フロベール 『ボヴァリー夫人』冒頭 1/3 Flaubert, Madame Bovary, incipit, 1/3

Eugène Giraud, Gustave Flaubert

ギュスターブ・フロベールの『ボヴァリー夫人』は、レアリズム小説の代表的な作品と言われると同時に、19世紀後半以降の文学や芸術の源流の一つとも考えられている。実際、そのどちらの面も兼ね備えているが、それ以上に、素晴らしい文章が織りなす小説世界は、傑作中の傑作と断言できる。
冒頭の一節(incipit)を読みながら、その魅力を実感してみよう。

フロベールの文章の魅力は、前から単語をたどっていくと、自然に光景が想像できる点にある。言葉の力によって、読者の想像力は、容易に場面や人物を描き出す。そこでフロベールは、本に挿絵をつけることと禁じたと言われている。

『ボヴァリー夫人』は次のように始まる。

Nous étions à l’Étude, quand le Proviseur entra, suivi d’un nouveau habillé en bourgeois et d’un garçon de classe qui portait un grand pupitre. Ceux qui dormaient se réveillèrent, et chacun se leva comme surpris dans son travail.

ぼくたちは復習室にいた。その時、校長先生が入って来た。後ろにはブルジョワ風の服を着た「新入生」。その後には用務員さんがいて、大きな勉強机を運んでいた。眠っている生徒たちは目を覚まし、一人一人立ち上がった。勉強中にびっくりしたという風に。

何気なく読めてしまう文だが、19世紀中頃の学校の様子を知らないと分からないことがある。

復習室( l’Étude)は日本にはない制度のための場所。教室(la classe)で勉強したことを定着させるために、復習する部屋。
後から出てくる教室(classe)とは、勉強の内容だけではなく、机と椅子も違っていた。
復習室で使われたのは、机と椅子が一つになった勉強机(pupitre)。
教室では、横に長い机(banc)と椅子だった。

用務員さんと訳したgarçon de classeに関しては、本当に用務員さんがいたのか、それとも同級生で係になった子なのか、どちらかはっきりしない。
現在の中学校(collège)には用務員さんはいないらしいのだが、19世紀にはいたかもしれないということなので、用務員さんとした。

小説の最初のパラグラフだけで、私たちは『ボヴァリー夫人』に関する多くの情報を得ることができる。

1)リアリズム小説

小説の素材が普通の学校であり、登場するのも校長先生、新入生、生徒たちというごく普通の人間であることは、リアリズムを特色付ける要素である。

19世紀前半のロマン主義以前には、芸術の素材は神話や歴史が中心であり、普通の市民を描くことはまれだった。
フランス革命以後、市民社会が成立し、同時代の人々が主人公として取り上げられるようになった。
ロマン主義の小説家であるバルザックやスタンダールの小説は、産業革命に伴って台頭した市民を主人公に据えているため、しばしばレアリズム小説と呼ばれる。

『ボヴァリー夫人』は、ノルマンディーの田舎やルーアンで繰り広げられる町医者とその妻の話を中心にしていて、近代生活の情景を描き出す。
将来エンマの夫となるシャルルの少年時代は、この小説がレアリズム的素材を用いることを予告している。

2)語り手の問題 「ぼくたち」とは誰か?

一般的に、小説には語り手がいる。その語り手は、しばしば作者の代理人として、小説の中に介入して、自分の意見を述べたり、登場人物の心の中の解説をする。
その典型的な例がバルザック。バルザックは語り手の口を通して、長いおしゃべりをする。うるさいくらいだけれど、それが魅力でもある。

語り手の介入は、一つの問題点を含んでいる。
現実世界では、誰もが自分の視点でものを見、感じている。日常生活の中で上空から全体を見渡す視点を持つことはないし、相手の心の中を解説してくれる超越者もいない。
そのために、語り手の介入は、物語られている世界の本当らしさを壊してしまうことになりかねない。

そこで、フロベールは、語り手の介入を可能な限り少なくし、登場人物たちの視点から見える世界を描くことに努めた。
その手法によって、彼の小説は、非人称的で、即物的、公正で無私だと言われる。
語り手が介入して、全てを見通したような解説をしないからだ。それをしたら、主観的な感想になってしまう。

もちろん、小説である限り、誰かが語る。語り手が完全にいないことはありえない。
そこで、『ボヴァリー夫人』でフロベールが編み出したのが、「ぼくたち」という主語。
新入生が復習室に入ってくる場面を、そこにいる生徒たちの一人に語らせる。視点は教室の中に置かれる。

