とても残念なことに、ジェラール・ド・ネルヴァルという作家は日本でもあまり知られていず、紹介される場合があったとしても、狂気と幻想の作家とか神秘主義などというレッテルが貼られてしまう。
そのために、最初から色眼鏡をかけて読まれることになり、現実を描写した美しい文章で綴られた作品でさえも、複雑でわからないとか、意味不明などという感想を持たれたりする。

彼の作家としての実像は、現実に興味を持ち、その時々に話題になっていることを取り上げ、ユーモアと皮肉を交えて機知の利いた話にする名手だった。
しかし、何度か狂気の発作に襲われたことがあり、最晩年にはその時の体験記的な物語を公表し、最後はパリの場末で首を吊って死んでしまったために、夢と狂気の作家に祭り上げられてしまうことになった。
そうしたことのもう一つの理由は、彼の思想が「超自然主義(surnaturalisme)」と呼ばれる傾向のものであり、現実主義的、合理主義的、実証主義的思考から見ると、非理性的だと見なされること。
「超自然主義」自体は、ロマン主義の時代には多くの文学者に共有されたものであり、とりわけ不思議なものではないし、古代ギリシアから連綿と続く伝統に基づいている。
しかし、精神病院に入れられた事実やギュスターブ・ドレの版画に見られる自死の怪しげなイメージといった要素が相まって、夢と狂気の作家というレッテルが形成されていった。

ネルヴァルの上に刻印されたそうしたレッテルをはがすために有効な方法は、彼が実際にどのような思考の持ち主だったのか明らかにすることだろう。
幸いなことに、最も基本的な思想は、1840年にネルヴァルが出版したゲーテ『ファウスト』の翻訳に付けられた序文に書かれている。
それを読めば、ネルヴァル作品の通奏低音が決して狂気から来ているのではなく、古代ギリシアから続く宗教的、哲学的な思考の反響であることが理解できる。
そして、その思考が、1841年の狂気の体験や1843年のオリエント旅行の際に得た知見によってより豊かなものになったことにも納得がいく。
狂気や夢、さらにはボードレールやゴーティエによって文学的な注目を集めたハシッシュ(麻薬)の体験が先にあるのではなく、ヨーロッパ精神の底流を流れる思想が先行し、それが現実の体験を意味づけたのである。
全て(tout)
ネルヴァルはゲーテの思想を「現代のパンテイスム(汎神論)」と呼び、「神が全ての中にいる(Dieu est dans tout)」と言う。
ここで最も重要な概念となるのは、「全て(tout)」。
パンテイスム(panthéisme)のpanは、ギリシア語で「全て」を意味する。(パンデミのパンと同じ。)
では、「全て」という言葉は何を意味しているのだろうか?
[…] ce poète a donné à tous les principes en lutte une solution complète qu’on peut ne pas accepter, mais dont il est impossible de nier la logique savante et parfaite. Ce n’est ni de l’éclectisme ni de la fusion ; l’antiquité et le moyen âge se donnent la main sans se confondre, la matière et l’esprit se réconcilient et s’admirent ; ce qui est déchu se relève ; ce qui est faussé se redresse ; le mauvais principe lui-même se fond dans l’universel amour. C’est le panthéisme moderne : Dieu est dans tout.
(前略)その詩人は、対立する全ての原則に完全な解決を与えた。それを受け入れないことはあっても、博識で完璧な論理を否定することはできない。それは折衷主義でも、融合でもない。古代と中世が混ざり合うことなく互いに手を差し伸べ、物質と精神が和解し、互いを尊重し合う。失墜したものが立ち上がり、歪められたものが真っ直ぐになる。悪い原則自体が普遍的な愛の中に溶け込む。それは現代のパンテイスムだ。神は全ての中にいる。
ネルヴァルによれば、「全て」の中では、対立するものが共存し、交互に働き合い、生成の原理となる。
彼が対立する原理として例示するのは、以下のもの。
古代と中世(時代)。
物質と精神。
失墜するもの(ce qui est faussé)は上昇する(se relève)。
歪められたもの(ce qui est faussé)は真っ直ぐになる(se redresse)。
悪い原則と普遍的な愛(l’universel amour)。
物質的な現実世界では、対立した原理は対立した状態のままに留まる。
物質は物質であり、精神は精神。落ちるものは落ち、上がるものは上がる。だからこそ、対立しているものとして捉えられる。
しかし、「全て」の中では、あらゆるものが流動し、対立を保ちながら融合したり、反転したりする。
そこで、ファウストの動きを論じる際には、次のような視点に立つことになる。
En effet, Faust s’élance volontairement hors du solide, hors du fini, on pourrait même dire hors du temps. Monte-t-il ? descend-il ? C’est la même chose, puisque notre terre est un globe. Va-t-il vers les figures du passé ou vers celles de l’avenir ? Elles coexistent toutes, comme les personnages divers d’un drame qui ne s’est pas encore dénoué, et qui pourtant est accompli déjà dans la pensée de son auteur ; ce sont les coulisses de la vie où Gœthe nous transporte ainsi.
