ディーバ Diva ジャン・ジャック・ベネックス監督のスタイリッシュな傑作

「ディーバ(Diva)」では、物語が最小限に抑えられ、映像と音楽が生み出すスタイリッシュな場面がリズミカルに連続していく。
1981年の作品だが、2020年の現在見ても十分に斬新さが感じられ、映画的な楽しさを味わうことができる。
ジャン・ジャック・ベネックス監督が5年後に制作した「ベティ・ブルー(37°2 le matin)」と比べても、尖っているし、格好いい。

以下のサイトで、全編を通して見ることができる。(英語字幕)
https://vimeo.com/327232594

映画が始まってから約7分の間、一言もセリフがなく、若い郵便配達人ジュール(Frédéric Andréi)がクラシック音楽のリサイタルに行き、憧れの歌手の歌をこっそりテープレコーダーで録音する場面が続く。
観客は、アメリカのソプラノ歌手シンシア・ホーキンス(Wilhelmenia Wiggins Fernandez)の歌だけではなく、コンサート会場(Bouffes du Nord)そのものにも惹きつけられる。

会場の壁は荒れ果てているし、廃墟のようにさえ見える。
照明は暗く、歌手の純白の衣裳を浮かび上がらせている。その上、バックの一部は青みがかった光で照らされ、画面全体にニュアンスを加えている。

アルフレード・カタラーニのオペラ「ラ・ワリー(La Wally)」のアリア「Ebben? Ne andrò lontana」が流れる中で、こっそりと録音するジュール。
映像は、彼の手とテープレコーダーを映し、そこから徐々にアップして彼の緊張した顔へと移動する。
さらにカメラが横に移動すると、サングラスをかけた怪しげな二人の男たち。その後、もう一度ジュールの緊張した様子が映される。
こうした場面だけで、緊迫感がひしひしと伝わってくる。

この最初の場面にストーリーといえるようなものはほとんどない。
私たちは、音楽と映像によって聴覚と視覚を心地よく刺激される。こうした体験こそが、映画的な楽しみに他ならない。

ストーリーは場面と場面をつなぐ役割を果たし、観客は物語を辿りながら映画を見ていく。ストーリーがわからず、映像と音声だけで長い間映画を見続けるのは難しい。
逆に言うと、ストーリーがわかると映画がわかったと感じる。その映画について語る時には、物語の展開が中心になることがよくある。

しかし、映画が続いている間私たちが体験しているのは視覚と聴覚への刺激であり、私たちはその部分に強く反応し、映画的な楽しみを感じている。
「ディーバ」では、冒頭からそうした映画的快楽によって、観客を映画の中に引き込んでいく。

リサイタルに続くのは、電車から降りた一人の女が駅の構内を逃げるように走り、最後は道路で殺されてしまう場面。
ここでは、サスペンス調の音楽が流れ、誰かに追われているようにびくびくしながら歩く女は素足。
駅の外のカフェで監視をする男女二人の刑事と、女を追う殺し屋二人も、ほとんど言葉を交わさず、音楽と映像だけで場面が構成されている。

ジュールが家に戻り、録音したテープレコーデーでアリアを聴く場面から、駅で女が逃げるシーンを見てみよう。(youtubeにアップされているのは韓国で出ている英語版なので、セリフは英語、字幕はハングル語。)

なぜ女が追われているのか、追っている二人はポリスと言うが本当は誰なのか、カフェに座っている二人は誰なのか、何の説明もない。
ただ、女が逃げ、男二人が後を追う。
観客は、どうしてもストーリーを求めるので、誰? なぜ? を知りたいと思う。その気持ちが、映画の中に観客を引き込む力になる。

このシーンでは、ストーリーの説明をしないことで謎を作り出しているのだが、単調な作りであれば観客は飽きてしまう。飽きることなく見続けるのは、第一に、サスペンスを感じさせる音楽による。
音楽を担当したウラジミール・コスマは、「ラ・ワリー」のアリアとは対照的に、心臓の鼓動を感じさせるリズムを効かせた曲で、映像の流れにアクセントを与えている。この曲が、映像をアップテンポで前に進ませる。

