ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 3/5 今はもうユーカリの時代じゃない

Manet, Polichinelle
Théodore de Banville

第3セクションでは、再びテオドール・ド・バンヴィルに対して直接的な呼びかけがあり、彼の芸術がすでに今の芸術ではないと言い放つ。

その際にアルシッド・バヴァが持ち出すのは、バンヴィルを中心とした高踏派詩人たちの詩句の断片とも考えられる。
しかしその一方で、バヴァの詩句は、耳に奇妙に響く音を繋げて遊んでいるだけのようにも聞こえる。

音が意味に先行する詩句。
例えば、Pâtis panique。
子音 [ p ]が反復して弾け、母音[ a ]と[ i ]がそれに続いて繰り返される。
その後で、牧草地が意識され、パニックの意味を考えていくことになる。

             III

(16)
O blanc Chasseur, qui cours sans bas
A travers le Pâtis panique,
Ne peux-tu pas, ne dois-tu pas
Connaître un peu ta botanique ?

(17)
Tu ferais succéder, je crains,
Aux Grillons roux les Cantharides,
L’or des Rios au bleu des Rhins,
Bref, aux Norwèges les Florides :

おお、白い「狩人」よ、裸足で、
パン神の「牧草地」を走る狩人よ、
自分自身の植物学を少しは知ることができないのか?
それを知るべきではないのか?

ぼくが恐れるのは、君が連続させるのではないかということ、
赤茶色の「コオロギ」の後に「カンタリジン虫」を、
リオの金をライン川の青の後に、
簡単に言えば、ノルウェーの後にフロリダを。

バンヴィルは、『綱渡りのオード(Odes funambulesques)』の序文で、風刺詩人としての自らの芸術について、アメリカ・インディアンのナヴァホ族の芸術と比較し、「パリの草原を駆け巡る、燕尾服を着たナヴァホ(Navajos en frac, parcourant la prairie parisienne)」と自称した。
バヴァの「白い狩人」という表現は、この記述を前提にしている。

Pan

その狩人を、アルシッド・バヴァは、「パリの草原(prairie parisienne)」ではなく、「パン神の牧草地(Pâtis panique)」で走らせる。

彼は、まず、音の遊びとして、バンヴィルから、[ p. a, i, n ]の音を引き継ぐ。そのことは、先行する詩人を参照していることを示す明確な印になる。

次に、parisienneをpaniqueに置き換える。
paniqueはパニックの意味だが、語源を辿ると古代ギリシアの神「パン(Pan)」に由来する言葉。
Panは「全て」を意味するが、草を食べさせるという意味の páein からの連想で、山羊の群れや牧童の神、牧羊神でもある。
従って、パン神の牧草地を走るという表現は、白い狩人が古代ギリシアの植物をテーマにした詩を書く詩人であることを意味するとも考えられる。

その上で、その詩人に対して、「お前の植物学(ta botanique)」を少しは知ることはできないのかと問いかけ、知るべきではないのかと非難する。
そうした無知の例となるのが、第17詩節で挙げられる3つの連続。
コオロギとカンタリジン虫、ラインの青とリオの金、ノルウェーとフロリダ。

実際のところ、これらに特別な意味はなく、連続させるのは無知だと言いたいのだろう。
連続するものからは音による言葉遊びが感じられる。
candharides – Floridesの豊かな韻(rime riche)。
L’or と Rios、NorwègesとFloridesにおける[ o ]の反復。
Rios、Rhins、Norwèges、Floridesにおける[ r ]の反復。

植物学に関しての無知をあげつらいながら、アルシッド・バヴァは植物に関する例を挙げるわけでもなく、古代ギリシアに関係する例もない。地名が複数形になっている理由も不明。
彼は、合理的で整合的な思考とは無縁な思考の持ち主なのだ。

(18)
Mais, Cher, l’Art n’est plus, maintenant,
− C’est la vérité, − de permettre
À l’Eucalyptus étonnant
Des constrictors d’un hexamètre ;

(19)
Là … ! Comme si les Acajous
Ne servaient, même en nos Guyanes,
Qu’aux cascades des sapajous,
Au lourd délire des lianes !

しかし、親愛なる人よ、「芸術」は、今日では、もはや、
— それが真実なのだ — 許すことはない、
驚くべき「ユーカリ」が、
12音節詩句のボア蛇となることを。

あそこでは・・・! 「マホガニー」が
役に立ったのは、仏領ギアナにおいてでさえ、
尾巻猿たちが滝のようになって落ちかかるか、
蔦が狂ったように重く巻き付くためだけだったかのようだ。

今日ではすでに通用しない「芸術(Art)」をイメージさせるため、アルシッド・バヴァは2つの巨木を取り上げる。
一本は「ユーカリ(eucalyptus)」、もう一本は「マホガニー(acajou)」。

バヴァは親愛なる詩人に向かい、「今日では、芸術は・・・ではない(l’Art n’est plus, maintenant)」と明確に告げる。
しかも、「それが真実なのだ(c’est la vérité)」と付け加え、彼の考える新しい詩法との違いを強調する。

Constrictor

では、彼が否定する芸術とはどのようなものなのか?
それは、「驚くべきユーカリ(Eucalyptus étonnant)」が「12音節詩句のボア蛇(constrictors d’un hexamètre)」を「許容する(permettre)」芸術。
普通に読んだだけでは、全く意味不明!

