
「花について詩人に伝えること」の第2セクションを構成する九つの4行詩では、前のセクションに続けて、ロマン主義詩人たちの末裔にあたる詩人たちが批判の対象になる。
その中には、高踏派詩人の一人になりたいと望んだ一年前のランボー少年自身も含まれると考えてもいい。
実際、アルシッド・バヴァの詩句には、以前にランボー少年が綴っていた青春の息吹に満ちた若々しい詩句はなく、ほどんど意味不明と言わざるを得ない内容になっている。
そうした詩句の中で、これまでの詩の本質を端的に表す言葉が取り上げられる。
その言葉とは、「写真家(photographe)」。
第2セクションを通して、その意味と意義を解明していきたい。
第2セクションの最初の3つの詩節、つまり詩全体で言えば第7ー9詩節は、12行で一つの文章を形成している。
Quandで始まる2つの詩節は状況補語節であり、主文(la flore de vos forêts et de vos prés est diverse)の前提となる。
II
(7)
O Poètes, quand vous auriez
Les Roses, les Roses soufflées,
Rouges sur tiges de lauriers,
Et de mille octaves enflées !
(8)
Quand Banville en ferait neiger
Sanguinolentes, tournoyantes,
Pochant l’œil fou de l’étranger
Aux lectures mal bienveillantes !
(9)
De vos forêts et de vos prés,
O très paisibles photographes !
La Flore est diverse à peu près
Comme des bouchons de carafes !
II
おお、「詩人たち」よ、君たちが
「バラ」を手に入れるとしたら、空気を吹き込まれた「バラ」、
月桂樹の枝の上で赤く咲き、
千もの8音詩句で膨らんだ「バラ」を!
バンヴィルが、バラを雪のように降らせるとしたら、
血のように赤く、クルクルと回り、
異邦人の狂った目を傷つけるバラを、
悪意を持ちながら読書をしている異邦人の目を!
君たちの森や草原の、
おお、この上なく平和な写真家たちよ!
植物の多様さは、おおよそ、
水差し瓶のコルクくらいのものだ!
バラを歌った最も有名な詩人はロンサール。
1830年世代の詩人たちはロンサールの末裔であり、アルシッド・バヴァが「詩人たちよ(Poètes)」と呼びかけるのは、さらにその末裔と考えてもいい。
彼らはバラの花の伝統を受け継ぎ、8音節の詩句でバラの花を歌う。つまりロンサールの伝統を受け継ぐ存在。
次の詩節では、ロンサールの末裔の中から、とりわけバンヴィルが取り上げられる。
バンヴィルには「雪の交響曲(Symphonie de neige)」という詩があり、次のような詩句がある。
[…] la rose
Fière de son bouton suave, encor tout blanc,
Déjà pâmée, attend que l’Aurore l’arrose
Et que l’enfant au dard la teigne de son sang.
バラは、まだ真っ白で、馥郁とした芽に誇りを持ちながら、
すでに気を失い、待ち望んでいる、曙がふり注ぎ、
矢を持つ子供(キューピット)が血で己を染めるのを。
アルシッド・バヴァは、バラを雪のように降らせ、「異邦人(étranger)」の目を傷つけさせる。
異邦人の目は「狂って」いて、悪意のある読み方をする。
その悪意はロマン主義の伝統に従った詩に対する悪意であり、狂ったというのも、ロマン主義的視点からの見方。
とすれば、「異邦人」とは、それまでの伝統に従わない読者、新しい詩を求める側の人間であり、バヴァ自身でもある。
第9詩節に至り、アルシッド・バヴァは、バンヴィルを含むこれまでの詩人たちを「写真家(photographes)」と呼ぶ。
この言葉は、批判の対象が何かのかを明確に示している。
写真は、現実の対象を映像として「再現」する。
芸術とは、理想化するにせよ、現実に忠実であることを目指すにしろ、モデルとなる対象を「再現」することを原理としてきた。
「再現性」が、19世紀前半までの芸術の根本的な概念だった。
「写真家」という言葉で端的に示しているのは、そうした再現芸術を手がける詩人たち。
伝統的な詩人たちは、森や草原を歌う。
しかし、それらの結果は似たり寄ったりで、大きな違いはない。せいぜい水差しのコルクの違い程度だと、アルシッド・バヴァは嫌みを放つ。
その嫌みは、とりわけバンヴィルを念頭に置いている。
photographes – bouchon de carafesという韻はバンヴィルの詩句の中ですでに使われているものなのだ。
最初に行われたラマルティーヌの詩句のパロディと同じように、ここでもバンヴィルの詩句をパロディにし、ロマン主義以来の詩句の単調さを「水差し瓶のコルク(bouchons de carafes)」並だと攻撃する。
アルシッド・バヴァはこの時、再現性に基づいた芸術観から大きな一歩を踏み出そうとしている。
たとえ、「異邦人」としての扱いを受けようと、彼はたじろぐことなく、感嘆文を多用し、息せき切って攻撃を続ける。
第10ー11詩節では、第1セクションに続いて、再び「いつでも(toujours)」の反復が行われる。
(10)
Toujours les végétaux Français,
Hargneux, phtisiques, ridicules,
Où le ventre des chiens bassets
Navigue en paix, aux crépuscules ;
(11)
Toujours, après d’affreux desseins
De Lotos bleus ou d’Hélianthes,
Estampes roses, sujets saints
Pour de jeunes communiantes !
いつでも、「フランスの」植物は、
喧嘩ごしで、結核にかかり、滑稽。
そこでは、足の短いバセット犬の腹が、
静かに航行している、夕暮れの中を。
いつでも、青い蓮やヒマワリの
酷いデッサンの後には、
バラ色の版画が続く。聖なる主題だ、
聖体拝領をする若い娘たちにとっては!
「フランスの植物(végétaux Français)」とはフランス詩の隠喩であり、アルシッド・バヴァはそれらを2つの方法で批判する。
最初は直接的な言葉—「喧嘩ごし(Hargneux)」「結核(phtisiques)」「滑稽(ridicules)」—で。