実際、ファウストは進んで、個物の外へ、有限の外に飛び出す。時間の外と言うことさえできるかもしれない。彼は上がっているのだろうか? 下っているのだろうか? それは同じことだ。私たちの地球は球体なのだから。彼は過去の人々の方に向かっているのか、それとも未来の人々の方に向かっているのか? 人間は全員が同時に存在している。まだ開始されてはいないけれど、しかしすでに作者の頭の中ではでき上がっている芝居の、様々な人物のように。それは人生の舞台裏であり、ゲーテは私たちをそこに運んでいくのだ。

ネルヴァルはここで、「芝居(drame)」を例に出す。
その例は、「個物(solide)」、「有限(fini)」、「時間(temps)」から外に(hors de)出るというファウストの行動をわかりやすく理解させてくれる。
舞台の上で繰り広げられる芝居を現実世界と考えれば、そこは個物、有限、時間の世界。
そこから外に出るとは、舞台裏に行くこと。
舞台裏には、これから舞台で使われるかもしれない背景があり、すでに芝居を終えた役者、これから演技をする役者たちがいる。
そのように考えると、舞台裏では全てが潜在的に存在していることになる。
空間的な次元では、上に行くのも下に行くのも「同じこと(C’est la même chose)」。
時間的な次元では、過去も未来も「共存し(coexister)」している。
芝居がまだ始まっていないとすれば、人生という芝居はまだ展開していない(qui n’est pas dénoué)。
だからといって全てが混沌とした状態にあるのではなく、作者の頭の中ではすでに芝居は出来上がっている。
後に見るように、展開を形作るのは、頭の中ですでに出来上がっている芝居の「思い出」である。
ネルヴァルの考える「全て」は、こうした状態にある。
そこは混沌としているのではなく、対立という枠組みはある。
しかし、現実世界とは異なり、対立が対立のまま留まるのではなく、反転したり、流動したりする。上がるも下がるも、過去も未来も、同じことなのだ。
こうした「全て」の捉え方を、哲学の用語で言い変えれば、「叡智界」と呼ぶこともできる。
ネルヴァルも、それを知ってか、ファウストのテーマを、次のように定義している。
La lutte du bien et du mal dans une haute intelligence est une des grandes idées du 16e siècle, et aussi du nôtre […].
高度な叡智界における善と悪の戦いは、16世紀の偉大な思想の一つであり、それは同様に私たちの時代の思想でもある。
16世紀の思想という言葉でネルヴァルが意味するのは、ネオ・プラトニスムの思想。
それは、ソクラテス以前の古代ギリシア思想から始まり、プラトン、アリストテレスを通過してプロティノスに至る哲学思想の大きな流れと考えることができる。
その思想は、古代ローマの衰退に伴いアラビアを中心としたオリエントに流入し発展し、1453年のコンスタンチノープル陥落という象徴的な出来事をきっかけとして、ヨーロッパに還流したと考えられている。
近代合理主義の中では、魔術、錬金術、オカルト、神秘思想などという形で流通してきた思想を、ゲーテはファウストを通して取り上げたと、ネルヴァルは考えている。
そこで問題となるのは、物理的な現実世界の事象ではなく、「高度な叡智界(une haute intelligence)」になる。
それは、別の用語では、「超自然主義(surnaturalisme)」と名指される。
Le docteur Faust, présenté par l’auteur comme le type le plus parfait de l’intelligence et du génie humain, sachant toute science, ayant pensé toute idée, n’ayant plus rien à apprendre ni à voir sur la terre, n’aspire plus qu’à la connaissance des choses surnaturelles, et ne peut plus vivre dans le cercle borné des désirs humains.