sapajou

もちろんバヴァはそのことが分かっている。
だからこそ、「あたかも・・・のよう(Comme si)」という言葉を接ぎ木として、仏領ギアナにある「マボガニー(Acajou)」を使い、別のイメージを付け加える。
その巨木は、「尾巻猿たちが滝のように落ちかかる(cascades des sapajous)」姿とか、「蔦が狂ったように重く巻き付く(lourd délire des lianes)」姿を思い起こさせる、というのである。

マボガニーの比喩も決してわかりやすいわけではないが、次のように理解することができる。
巨大なマホガニーの豊かに茂る葉を見ていると、ある時には猿たちがアクロバットをしているかのように飛び交っているかのように見える。別の時には、蔦が狂ったように無秩序に絡み合っているかのように見えることもある。
つまり、マホガニーの木という現実があり、それを別の姿で表現することが、これまでの芸術だった。別の言葉で言えば、マホガニーが現実であり、それを猿のアクロバットとか蔦の絡み合いとして隠喩的に表現してきた。
その原理の基礎となるのが「再現性」。花が詩の隠喩となるように、猿や蔦をマホガニーの隠喩をする。

そこから、ユーカリの例も理解可能になる。
ユーカリという現実の対象を、12音節詩句を蛇のようにクネクネと連結させた詩によって再現する芸術。
それが詩の原理だった。
しかし、そうした芸術はもう今の時代のものではないと、アルシッド・バヴァは主張する。

第20−22詩節では、第1詩節から繰り広げてきたロマン主義以降の詩に対する批判のまとめを行なわれる。

(20)
− En somme, une Fleur, Romarin
Ou Lys, vive ou morte, vaut-elle
Un excrément d’oiseau marin ?
Vaut-elle un seul pleur de chandelle ?

(21)
− Et j’ai dit ce que je voulais !
Toi, même assis là-bas, dans une
Cabane de bambous, − volets
Clos, tentures de perse brune, −

(22)
Tu torcherais des floraisons
Dignes d’Oises extravagantes !…
− Poète ! ce sont des raisons
Non moins risibles qu’arrogantes !…

— 結局のところ、一本の花、ローズマリーにしろ、
百合にしろ、生きていようと、枯れていようと、
海鳥のクソに値するだろうか?
ロウソクの一滴に値するだろうか?

— ぼくは、言いたいと思ったことを言ってきた!
君がまさに、あそこに座っているとしたら、
竹でできた小屋の中、— 閉ざされた鎧戸、
褐色のペルシャ絨毯—、

君は、花の開花をでっち上げるかもしれない、
並外れて馬鹿げたオワーズ河に相応しい開花を!・・・
— 詩人よ! そんな理屈は
お笑い草なのに劣らないほど尊大だ!・・・

romarin

「ローズマリー(romarin)」であろうと「百合(lys)」であろうとは、詩のテーマが何であろうとも、という意味だと解釈できる。
「生きていようと枯れていようと(vive ou morte)」とは、それが花そのものだとしても、詩として再現されたもの、つまり命のないものだとしても、という意味だろう。

とにかく、再現性に基づいた詩は、現在では、「海鳥のクソ(excrément d’oiseau marin)」あるいは「ロウソクの一滴(un seul pleur de chandelle)」程度の価値しかないのでは? という問いかけが行われる。
もちろん、予想される回答は、Oui。その程度のものだ。

ちなみに、伝統的な詩の中では、クソなどという穢い言葉は決して使われないが、この詩の中ではすでに第12詩節で、「fienter(クソをする)」という動詞が使われていた。
ランボーは乱暴な言葉遣いをする悪ガキなのだ。しかし、そうした言葉が彼の口から勢いよく吐き出されると、たちまち黄金に変わる。
今私たちが読んでいる詩句も、17歳に満たない少年によって書かれたもの。ランボーの天才には驚くしかない。

第22詩節の最初の行に置かれた、「ぼくは言いたいと思ったことを言ってきた(j’ai dit ce que je voulais)」という表現は、ほぼ話が終わり、まとめに入る合図となる。
では、これまでの詩の批判として、どんなまとめをするのか?

第23詩節で、「君はでっち上げるかもしれない(Tu torcherais)」と条件法で書かれているので、条件となる部分は第22詩節の「君(toi)」の状況ということになる。
君の座る場所は、「竹の小屋の中(dans une Cabane de bambous)」。
「鎧戸は閉ざされ(volets clos)」、「ペルシャ絨毯(tentures de perse)」が置かれている。

François Daubigny, Bords de lOise le soir

そこは異国情緒に溢れている。もし詩人が外の自然に目をやるのではなく、小屋の鎧戸を閉め、絨毯を眺めるとしたら、「君の植物学を知ることはできない」。すでに第3セクションの最初でに、アルシッド・バヴァは「白い狩人(blanc Chasseur)」をこのように批判していた。

詩人が小屋の中に閉じこもり、これまで通りの詩を書き続けるのであれば、パリ近郊のオワーズ河(Oise)の風景を描きながら、異国風に「でっちあげ(torcher)」、「馬鹿げた(extravagantes)」ものになるしかない。

そんな創作を続けるのに色々と「理由(raisons)」を挙げたとしても、「お笑い草(risibles)」だし、「尊大(arrogantes)」でもある。
こうした強い言葉で、アルシッド・バヴァは、「詩人(Poète)」と呼びかける相手に対する攻撃を締めくくる。


アルシッド・バヴァが相手に「傲慢(arrogant)」といった言葉を投げるのを目にすると、そのままバヴァに投げ返したくなる。それほど、バヴァは傲慢な調子の詩句を連ね、ロマン主義以降の詩を全て否定してきた。
ここでそうした批判もほぼ終わり、第4セクションからは、新しい詩とはどのようなものか、彼っぽい言葉で説明を重ねていく。