ギュスターヴ・フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 1/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 1 / 3

『ボヴァリー夫人』の中で、シャルルは可哀想な役割を担わされている。
彼はどこまでも妻のエンマを愛し、彼女をいたわる夫として行動する。
それに対して、エンマはロマン主義的な空想に似つかわしくない夫シャルルを退屈だと見なし、レオンやロドルフとの不倫に走る。挙げ句の果てに、毒を飲み、死を選ぶ始末。

そんなエンマの視線を通して小説を読む読者も、シャルルを退屈で、ダサイ夫と思い込む。多くの批評家も、シャルルは平凡な町医者で、歩道のように平板な会話しかできないと言う。

しかし、『ボヴァリー夫人』の冒頭はシャルルの子供時代のエピソードから始まる。
https://bohemegalante.com/2019/06/29/flaubert-madame-bovary-incipit-1/
結末でも、シャルルの死の直前に行動に焦点が当てられている。
エンマの死で小説は終わらない。

そこでふと思う。
エンマの目を通したシャルルは平凡でさえない夫だが、本当にそんな男なのだろうか、と。

エンマの死後、シャルルは生きる気力を失ったかのように、徐々に死へと向かっていく。とりわけ、エンマの残した手紙入れの中からロドルフの肖像画を見つけた後になると、憔悴はひどくなる。

  On s’étonna de son découragement. Il ne sortait plus, ne recevait personne, refusait même d’aller voir ses malades. Alors on prétendit qu’il s’enfermait pour boire.
  Quelquefois pourtant, un curieux se haussait par-dessus la haie du jardin, et apercevait avec ébahissement cet homme à barbe longue, couvert d’habits sordides, farouche, et qui pleurait tout haut en marchant.

  みんな、彼が元気を失っているのに驚いた。外出もせず、来客も受け入れず、病人を診察に行くこともやめた。そこでみんなは、家に閉じこもって、酒を飲んでいるのだろうと噂した。
  時々、野次馬が庭の塀の上によじ上り、中にいる彼を見てびっくりした。髭は長く伸び、汚らしい服をはおり、人を寄せ付けない様子をしている。その上、歩き回りながら、大きな声で泣いているのだった。

フロベールは、作者として小説の本文の中に登場し、作中人物の行動や心理を説明することをしないことを原則とした。
現実社会で生きている時、そんな語り手は存在しない。誰も相手の心の中のことを説明してくれない。自分の視点を通してしか、現実は見えてこない。
神様のような人がいて、なぜこうなったのか、これからどうなるのか、説明してくれるわけではない。
フロベールは、現実社会と同じように、作中人物の視点を通して出来事が見え、展開する小説を目指した。

シャルルが気落ちしている場面でも、フロベールは語り手として彼の気持ちを説明するのではなく、 On(一般的な人)という主語を使い、人々がシャルルに投げかける視線を健在化させている。

その後からは、物好きな男、あるいは野次馬(un curieux)を登場させ、彼の目を通してシャルルの様子を描く。

シャルルは完全に引きこもりになり、身なりも構わず、時には泣いている。

こうしたシャルルの姿を見て、読者は二つの感想を持つことが可能だろう。
一つは、同情。
もう一つの感想は、浮気したあげく服毒自殺してしまった妻のことを女々しく思い続ける男などやはり凡庸で、駄目な男だと見下す、というものだろう。

作者はそうした判断を読者に委ね、何が起こっているのかを記述するだけに留める。

Le soir, dans l’été, il prenait avec lui sa petite fille et la conduisait au cimetière. Ils s’en revenaient à la nuit close, quand il n’y avait plus d’éclairé sur la place que la lucarne de Binet.

夏、夕方になると、彼は娘を連れて、墓地まで行った。二人は夜が暮れると戻って来るのだが、その時間に広場を照らすのは、収税史ビネの天窓だけだった。

今度は、目撃者は登場せず、語り手が淡々と事実を述べている。
その際も、フロベールはシャルルの心理を説明することはせず、娘のベルトと一緒にエンマのお墓に行き、日が暮れるまでそこにいたとだけ語る。

しかし、実は、読者にシャルルの心の中を覗かせる仕掛けがしてある。
フランスの夏は日が落ちるのが遅い。21時とか22時の時もある。
夕方からお墓に行き、日が落ちるまでと客観的な事実を告げながら、長い時間二人でお墓に留まり、暗くなるまで幼い子供と母の思い出に浸る。
そのことで、読者は、シャルルの悲しみや、それが引き起こした鬱状態の深刻さを読み取ることになる。
最初の「夕方(le soir)」と、次に出てくる「夏(dans l’été)」が、そのサインになっている。

逆に言えば、読者は、現実世界で生きている時と同じように、何気ない出来事や事物から、様々な兆候を読み取る必要があるということになる。

Cependant la volupté de sa douleur était incomplète, car il n’avait autour de lui personne qui la partageât ; et il faisait des visites à la mère Lefrançois afin de pouvoir parler d’elle. Mais l’aubergiste ne l’écoutait que d’une oreille, ayant comme lui des chagrins, car M. Lheureux venait enfin d’établir les Favorites du commerce, et Hivert, qui jouissait d’une grande réputation pour les commissions, exigeait un surcroît d’appointements et menaçait de s’engager « à la Concurrence ».