ファウスト博士は、著者(ゲーテ)によって叡智と人類の天才に関する最も完璧な典型であると紹介される。あらゆる学問を知り、あらゆる思想をすでに思索しつくし、もはや地上において何も学ぶことも、見るものもない。熱望するのは超自然的な事象を知ることだけ。もはや人間的な欲望の狭隘な範囲の中で生きることはできない。
ファウストは、地上には何も望むものがなく、「超自然な事象(choses surnaturelles)」の知識だけを望む。
このように、ネルヴァルは、「全て」を、芝居の舞台裏、叡智界、超自然と、様々な様相の下に描き出す。
そして、そこにこそ彼の宗教的、哲学的思想の起源がある。
無限(infini)、虚無(néant)、夜(nuit)
「全て」を現実世界の側から見ると、無限の果ての夜、涅槃、虚無、夜と言った言葉で表現される暗黒と見なされる。現代科学の用語で言えば、ブラックホールと言ってもいいだろう。
Comme Faust lui-même descendant vers les Mères, la muse du poète ne sait où poser le pied, et ne peut même tendre son vol, dans une atmosphère où l’air manque, plus incertain que la vague et plus vide encore que l’éther. Au delà des cercles infernaux du Dante, descendant à un abîme borné ; au delà des régions splendides de son paradis catholique, embrassant toutes les sphères célestes, il y a encore plus loin et plus loin le vide, dont l’œil de Dieu même ne peut apercevoir la fin. Il semble que la Création aille toujours s’épanouissant dans cet espace inépuisable, et que l’immortalité de l’intelligence suprême s’emploie à conquérir toujours cet empire du néant et de la nuit.
ファウスト自身が「母たち」の許に下る時、詩人のミューズはどこに足を置いていいのかわからず、大気の中に飛び立つことさえ出来なかった。そこは大気が薄く、波よりも不確かで、エーテルよりもさらに空虚なのだ。ダンテが描いた地獄の輪を超え、限界のある深淵に下る。キリスト教の天国の輝かしい空間の超え、天の全ての空間を含んだその先の先に、虚無がある。神の眼差しさえ虚無の果てを目にすることができない。「創造」は常にその無尽蔵な空間の中で開花しつづけるように思われ、不死である崇高な叡智が、虚無と夜のこの帝国を常に征服しようと努めているようだ。

この一節には、「全て」を感知する際に用いられる様々な表現が凝縮されている。
ファウストにとっては下るのも上がるのも同じこと。
従って、ダンテが『神曲』の中で描いた「地獄の輪(cercles infernaux)」の底に位置する「限界のある深淵(abîme borné)」も、「キリスト教の天国の輝かしい空間(régions splendides de son paradis catholique)」も同じこと。
地獄の彼方であろうと、天国の彼方であろうと、さらに向こうには「空虚(le vide)」がある。
その虚無の「果て(fin)」は、「神の目(œil de Dieu)」さえ見ることができない。
地上的な視点から見ると、「全て」は、「虚無と夜の帝国(empire du néant et de la nuit)」なのだ。
しかし、そこは決して死の世界ではない。「創造(Création)」が胎動し、「崇高な叡智(intelligence suprême)」が永遠に活動を続けている。つまり、全てが流動し、生成が絶えず行われる、生命の起源でもある。
「無」が創造の根源でもあるという思想は、禅的な精神を持ち合わせている日本的感性を持つ人間には直感的に理解することができる。
しかし、対立するものはあくまでも対立する関係でしか見ないヨーロッパ的な精神には、捉えることが難しい概念だろう。Aと非Aは常にそのままで留まる。「無」が「有」になることはない。
比喩的に言えば、ネルヴァルはゲーテのファウストに従ってブラックホールに突入し、「死」と「生」が同一であり、「一」が「多」である「全て(tout)」を体験した。
理性から見れば狂気でしかないその体験にゲーテは形を与えようとしたのだと、ネルヴァルは言う。
Cet infini toujours béant, qui confond la plus forte raison humaine, n’effraye point le poète de Faust ; il s’attache à en donner une définition et une formule ; à cette proie mobile il tend un filet visible mais insaisissable, et toujours grandissant comme elle. Bien plus, non content d’analyser le vide et l’inexplicable de l’infini présent, il s’attaque de même à celui du passé. Pour lui, comme pour Dieu sans doute, rien ne finit, ou du moins rien ne se transforme que la matière, et les siècles écoulés se conservent tout entiers à l’état d’intelligences et d’ombres, dans une suite de régions concentriques, étendues à l’entour du monde matériel. […] Il serait consolant de penser, en effet, que rien ne meurt de ce qui a frappé l’intelligence, et que l’éternité conserve dans son sein une sorte d’histoire universelle, visible par les yeux de l’âme, synchronisme divin, qui nous ferait participer un jour à la science de Celui qui voit d’un seul coup d’œil tout l’avenir et tout le passé.
