な花を持つ芸術家のキャリアは、栄光もあるが不幸もある。
その人生は、まさに「le délicieux supplice(甘美な苦しみ)」。
バルザックは、甘美と苦しみという矛盾する言葉を連結する(オクシモロン)ことで、読者に芸術家の生の複雑なあり方を印象付けている。
大胆(audace)な時もあれば、内気(timidité)な時もある。
成功すると信じている(croyances)時もあれば、もう駄目だと落ち込む(découragements)こともある。
こうした芸術家のあり方を通して見えてくるのは、バルザックの芸術に対する考え方。
理性に基づいて作品を構築する、ポー、ボードレール、マラルメたちの芸術観とは反対に、バルザックは、インスピレーションによって作品が構想される、ロマン主義的な芸術観を持っていた。熱狂(enthousiasme)や情熱(passion)という言葉が、そのことを明かしている。
À celui qui léger d’argent, qui adolescent de génie, n’a pas vivement palpité en se présentant devant un maître, il manquera toujours une corde dans le cœur, je ne sais quelle touche de pinceau, un sentiment dans l’œuvre, une certaine expression de poésie. Si quelques fanfarons bouffis d’eux-mêmes croient trop tôt à l’avenir, ils ne sont gens d’esprit que pour les sots. À ce compte, le jeune inconnu paraissait avoir un vrai mérite, si le talent doit se mesurer sur cette timidité première, sur cette pudeur indéfinissable que les gens promis à la gloire savent perdre dans l’exercice de leur art, comme les jolies femmes perdent la leur dans le manège de la coquetterie. L’habitude du triomphe amoindrit le doute, et la pudeur est un doute peut-être.
お金がなく、若い時に才能があったとしても、教師の前に進み出た時に胸を激しくときめかさなかった人間だとすると、欠けるものが出てくる。心の中の一本の琴線、何かわからないような筆のタッチ、作品の中の一つの感情、ポエジーのある表現。自己満足して大口を叩く人間たちがあまりに早く未来を信じすぎると、愚かな者しか彼らを才気あると見なさなくなる。その点に関して言えば、この無名の若者は本当の価値を持っているようだった。才能は、最初に示された内気さとか、説明できない慎み深さで測るものなのだ。そうした慎み深さは、栄光を約束された人間たちでも、作品を作っていく間に失ってしまうことがある。美しい女性たちが、愛嬌を振りまいている内に、慎みをなくしてしまうのと同じように。いつも成功していると疑うことが少なくなり、慎み深さは、たぶん、一つの疑いになる。
あるべき芸術家像が示された後、ここでは、才能がありながら、芸術家として堕落する例が示される。
最初から自己満足していたり、成功を重ねるうちに最初のどきどき感や恐れ、疑い、そして慎み深さをなくしてしまうと、大切なものが作品から失われてしまう。
語り手は、その大切なものを最初に列挙している。
心の中の一本の琴線(une corde dans le cœur,)
何かわからないような筆のタッチ(je ne sais quelle touche de pinceau)
作品の中の一つの感情(un sentiment dans l’œuvre)
ポエジーのある表現(une certaine expression de poésie)
これらが、『知られざる傑作』が提示する、傑作の要素ということになる。
このように、バルザックは、小説の最初のパラグラフで、自分の芸術観を披瀝する。
その後、物語の展開の中で、語り手ではなく、老画家フレノフェールの口を通して、より具体的な絵画論が語られる。(続く)