しかし、彼の苦しみの官能性が完全に満たされることはなかった。というのも、まわりに誰もそれを共有するような人がいなかったからだ。彼は、時々、(宿屋・黄金の獅子の女主人)ルフランソワさんのところに行っては、彼女のことを話そうとした。しかし、宿のおかみさんは彼の話をあまり真面目に聞かなかった。彼女にも辛いことがあったのだ。小売商のルルーが最近ファヴォリット・デ・コメルスという店を立ち上げた。そのおかげで、色々な小間使いをしてとても評判のよかったイヴェールが料金の増額を要求し、「競合する方と」契約すると脅したのだった。

『ボヴァリー夫人』で私たちが一番関心するのは、フロベールの人間観察の的確さだ。

ここでも、その観察眼がいかんなく発揮されている。
シャルルはエンマのことで頭がいっぱい。誰かと話したくて仕方がない。
しかし、相手はそんな感情を共有しない。かといって、無下にもできない。そんな時には、聞いているような格好をして、いくらでも話させておく。でも、ほとんど何も聞いていない。
黄金の獅子という宿屋の女主人ルフランソワが、彼の話を「片方の耳でしか聞かない(n’écoutait que d’une oreille)」という一言で、フロベールは、そうした人間の行動を見事に言い当てている。

そして、彼女には彼女の心配事があることが付け加えられる。
これも、現実生活と同じこと。
小説では普通主人公を中心した視点でしか出来事は進行せず、語られることも主人公と何かしら関係があることに限定されることが多い。
しかし、現実では、それぞれの人がそれぞれの視点で物事に対処している。
ルフランソワがイヴェールの賃上げ要求を苦にしているということは、シャルルと何の関係もない。
しかし、それをあえて語ることで、小説の世界をより現実的にするという意図を読み取ることができる。

それと同時に、小説はフィクションであり、言葉で成り立っていることも示される。

まず一つ目は、代名詞の使い方。
代名詞は、直前に出てきた名詞の代用になるために、「代」名詞と呼ばれる。
ところが、シャルルがルフランソワさんのところに行き、「彼女のことを話す(parler d’elle)」という時、彼女(elle)という代名詞が誰を指すのか、この文章の中ではわからない。つまり、それが代用する名詞が出てきていない。
しかし、それがエンマのことであることは、すぐにわかる。
シャルルはエンマのことしか考えていない。だから、彼が話しをしたいのは、彼女のことに決まっている。
読者は、それがすぐにわかるところまで、『ボヴァリー夫人』の世界に入り込んでいることを要求されているのだ。

二つ目は、「官能性(la volupté)」という単語。
彼の苦しみの官能性(la volupté de sa douleur)と、こなれない訳文にしてあるが、この言葉は同時代の詩人ボードレールの詩の中でもしばしば使われ、日常会話で使われる語彙ではない。

普通であれば、苦痛は苦しいものであり、人は避けたいと思う。
それに対して、「官能性(la volupté」は、肉体的、感覚的な喜び、あるいは魂の歓喜を意味し、人間を高揚させるものである。
そこで、苦痛と官能性を結び付けることは、日常的には不自然に感じられる。

しかし、文学的な次元では、その不自然さが、普段は気づかない事実を気づかせるきっかけになる可能性がある。
実際、妻の死は悲しみを引き起こし、思い出しても辛いだけだと感じられる。しかし、涙を流しながらでも妻について語ることで、実はそこに感覚的、肉体的な喜びを感じている可能性もある。
そうした秘められた真実を読者に気づかせるきっかけとして、「官能性」という言葉が使われていると考えてもいいだろう。

語り手が介入しないことで小説世界を現実世界に近づけながら、他方で、その世界がフィクションであり、その作り物が現実を鋭く読み説く視点を提示することも示す。
それが『ボヴァリー夫人』におけるフロベールの試みの一つと考えてもいいだろう。

シャルルは、この後、とんでもない人と出会うことになる。(2/3に続く)

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