次はイメージを描いて。
バセット犬は足が短く、歩くとお腹を地面に擦らせているように見える。その姿を船が航海する様子に見立て、「腹が航海する(le ventre navigue)」とすることで、陳腐なイメージが仕立て上げられる。
しかも、「夕暮れ(crépuscule)」というロマン主義の詩的時刻が付加されることで、滑稽さがさらに際立つことになる。
第11詩節では、3つの花の名前が挙げられる。
「蓮(lotos、lotusと同じ)」「ヒマワリ(Hélianthes)」「バラ(roses)」。
しかし、それらは本物の花ではなく、「デッサン(desseins)」か「版画(gravures)」。つまり、写真と同じように、現実を「再現」したものにすぎない。しかもデッサンは「酷い(affreux)」。

そうしたバラの版画が聖なる主題になるとしたら、カトリックのミサの際に聖体(パンとワイン)を口に入れる聖体拝領の儀式を受ける少女たちにとってだと、アルシッド・バヴァは言う。
要するに、何も知らない状態にあれば、再現したバラ、つまりバラの花を歌い続けるロンサール以来の詩にも精神性を感じるかもしれない。しかし、それは無知ゆえであるという批判なのだ。
この2つの詩節は「いつでも(Toujours)」で始まり、一つの塊であることが示されているが、それだけではなく、詩の冒頭の「いつでも」とも響き合い、ここでの批判がラマルティーヌ以来のロマン主義に対する批判にもなっていることが、暗示されている。
第12−15詩節になると、「アソカの木(Açoka)」のオードを中心に展開する。
ちなみに、「オード(ode)」とは、ソネットと並んで、ロンサールがフランス詩の中に導入した形式で、基本的には歌われることを前提とした抒情詩。
(12)
L’Ode Açoka cadre avec la
Strophe en fenêtre de lorette ;
Et de lourds papillons d’éclat
Fientent sur la Pâquerette.
(13)
Vieilles verdures, vieux galons !
O croquignoles végétales !
Fleurs fantasques des vieux Salons !
− Aux hannetons, pas aux crotales,
(14)
Ces poupards végétaux en pleurs
Que Grandville eût mis aux lisières,
Et qu’allaitèrent de couleurs
De méchants astres à visières !
(15)
Oui, vos bavures de pipeaux
Font de précieuses glucoses !
− Tas d’œufs frits dans de vieux chapeaux,
Lys, Açokas, Lilas et Roses !…
「アソカの木」の「オード」が一緒に枠組みを形作るのは、
売春婦の窓のような詩節。
どっしりとしたキラキラ輝く蝶たちが、
「ヒナギク」の上でクソをする。
古びた緑の木々、古びた飾り紐よ!
おお 植物性のクッキーよ!
古びた「サロン」の風変わりな花々よ!
— コガネ虫のものだ、ガラガラ蛇のものじゃない。
涙にくれる植物の子供たちを、
グランヴィルなら紐で支えたかもしれないが、
絵具の乳を飲ませたのは、
庇を付けた意地悪な星たちだった!
そうだ、君たちの鳥笛のよだれが、
貴重なブドウ糖を作る!
— 古い帽子の中にあるたくさんの目玉焼き、
「百合」、「アソカの木」、「リラ」、そして「バラ」!・・・