その無限は絶えず大きな口を開き続け、人間の最も強固な理性を当惑させるが、しかしファウストの詩人を恐れさせはしない。彼(ゲーテ)は、その定義をし、ある決まった表現を与えようと努める。動き続ける獲物に網を伸ばす。その網は、目に見えるが、捉えることはできず、獲物と同様に常に大きくなっていく。現存する無限の空虚さと不可解さを分析するだけでは満足せず、過去の無限にも同様に攻撃をしかける。神にとってと同じように、彼にとっても、何も終わりを迎えはしない。少なくとも、物質以外には何も形を変えない。これまで過ぎ去った時代の全ては、叡智と影の状態で、物質的な世界の周りに広がる同心円的な空間の連なりの中に保たれている。(中略)以下のように考えると慰めになるかもしれない。叡智界に触れたものは、何も死なない。永遠はその胸の中に一種の普遍的歴史を保っている。その歴史は魂の目には見えていて、神には全ての時代が同じというのと変わらない。その歴史のおかげで、私たちも、未来全体と過去全体を一目で見渡す「者」の知にあずかることができるかもしれない。
ゲーテがファウストを通して捉えようとした「無限(infini)」においては、全てが永遠に保たれている。
「何一つ終わりを迎え(rien ne finit)」、「何一つ死ぬことはない(rien ne meurt)」。「物質以外には何も形を変えない(rien ne se transforme que la matière)」。
全ての時代は「普遍的な歴史(histoire universelle)」に属し、過去も未来も同一の時間帯にある。
こうした認識を持つファウストは神の領域にある。
「神にとってと同じようにファウストにとって(Pour lui, comme pour Dieu)」、何一つ死ぬものはない。
全ての時代が同時に存在するのは、「神の同時代性(syncrhonisme divin)」である。
「人間の理性(raison humaine)」には「空虚(le vide)」で「不可解(inexplicable)」としか見えないそうした事態は、別の視点から見れば、「全て(tout)」における存在のあり方に他ならない。
ゲーテは、「無限」あるいは「動き続ける獲物(proie mobile)」を捉えるために「網(filet)」を投げ、「ある型(formule)」を与えようと試みた。
その結果が『ファウスト』であり、とりわけファウストが古代世界に下り、美の典型であるヘレナを中世に甦えらせるエピソードである。
思い出と美
現実の次元から見ると、ファウストが下って行く古代ギリシア世界に姿を現すヘレナや侍女たちは存在の「影(ombres)」にすぎない。
そうした影について、ネルヴァルは次の様に言う。
les ombres […] protégées contre le néant par la puissance du souvenir.
影たちは(中略)、思い出の力によって、虚無から守られている。
ファウストはすでに過去のものとなった古代世界に降り、ヘレナ(の影)を見る。
そのことは、すでにヘレナを知っていたことを前提にしている。彼女を知らなければ、ヘレナを思い描くことはない。
その意味で、「思い出」がヘレナの形象化を可能にするのであり、「思い出」がなければヘレナは虚無の状態にあることになる。
「思い出の力によって虚無から守られる」とは、「思い出」が「創造(Création)」の原理であることを意味している。
そこでネルヴァルは、かつてパリスがヘレナを夫メネラオスから奪ったように、ファウストがヘレナを略奪し地上へと導いたエピソードに触れながら、次のように問いかける。
Est-ce le souvenir qui se refait présent ici ? ou les mêmes faits qui se sont passés se reproduisent-ils une seconde fois dans les mêmes détails ? C’est une de ces hallucinations effrayantes du rêve et même de certains instants de la vie, où il semble qu’on refait une action déjà faite et qu’on redit des paroles déjà dites, prévoyant, à mesure, les choses qui vont se passer.