小説が展開していくと、この「ぼくたち」はいつの間にか消えてしまい、シャルルの同級生が出てくることはない。そのために、「ぼくたち」が誰かということがしばしば問題になる。
しかし語りの問題として見た場合、「ぼくたち」の役割は、語り手の視点を教室の中、現実の場面に位置させることにあると考えることができる。
「ぼくたち」は誰でもいい。語り手の存在を隠すための代名詞なのだ。

「ぼくたちは復習室にいた。」 
この視点から、新入生が校長先生に連れられて来た光景が見られ、描かれる。
全てを見通す神のような存在の語り手と、その後ろで彼を操る作者の存在が感じられなくなる。そして、非人称的な語り口が生まれる。
フロベールが「ぼくたち」を用いた理由がそこにある。

3)「新入生」

小説の冒頭で「新入生」と名指された子どもの名前が明かされるまでに、読者は長い間待たされる。というか、冒頭から、シャルル・ボヴァリーという名前が出てくるまでのエピソードが続くと言ってもいい。それまで「新入生」は、名無しの「新入生」のままである。

このサスペンスは、『ボヴァリー夫人』の中心人物であるエンマの登場とも関係する。
読者は題名を見て、ボヴァリー夫人の物語を期待している。しかし、最初に登場するボヴァリー夫人はエンマではなくシャルルの母親。次のボヴァリー夫人は、シャルルの最初の結婚相手。エンマはなかなか出て来ない。

「新入生」と呼ばれる少年が自分の名前をシャルボヴァリーと口ごもり、クラス中の大爆笑を引き起こすエピソードは、エンマに関する遅延によるサスペンスの先駆けに他ならない。

フロベールがそうした技法によって何を意図したのかは議論が分かれるだろう。

読者の期待感を高める効果があることは確かである。

それ以外に、シャルルを新入生としばらく呼び続け、三人のボヴァリー夫人の存在をあえて作り出すことで、『ボヴァリー夫人』がシャルルとエンマに限定された物語ではなく、1850年代のフランス市民社会の縮図を示したと考えることもできる。

リアリズムは、個人の現実をリアルに描き出すだけでなく、対象となった時代の集団的な歴史(生活史、社会史)の一幕を表現するという側面もある。
「新入生」という言葉を用いるとき、フロベールが三回ともイタリック体にしていることからも、フロベールがそこに意味を込めたことがわかる。


Le Proviseur nous fit signe de nous rasseoir ; puis, se tournant vers le maître d’études :
– Monsieur Roger, lui dit-il à demi-voix, voici un élève que je vous recommande, il entre en cinquième. Si son travail et sa conduite sont méritoires, il passera dans les grands, où l’appelle son âge.

校長先生は、ぼくたちに座るようにと合図をした。それから、復習を指導する先生の方に振り返り、小さな声で言った。
「ロジェさん、生徒を一人お願いします。2年に入ります。もし勉強も行動もよければ、4年生の方に入れるようにします。年齢的には上級生の方ですから。」

復習室の先生は、ロジェという名前を与えられる。それに対して新入生は「一人の生徒」のままである。フロベールはなかなか生徒の名前を明かさない。そのことを強調するために、先生が名前で呼ばれるのだろう。

第5学年(en cinquième)というのは、中学の2年生にあたる。次のパラグラスになると生徒は15歳くらいと明かされるので、4年生のクラスに入る年齢だろう。(中学collègeは4年制)
このエピソードは、新入生と彼がいる場との関係を示すためのもの。
年齢に相応しいクラスに入れられるのはなく、下のクラスに入れられる。そのズレは、個人と社会のズレが拡大する19世紀的時代性と対応している。


次のパラグラフは、新入生の描写に当てられる。

Resté dans l’angle, derrière la porte, si bien qu’on l’apercevait à peine, le nouveau était un gars de la compagne, d’une quinzaine d’années environ, et plus haut de taille qu’aucun de nous tous. Il avait les cheveux coupés droit sur le front, comme un chantre de village, l’air raisonnable et fort embarrassé. Quoiqu’il ne fût pas large des épaules, son habit-veste de drap vert à boutons noirs devait le gêner aux entournures et laissait voir, par la fente des parements, des poignets rouges habitués à être nus. Ses jambes, en bas bleus, sortaient d’un pantalon jaunâtre très tiré par les bretelles. Il était chaussé de souliers forts, mal cirés, garnis de clous.

