言葉の誤解や行き違い

母語であれば誰でも読むことができるし、書くことができる。毎日会話をしているし、スマートフォンやパソコンに向かい文字を書いたり、メモを手書きで書くこともある。
読むことも書くことも、ごく当たり前の行為にすぎない。

しかし、自分の伝えたい内容が相手にそのまま理解されない経験は誰にでもあるだろうし、読んだ内容に関して人によって理解が違うという経験もある。
外国語であれば、自分の語学力不足を理由にすることができるが、母語となるとそうも言えない。

自分の言ったこと、書いたことが相手にうまく理解されなかったり、逆に相手の意図が理解できず、誤解することがあるとしたら、どこに問題があるのだろう?

最近の経験から二つほど例を紹介したい。

知り合いの女性がボードレールについて、まったく知らない人に説明したいという相談を受けた。
その際に彼女が考えていたのは、詩句を通して官能性を生み出し、読者をエクスターズ(extase)に導くことがボードレール的美の中心的課題であり、官能性やエクスターズをどのように相手に説明したらいいのか、ということだった。

しかし、日常の会話の中で、官能性とかエクスターズ等という言葉を使ったら、ひどい誤解を招いてしまう。
一つの言葉でも、ボードレールの世界で流通する意味と社会一般で使われる言葉のニュアンスのズレは大きい。
しかも、男性中心の社会では、性的なニュアンスを無意識的に付加されることがよくある。
さらに、ズレを説明しようとしても、多くの場合、相手は自分が当たり前に受け入れている意味やニュアンスを変えようとはしない。
彼女が、ボードレールを説明するために官能やエクスターズなどという言葉を使ったら、相手を大喜びさせるか、顰蹙を買うかのどちらかになってしまうに違いない。

そこで、私自身でも、ボードレールを知らない人にどのように説明できるか考えてみたが、とても難しい課題だった。
このブログですでに書いた解説は、フランス語をある程度マスターし、文学作品をフランス語で読んでみたいという志を持った読者用にという思いで書いてきた。
そのいくつかの項目を、フランス文学の知識を持たない人間の視点で読んでみたところ、正直に言えば、非常に難しく、意味不明。とてもボードレールの紹介にはならない。

この経験から再確認したことは、知識と理解の関係。
発信する側は自分の知識に応じて言葉を紡ぐ。それが理解可能な言葉だと思っているのは、自分が「最初の読者」であり、その読者は自分と同じ知識の持ち主だから。
つまり、書き手である自分と最初の読者である自分は同じ自分。従って、同じ知識を持ち、その知識に基づいて理解が行われる。そこには誤解の余地はない。

このような状態で、私たちはしばしば、読者や聞き手を意識せず、相手の知識のあり方を考えることなく、言葉を発信している。
そのために、知識の違いが大きいと、誤解が生まれる余地が大きくなる。

こうしたことを考えると、言葉の意味は二段階で生成することに気づく。
1)発信者が言葉を組み立てるとき。
2)受信者が意味を読み取るとき。
二人の知識が近ければ意味は発信者の思い通りに伝わる可能性が高いが、知識や経験にズレがあると意味のズレも大きくなる。

次の例は、単語レベルではなく、文化の違いが理解を阻害する例。

レストランで食事をした後、知り合いに送ったメールに、次のように書いた。
「家で食べる方がいい。ぼく食べる人だから。」
知り合いの返事。
「食べる人だったんですか? なるほど、強靭な身体(笑)はそこから出来上がっていたわけですね。(笑)」

私が「家で食べる方がいい」と書いたのは、かつてテレビのCMで、「私(妻)作る人、僕(夫)食べる人」というフレーズがあり、それを前提にしていた。
しかし、知り合いはそのCMを見た世代ではなく、「私作る人、僕食べる人」というフレーズは知らないため、私の言葉をそのまま受け取り、私は食べるのが好きな人間だと理解したらしい。
そのために、私の意図は理解されず、私から見て二人のやり取りはかみあっていないのだが、知り合いはかみあっていないことに気づかなかった。

この場合には、世代の違いによって共通する話題が違い、そのことによって同じ言葉でも違う理解が生じたことになる。
そして、多くの場合、一方にとってはチグハグに感じられる会話でも、他方はそれに気づくことがない。

少し以前に、異文化理解という言葉がしばしば使われたことがあった。
この例は、文化の違いが理解を阻害することの小さな例であり、相手の文化を知ることが相互理解につながることを示している。

実は、「私作る人、僕食べる人」というCM自体が、文化の違いを端的に表すものだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/私作る人、僕食べる人
CMの制作者は家庭内でのほのぼのとした光景として、妻がカレーを準備し、夫は喜んで食べるシーンを制作したのだろう。それは一つの文化のあり方。
ある婦人団体は、女性が料理を作り男性がそれを食べるという役割分担の固定化は廃止すべきものだと考えた。それも一つの文化。
CMの中止は、二つの文化の対立を示している。

「家で食べる方がいい。ぼく食べる人だから。」というどうでもいいメールのやり取りからでさえ、発信者と受信者のベースにする文化の違いにより齟齬が生まれる。
言葉の意味やニュアンスは単に個人によるというだけではなく、文化的な問題でもあるということが、こんな例からもわかってくる。


要するに、言葉の意味をやり取りするベースには知識や文化があり、「発信者と受信者の間で言葉の意味は必ずしも同じではない」というのが原則なのだ。
しかし、私たちは日常生活の中で何気なしに言葉を使い、自分の意志を伝えようとしたり、相手の言葉を理解しているつもりでいる。だから、分かったつもりで誤解や行き違いが起こったりする。
としたら、たまに言葉が通じないと感じるときがあるのは、「発信者と受信者の間で言葉の意味は必ずしも同じではない」という原則を思い出すいい機会かもしれない。