「ディーバ」のストーリーは、冒頭の二つの場面、アリアの違法な録音と、殺された女のからんだ犯罪組織の追跡という二つの出来事から成り立っている。
一方は、ジュールと憧れの的であるオペラ歌手とのラヴ・ストーリー。
もう一方は、売春など人身売買に手を染める犯罪組織「カリブ海」の黒幕を告発するストーリー。殺された女は、ボスを告発するためにカセットテープに内情を暴露した音声を吹き込み、警察に届けようとしていた。

二つのストーリーは、二つの録音テープによって一つに繋がる。
その結合は、電車の駅から出た女がジュールのバイクの鞄にカセットテープを入れる場面によって行われる。
しかし、その場では、それがどのような意味を持つのか何の説明もない。
私たちは、ここでも、映像と音楽のリズム感のよさに運ばれて、映画を体感している。

「ディーバ」には、この二つのストーリーの他に、もう一つ核となる部分がある。
それは、ベトナム系の少女アルバ(Thuy An Luu)とゴロディッシュ(Richard Bohringer)の存在。
二人はジュールを助ける援助者の役割を果たしているのだが、物語上の役割よりも、彼らが住む場所や彼らの存在自体が怪しい魅力を発している。

ゴロディッシュは瞑想をし、波を支配する等と言い、家の中でも水中メガネやシュノーケルを付けていたりする。
バゲットにバターを塗りながら、禅や悟りの説明をすることもある。

こうした場面は、ストーリーとは何の関係もないし、物語の流れに何か意味をもたらすものではない。
その場面だけで独立し、映像、音声、セリフの面白さだけで成り立っている。

Phare de Gatteville

テープを狙う殺し屋に追い詰められたジュールがかくまわれる隠れ家も、なぜそこが選ばれたのかわからないし、物語の中での必然性もない。
ただ、映像的に美しいだけ。
私たちはつい意味を求めてしまうのだが、しかし、私たちが最初に体感するのは、映像であり音なのだ。
「ディーバ」はそのことを伝え続けている。

ジュールがシンシア・ホーキンスとパリの街を歩く場面は、その典型といえるだろう。
二人の間に言葉はなく、映像と音楽だけで構成されているが、その美に飽きることはない。

ウラジミール・コスマのロマンチックなピアノ曲、小鳥の鳴き声、パリの街並、チュイルリー公園の木々、小さな池とベンチ、朝靄のコンコルド広場。そして、二人の恋人の誇張のない身振り。
これほど美しいパリの映像はないといっていいほど心を打たれる。

サスペンスの場面は、スピード感に溢れ、映像が疾走する。
ジュールがパリの街頭をバイクで逃げまわり、メトロの中を走るシーンもその一つ。

映画は視覚と聴覚に訴えかける芸術であり、映像と音(音楽、セリフ)によって構成される場面で出来上がっている。
大切なことは、それぞれの場面の完成度が高いことであるが、それだけではなく、場面と場面がリズミカルに連続していることが求められる。
「ディーバ」はそうした要素をほぼ全て満たしていると言っても過言ではない。

1980年初頭からフランス映画は一つの黄金時代を迎えていた。
その先頭に立ったのがベネックス監督の「ディーバ」。
彼はその後、「ベティ・ブルー」でも大ヒットを飛ばした。
リュック・ベッソン監督は、「グラン・ブルー」を1988年に発表。94年には主演に「グラン・ブルー」と同じジャン・レノを使い、「レオン」を制作した。
レオス・カラックス監督は、「汚れた血」と「ポンヌフの恋人」で人気を博した。
1991年に発表された「デリカテッセン」で独特の世界像を表現したジャン=ピエール・ジュネ監督は、2001年には「アメリ」を発表し、大ヒットとなった。

2020年の現在、こうした素晴らしい監督たちの素晴らしい作品が忘れられている傾向にあるのは残念なこと。
とりわけ、この時代の最高傑作ともいえる「ディーバ」は、若い映画ファンに全く知られていない。

ストーリーは映画の一部ではあるけれど、映画的な面白さは映像と音楽の作り出す場面と、それらの場面が展開するリズム感にある。
「ディーバ」は、そのことを強く意識させてくれる映画である。

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