扉の後ろの角のところに立っているので、新入生の姿はほとんど見えなかった。彼は田舎のガキで、十五歳くらい。身長は僕等の誰よりも高かった。髪は額の上でまっすぐ切られ、村の聖歌隊の子のようだった。生真面目で、とても居心地が悪そうな様子をしている。肩幅は広くないのに、黒いボタンが付いた緑の布地のチョッキの肩口のところが窮屈そうだった。袖口の穴からは赤い手首が見えていた。赤いのは、いつも肌が晒されてるせいだった。吊りベルトでひどく引っ張り上げられた黄色っぽいズボンから、青い靴下をはいた足が出ている。靴はいかつくて、綺麗に磨かれていず、鋲のような飾りが付いていた。

1)視点 「ぼくたち」から語り手へ

フロベールは、描写を始める前に、一つの仕掛けを施している。

扉の後ろの角のところに立っているので、新入生の姿はほとんど見えなかった。

視点は「ぼくたち」に置かれていた。としたら、扉の後ろの角のところにいる新入生の姿はほとんど見えないはずである。
それにもかかわらず、彼の様子が上から下までしっかりと描き出されている。1枚の絵のようでさえある。
では、誰の視点から見える姿なのだろうか。
答えは、姿を見せない語り手。
「ぼくたち」という代名詞で読者の視点を生徒たちのいる場所に置いた後、ここでは全体像がもっとよく見える視点を導入する。その時、こっそりと、その視点が上に置かれたカメラからのものであることを、告白しているのである。

2)居心地の悪さ

新入生の描写の隅々まで、その子の存在の居心地の悪さを感じさせる。

上着は大きさが合わない。肩のところは窮屈そうで、袖は身近すぎる。ズボンも吊り上げられすぎているし、靴は磨いていない上に、厳めしすぎる。
すべてが彼には相応しくない。見るからに居心地が悪そうな様子をしている。
そのことは、描写の配色からも見て取ることができる。黒、緑、赤、青、黄色っぽい色。ばらばらで、調和がない。
この子が生真面目そうなだけに、ますます居心地が悪いのだろう。

この描写には、語り手の感想は一言も加えられていないし、新入生の心の内を明かす言葉もない。外観が丹念に描かれているだけである。
語り手の露骨な介入は感じられない。
それにもかかわらず、新入生がどんな子なのか、すぐに理解できる。客観的な描写でありながら、外観から子どもの内面が手に取るようにわかる。

現実の世界での私たちの判断も、これとまったく同じように働く。相手が心の内や意識の内容を明かさなくても、表情や服装、振る舞いから、心の内を読み取ることがある。
フロベールの描写は、客観的で非人称的であるが、それだからこそ、こうした現実のあり方に近いのだと考えられる。

3)皮肉 何でもないことの本

新入生が最初に校長先生に連れられてきたとき、ブルジョワぽい服を着ていたと書かれていた。
しかし、ここではまず「田舎のガキ」(gars de la campagne)と言われる。garsというのはgarçonよりも俗っぽい言い方。
しかも、髪の毛はぱっつんで、村の聖歌隊の子のよう。
手首が赤く焼けているのは、畑仕事などをして、いつも外にいるからだろう。
こうしたことは、ブルジョワとは正反対であることを示している。

最初のブルジョワ風という言葉を裏切る描写からは、作者の皮肉な姿勢を読み取ることができる。そうでなければ、最初にあえてブルジョワ風とは書かないはずである。

フロベールは、『ボヴァリー夫人』の主題をできる限り俗っぽく、外界と無関係で、つまらないものにしようとしたと告白している。
彼自身の表現によれば、「何でもないことの本」(C’est un livre sur rien.)。

皮肉は、対象と距離を置くことが前提となる。従って、新入生に向けられた皮肉な視線は、作品のテーマ全体に向けられたものであるとも考えられる。
フロベールは、作品の中で語られるシャルルの凡庸さやエンマの不倫といった物語から距離を置く。小説の目的は、そうしたことを描くことではない。そんなことは、何でもないこと(rien)なのだ。

しばしば『ボヴァリー夫人』はエンマの不倫を主題にした小説だと言われ、レオンやロドルフとの恋愛がテーマ的に語られることがある。そうした読み方は、この小説をまったく理解していないと言わざるを得ない。

では、「何でもないことの本」が目指すのは、何なのだろう。

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