思い出が今ここで実現しているのだろうか? あるいは、過去に起こったのと同じ出来事が、もう一度、細かい部分まで同じように再生産されるのだろうか。それは、夢や人生のある瞬間の恐ろしい幻覚の一つであり、人はすでに行った行為を再び行い、すでに言ったことを再び言うように思う。これから起こるであろう事象を、進行に応じて、予め予見しながら。
「思い出」は過去にあると考えがちだが、思い出さない限り存在しないことを考えれば、「思い出」は現在の出来事である。
そこでネルヴァルは、古代世界のヘレナのエピソードに関して、「思い出」が今ここで再び現実化しているのか、あるいは過去にすでに起こった出来事が再現されているのかと、自問する。
そして、結局のところ、夢やデジャ・ビュ(déjà vu)の経験と同じように、目の前で起こっていることはすでにどこかで体験したことのようにも思うし、あるいは、そうした出来事がこれから再びいつかどこかで再現することになるだろうと思う。
つまり、全ては同一の空間、同一の時間にあり、永遠のここ、永遠の現在にある。
それこそが「全て(tout)」であり、それが時としてある形を取って姿を現す。
その形を形象化する原理が「思い出」であるとネルヴァルは考える。

「思い出」に関するこうした考えは、ゲーテに由来するのではなく、ネルヴァル自身の感性に由来している。
1832年に発表された詩「ファンテジー(Fantaisie)」の中で、彼は、デジャ・ビュ(déjà vu)体験を詩の原理として歌っていた。
https://bohemegalante.com/2019/07/03/nerval-fantaisie/
美を求める彼の魂は、懐かしいメロディーに誘われて200年前の世界に甦り、古い城の窓辺にたたずむ美しい女性の姿を目にする。
Puis une dame, à sa haute fenêtre,
Blonde aux yeux noirs, en ses habits anciens…
Que, dans une autre existence peut-être,
J’ai déjà vue ! — et dont je me souviens !
次に、高窓のところに、一人の女性が見えてくる。
金髪で、黒い目。古い時代の服を身を身にまとう・・・
たぶん、別の時代に生きていた時、
すでに彼女を見たことがある!ーそして今、思い出す!
ここで目にするのは、すでに見た「デジャ・ビュ(déjà vu)」の女性であり、今まさに彼女を「思い出している(je me souviens)」。
ネルヴァルの「創造(Création)」における「思い出」の機能について、彼の創作活動の初期からすでに明確に表現されていたことが、この詩を通して理解できる。
では、思い出す対象は何か?
「ファンテジー」においても、「ファウスト」においても、それは美の原型、あるいは美そのものである。
Hélène, l’antique beauté, représente un type éternel, toujours admirable et toujours reconnu de tous ; par conséquent, elle peut échapper, par une sorte d’abstraction subite, à la persécution de son époux, qui n’est, lui, qu’une individualité passagère et circonscrite dans un âge borné.
ヘレナは、古代の美そのものであり、常に賞賛され、常に全ての人々から認められる永遠の典型である。従って、彼女は、突然消え去るようにして、夫の迫害から逃れることができる。夫の方は、限定された時代に限定され、時と共に消え去る個人なのだ。

ヘレナという美の典型は永遠であるのに対し、彼女の夫は時間の中に限定された存在。
この対比は、思い出される美が、時間を超え、永遠に属する存在であることを示している。
ネルヴァルは、ヘレナが時間=時代を超える存在であることを、具体的に次の様に示す。
ヘレナの略奪を巡り、トロイア戦争が起こった。その戦争は、トロワの陥落を通して、アッシリア時代から古代ギリシアの時代への移行を象徴している。
ヘレナは、その二つの時代の移行を超えて、存在し続ける。
ファウストはヘレナを奪い、中世に連れてくる。
彼らが最初に暮らすのは「封建時代の城(château féodal)」だが、時が経るに従って「優美な住まい(demeure enchantée)」へと姿を変える。
その変化は、「中世からルネサンス時代への移行(la transition du moyen âge vers la renaissance)」を象徴する。
美は時間を超え、永遠の存在。
その美を「思い出す」ことで、その都度、一つの形の美が形作られる。
ネルヴァルは、『ファウスト』第2部で展開されるヘレナの挿話を翻訳し、深く思いを巡らせた。
その過程で、「思い出」という原理に従って「全て」を形象化し、永遠の美を、その都度、ある一つの形に再現する美学を見出したと考えてもいいだろう。
そして、その美学は、ネルヴァル自身の創作活動の美学となった。
1854年に出版される『火の娘たち(Les Filles du feu)』の序文の中で、彼は次の表現を引用する。
Inventer au fond c’est se ressouvenir […].