「アソカの木(Açoka)」はインドの植物で、釈迦が生まれたところにあった木とされ、日本名では無憂樹(ムユウジュ)と呼ばれる。
従って、フランスの植物ではないが、ロマン派や高踏派の詩人たちがアソカをしばしば取り上げ、詩の中で歌った。
そのことを踏まえ、アルシッド・バヴァは、ここでアソカのオードに言及し、第15詩節の最終行では、その木を百合、リラ、バラとともに列挙する。
オリエンタルの香りを持つ詩も、バヴァの批判から逃れはしない。
そのアソカの木のオードと合致するのは、「売春婦の窓のような詩節(Strophe en fenêtre de lorette)」。
それを解読すれば、売春婦が部屋の窓から通りすがりの男に呼びかける声のようなもの、あるいは、そうした光景をテーマにした詩節だといえるだろう。
異国情緒に溢れているはずのアソカの詩も、売春婦が客引きをする声と大差ないとされる。
次の攻撃は、いかにもアルシッド・バヴァ、つまりランボーらしく、「クソをたれる(fienter)」という穢い言葉が使われる。そのために、「キラキラ輝く蝶(papillons d’éclat)」とか「ヒナギク(Pâquerette)」という美しいイメージが、汚れをを引き立てることになる。
第13詩節の最初の3行は感嘆詞が使われ、勢いよく批判の対象が名指される。
Vieilles verdures, vieux galons, croquignoles végétales, Fleurs fantasques des vieux Salons
そこで共通するのは、[v]の音の子音反復(allitération)で強調される「古い(vieux)」という印象。
そのために、「緑の木々(verdures)」も「植物(végétales)」も古びたものとなる。
それら全ての古びたものは、「コガネ虫(hannetons)」のもの。「ガラガラ蛇(crotales)」のものではない。
この二つの生物の区別に関しては、コガネ虫をフランス、ガラガラ蛇を砂漠のあるアフリカやアラビアを表すと考えてみたい。
すると、古びたもの、つまり古びた印象を与える詩は、フランスのものとなる。
第14詩節で出てくるグランヴィル(1803-1847)は、花と人間の姿を重ね合わせた挿絵を数多く含む『生命を与えられた花(Les Fleurs animées)』のイラストを担当した版画家。
ランボーは、1870年8月25日付けの手紙の中で、こうした絵ほど馬鹿馬鹿しいものはないと、グランヴィルのデッサンを悪く言っていた。




アルシッド・バヴァは、こうした版画をイメージしながら、「植物の子供(poupards végétaux)」を思い描い描いたのだろう。
その子供が「泣いている(en pleurs)」ので、グランヴィルならば、子供服の「紐(lisière)」で支えたかもしれないと想像する。
17−18世紀の子供服には、子供が倒れないように、体に巻き付ける紐が付いているものがあった。この紐はそうした服を頭においている。
次に、複数の星が様々な色彩で子供の植物たちを照らす場面が設定される。
星が植物に「ミルクを与えるallaiter)」としたら、それは光りであり、その光りに当たって植物は様々な色になる。「絵具の乳を飲ませたallaiter de couleurs」とは、そうした意味に違いない。
その母乳の出所となる「星(astres)」は、「庇(visière)」で一部が影になり、「意地悪な(méchants)」もの。
だとすれば、子供たちである植物、つまり子供をテーマにした詩も「取るに足らない(méchant)」ものに違いない。だからこそ、「涙に暮れている(en pleurs)」。
第15詩節の最初で発せされる「そうだ(Oui)」という言葉は、ここまで重ねてきた批判を全て受けとめ、一言でまとめる意識を示している。
ロンサールの末裔、ロマン主義の弟の詩たちの詩は、すべて「鳥笛のよだれ(bavures de pipeaux)」にすぎない。
pipeauは鳥笛と訳したが、鳥を捕まえるためのもち棹、囮(おとり)、罠などと考えることもできる。
bavureは汚れとか滲みという意味が日仏辞典には記されているが、「bave(よだれ)」が語源であり、ランボーの詩の世界では、この単語は大きな意味を持っている。
アルシッド・バヴァのバヴァ(bava)は、baveから派生した動詞「baver(よだれを垂らす)」の単純過去形。
ランボーは、「よだれを垂らした(bava)」を、詩人の名前として採用したのである。
彼にとって詩を作る行為はよだれを垂らすことに等しく、詩とは「よだれ」なのだ。

そのよだれが「ブドウ糖(glucoses)」を作る。
そのブドウ糖に付けられた形容詞「貴重な(précieux)」は皮肉と捉える必要がある。例えば、糖分は虫歯(dent gâtée)を作る元になる可能性があったりする。
そうしたブドウ糖とは、結局のところ、「古い帽子(chapeaux)」の中の「目玉焼き(œufs frits)」と同じであり、これまで散々取り上げられてきた花々—百合、アソカ、リラ、バラ—でもある。
そうしたもの全ては、ロマン主義の時代から続く変わりばえしない詩の隠喩に他ならない。
そして、そうした詩が書かれ続けても、水差し瓶のコルク程度の違いしかない。
その理由は、写真のように、現実を「再現」するという原則を保ち続けているからである。
ここまで第二セクションの詩節をできるかぎり論理的に解読してきたが、ランボーの詩は理解を限定する要素がひどく限られ、解釈の可能性が無限に開かれているために、決定的な解釈は存在しないと言ってもいいだろう。
ただし、一つだけ明確なことがあるとすれば、それは「花について詩人に伝えること」が最も強く批判の対象とするのは「写真家」だということ。
現実を前提にして、そこにあるモデルを様々な様式で再現することが、ロマン主義以降もずっと続いてきた。その再現性を覆してこそ、「新しいもの(nouveau)」「見知らぬもの(inconnu)」に到達することが可能になる。
第3セクションでは、その点をさらに明確にしながら、これまでの詩の批判をバンヴィルめがけて続けていく。