フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 2/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 2 / 3

シャルルの心はどうしてもエンマから離れることができずにいる。医者としての仕事も手に付かず、生活費もままならなくなる。最後には、診療に向かう時の馬車を曳く馬まで売るところまできてしまう。

Un jour qu’il était allé au marché d’Argueil pour y vendre son cheval, — dernière ressource, — il rencontra Rodolphe.

ある日、彼はアルギュイユの市場に行き、馬を売ることにした。ーー それが最後の収入源だった。ーー 彼はロドルフに出会った。

ロドルフは、エンマの不倫相手。シャルルは、彼の手紙をエンマの手紙入れの中で見つけ、妻の裏切りを確信したのだった。
そのロドルフに会ったのだ。
フロベールはここで、« Il rencontra Rodolphe.»とだけ書く。これほど単純な文もなく、その単純さが出会いのインパクトの大きさを印象付ける効果を発揮する

シャルルはどんな態度を取るのだろう。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 1/5

Nadar, Gérard de Nerval

ジェラール・ド・ネルヴァルは、しばしば、狂気と幻想の作家と言われてきた。
しかし、彼の声に耳を傾けて実際に作品を読んでみると、その場その場で話題になっていることを、面白可笑しく、時に皮肉を込めて、友だちと話すのが大好きな人間の姿が見えてくる。
ちょっと内気で、あまり大きな声ではない。やっと4,5人の友だちに聞こえるくらい。でも、調子づくと、脱線しながら、面白い話が次々に出てくる。

1852年に『イリュストラシオン』という絵入り雑誌に5回に渡って掲載された「10月の夜」は、そうしたネルヴァルの語り口をはっきりと感じさせてくれる。

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フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 1/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 1 / 3

『ボヴァリー夫人』の中で、シャルルは可哀想な役割を担わされている。
彼はどこまでも妻のエンマを愛し、彼女をいたわる夫として行動する。
それに対して、エンマはロマン主義的な空想に似つかわしくない夫シャルルを退屈だと見なし、レオンやロドルフとの不倫に走る。挙げ句の果てに、毒を飲み、死を選ぶ始末。

そんなエンマの視線を通して小説を読む読者も、シャルルを退屈で、ダサイ夫と思い込む。多くの批評家も、シャルルは平凡な町医者で、歩道のように平板な会話しかできないと言う。

しかし、『ボヴァリー夫人』の冒頭はシャルルの子供時代のエピソードから始まる。
https://bohemegalante.com/2019/06/29/flaubert-madame-bovary-incipit-1/
結末でも、シャルルの死の直前に行動に焦点が当てられている。
エンマの死で小説は終わらない。

そこでふと思う。
エンマの目を通したシャルルは平凡でさえない夫だが、本当にそんな男なのだろうか、と。

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ベルト・モリゾ 穏やかな画筆を持つ印象派の画家 

Berthe Morisot, Jour d’été

印象派の画家たちの中でも、ベルト・モリゾ(1841−1895)の描く絵画は、穏やかで、優しい。
すすり泣きを取り去ったヴェルレーヌの詩の世界という印象がする。

「夏の日」(1879)を前にして、私たちは暑苦しさをまったく感じない。それどころか、夏の日差しでさえも、柔らかく、心地良い。

Edouard Manet, Berthe Morisot au bouquet de violettes

1841年に生まれ、1895年になくなったベルト・モリゾが画家として社会で受け入れられる道は、それほどたやすいものではなかっただろう。意志の強さは人一倍だっただろう。
しかし、彼女の表情に頑なさはなく、世界を見つめる澄み切った目が印象に残る。
エドワード・マネは彼女を数多く描いている。その中の一枚「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」。
彼女の絵画の世界は、この肖像画のように、落ち着きがあり、穏やかな美に満ちている。

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ヴェルレーヌ 忘れられたアリエッタ その9 Verlaine « Ariettes oubliées IX » 風景と人の心

19世紀の後半、フランスでは浮世絵が大流行し、日本趣味(ジャポニスム)が広がった。ヴェルレーヌがそうした流行とどのようにかかわり、日本の精神から何かを学んだのかどうかはわからない。
しかし、ヴェルレーヌの詩は、日本語を母語とし、日本的感性を持っている人間であれば、すぐに理解できる側面を持っている。逆に言うと、フランス的な感性を持った人間には、理屈で説明しないといけないのかもしれない。

巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る
Il pleure dans mon cœur / Comme il pleut sur la ville
(「忘れられたアリエッタ その3」)
https://bohemegalante.com/2019/07/26/verlaine-ariettes-oubliees-iii/

この詩句は、和歌に親しんでいる私たちには、そのまま心に入ってくる。

奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
                          (詠人知らず)

この句を読むと、私たちは、紅葉や鹿が秋をつげ、どこかもの悲しい感じ、つまり、もののあわれを自然に感じる。

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