発明するとは、結局のところ、思い出すことだ。
繰り返しになるが、「思い出」が美学の原理となるのは、「一」であり「多」である「全て(tout)」が永遠に存在し、その都度一つの形を取り、現実化するからである。
哲学的、宗教的思想
以上のようなネルヴァルの美学を基礎付ける思想は、古代ギリシアから続く哲学思想と関連し、神秘主義的な様相を帯びることもあった。
ネルヴァルは、「魂の不滅(immortalité des âmes)」、つまり「全て(tout)」の永遠性についての思想には、哲学と宗教という二つの側面があることを意識していた。
Le système des monades de Leibnitz se mêle ici aux phénomènes des visions magnétiques de Swedenborg.
ここでは、ライプニッツのモナドの体系とスウェーデンボルグの動物磁気的な幻像の現象が混ざり合っている。
ライプニッツは17世紀から18世紀にかけて活動したドイツの哲学者。
彼は、全ての物質は最も単純で分割できない単位=モナドから構成されるという単子論、「モナドの体系(système des monades)」を主張した。

スウェーデンボルグは、17世紀後半にスウェーデンで生まれた科学者であり神秘主義者。
ネルヴァルは、「メモラビリア(Mémorabilia)」と題された霊的体験の記録集の中で描かれる神秘的な映像にとりわけ興味を引かれた。
それらの映像をここでは「動物磁気的(magnétique)」と形容しているが、要するに、磁石のように目に見えない力の働きによって引き起こされる幻像のことである。
ここでライプニッツとスウェーデンボルグの名前を挙げることで、ネルヴァルは二人の思索に深く入り込むことを目指したのではない。単に、自らの思想が、一面では哲学的であり、もう一面では宗教的であることを暗に示しているにすぎない。
そして、その二つの面は決して相容れないものではなく、むしろ融合していて、分かちがたい。
従って、こう言ってよければ、ネルヴァルの思考は神秘哲学的であると言ってもいいだろう。
その思想は、科学的な思考とは相容れないものと見なされる。
そのために、実証主義的な視点からは、理解不能とされ、多くの場合には否定的なニュアンスを伴って、夢や狂気というレッテルが貼られる。
しかし、ネルヴァルの哲学的・宗教的思想が、古代ギリシアから続く神秘哲学の流れの中にあるとすれば、「全て(tout)」という生命の源流を巡る思索に基づいているものであり、決して理解不可能ではない。
その上で、ネルヴァルは、永遠=魂の不死を象徴するものが「美」(しばしば女性原理であり、ゲーテの言葉では永遠の女性なるもの)であると見なし、自らの美学の原理とした。
1840年の『ファウスト』の翻訳に付けられた「序文(Introduction)」は、ネルヴァルの美学を彼自身が自覚し、明確に表現した最初の著作である。
その後、彼は1841年に狂気の発作に襲われ、精神病院に入院する。
退院後、約1年をかけてエジプト、シリア、トルコ(イスタンブール)に滞在し、彼の思索がたどり着いた哲学的・宗教的な思想を生の形で体験することになる。
1840年の『ファウスト』の「序文」には、ネルヴァル作品を理解し、その魅力を十全に感じ取るための地図が書き込まれている。
その地図を持ってネルヴァルの世界に入っていかないと、迷子になってしまう恐れがある。
「全て(tout)」を巡る思索が、その地図に他ならない。