
「ティルソス(聖なる杖 Le Thyrse)」は、1863年12月10日、『国内・国外評論(Revue nationale et étrangère)』に掲載されたシャルル・ボードレールの散文詩。
ピアニスト、作曲家、指揮者であるフランツ・リストに捧げられ、同時に晩年のボードレールの詩学を歌っている。
ワーグナー好きのボードレールにとって、ドイツのワイマールで行われた「タンホイザー」の初演で指揮棒を握ったリストは、敬愛する音楽家だったに違いない。

「ティルソス(聖なる杖)」では、オーケストラを自由自在に操る指揮棒と、ディオニュソス(バッカス)の持つ聖なる杖(ティルソス)とを重ね合わせ、忘我的陶酔(extase)の中で感知する美(Beauté)について、散文のシンフォニーが奏でられる。
Le Thyrse
À Franz Liszt
Qu’est-ce qu’un thyrse ? Selon le sens moral et poétique, c’est un emblème sacerdotal dans la main des prêtres ou des prêtresses célébrant la divinité dont ils sont les interprètes et les serviteurs. Mais physiquement ce n’est qu’un bâton, un pur bâton, perche à houblon, tuteur de vigne, sec, dur et droit. Autour de ce bâton, dans des méandres capricieux, se jouent et folâtrent des tiges et des fleurs, celles-ci sinueuses et fuyardes, celles-là penchées comme des cloches ou des coupes renversées. Et une gloire étonnante jaillit de cette complexité de lignes et de couleurs, tendres ou éclatantes.
聖なる杖
フランス・リストに
聖なる杖とは何か? 精神的かつ詩的な意味では、神を崇める司祭や巫女の聖なるのエンブレム。司祭や巫女は、神の言葉を人間に伝え、神に仕える者たちだ。しかし、物理的な意味では、棒にすぎない。単なる棒であり、蔦のからまる棹、ブドウの後見人、乾き、堅く、真っ直ぐだ。その棒のまわりで気まぐれにクネクネとうごめき、戯れるのは、枝と花。花は曲がりくねり、逃げ去ろうとする。茎は、鐘のように、あるいは倒れた杯のように、傾いている。そして、驚くべき栄光が飛び出してくる、穏やかだたり光り輝いていたりする線と色彩の複雑な組み合わせから。

詩人は、一本の杖を二つの次元で捉える。
一つは物理的な側面。その時には、杖はブドウの蔦のからまる単なる棒にすぎない。
もう一つの次元は、精神的で、詩的。それは神を崇める神聖な次元でもあり、ディオニュソス(バッカス)の持つ聖なる杖(ティルソス)だと見なされる。
こうした見方は、地上(現実)と宇宙(天上)が対応するコレスポンダンス的世界観の表現でもある。
「線と色彩の複雑な組み合わ(complexité de lignes et de couleurs)」とは、絵画のように視覚によって捉えられる世界だが、精神的、詩的な次元で捉えれば、そこは聖なる光りの世界でもある。
Ne dirait-on pas que la ligne courbe et la spirale font leur cour à la ligne droite et dansent autour dans une muette adoration ? Ne dirait-on pas que toutes ces corolles délicates, tous ces calices, explosions de senteurs et de couleurs, exécutent un mystique fandango autour du bâton hiératique ? Et quel est, cependant, le mortel imprudent qui osera décider si les fleurs et les pampres ont été faits pour le bâton, ou si le bâton n’est que le prétexte pour montrer la beauté des pampres et des fleurs ?
曲線と螺旋は直線を誘惑し、その周りで踊り、無言の礼拝をしているのではないだろうか? 全ての繊細な花冠、全ての萼は、香りと色彩の爆発であり、祭司の棒の周りでスペイン舞踏の神秘的な音楽を奏でているのではないだろうか? だが、向こう見ずな人間がいるとしたら、どんな人間なのだろう? 彼は、花とブドウの枝が棒のために作られたのか、あるいは、棒は花とブドウの枝の美しさを際立たせるための口実ではないのか、勇敢にもこれから決めようというのだ。

詩人は、聖なる杖の形態を曲線、螺旋、直線として捉え、色彩と同時に、香りを感じ取る。
視覚に臭覚を付け加え、感覚の世界をより豊かにするのだ。
そうして感知されるコレスポンダンス的世界の中で、キリスト誕生時の礼拝するような「礼拝(adoration)」を感じとったり、「スペイン舞踏(fandango)」の音楽を聴き取ったりする。
そうした中で、一人の男を登場させる。
彼が「向こう見ず(imprudent)」なのは、棒と花とブドウの枝の関係を、合理的に分析しようとするから。
その男は、宗教的な狂乱、音楽会での熱狂を、理性によって分析しようとする。
しかし、聖なる世界に理性で立ち向かうのは、無謀な行為。だからこそ、彼は、向こう見ずなのだ。
Le thyrse est la représentation de votre étonnante dualité, maître puissant et vénéré, cher Bacchant de la Beauté mystérieuse et passionnée. Jamais nymphe exaspérée par l’invincible Bacchus ne secoua son thyrse sur les têtes de ses compagnes affolées avec autant d’énergie et de caprice que vous agitez votre génie sur les cœurs de vos frères. — Le bâton, c’est votre volonté, droite, ferme et inébranlable ; les fleurs, c’est la promenade de votre fantaisie autour de votre volonté ; c’est l’élément féminin exécutant autour du mâle ses prestigieuses pirouettes. Ligne droite et ligne arabesque, intention et expression, roideur de la volonté, sinuosité du verbe, unité du but, variété des moyens, amalgame tout-puissant et indivisible du génie, quel analyste aura le détestable courage de vous diviser et de vous séparer ?
聖なる杖は、あたなの驚くべき二重性の表現だ。力強く、尊敬すべきマエストロ、神秘的で情熱のこもった「美」の親愛なるバッカス信者よ。これまで決して、不敗のバッカスによって絶望させられたニンフが、熱狂した信徒たちの頭上で、力強く気まぐれに聖なる杖を揺り動かしたことはなかった。あなたが友の心の中で、あなたの天才を活動させるほどには。— 棒はあなたの意志。真っ直ぐで、堅く、決して揺れ動かない。花はあなたのファンテジーが意志の周りを回る散策。女性的な要素であり、男性の回りで素晴らしい旋回をする。直線とアラベスクの線、意図と表現、意志の堅さ、動詞の紆余曲折、目的の統一性、方法の多様さ、天才の持つ全能性と不可分性の混合。どんな分析家が嫌悪すべき勇気を持つだろうか、あなたを分割し、バラバラにするような?
ここではっきりと、リストをバッカスの信者と呼び、彼の音楽をディオニュソス教と結び付ける。
もしかすると、ワグナーの「ローエングリン」を指揮するリストの指揮棒を思い描いているのかもしれない。
奏でられる音楽を支配するのは、意志と女性的な優美さ。その両面が棒と花で表象される。
詩人は、彼の言葉を使い、天才の音楽を語ろうとする。直線、アラベスクの線などなど。しかし、そうした分析はほとんど意味をなさないといってもいいだろう。
ただただ音楽に身を任せることが、音楽の美を感知する最上で唯一の方法なのだ。
Cher Liszt, à travers les brumes, par delà les fleuves, par-dessus les villes où les pianos chantent votre gloire, où l’imprimerie traduit votre sagesse, en quelque lieu que vous soyez, dans les splendeurs de la ville éternelle ou dans les brumes des pays rêveurs que console Cambrinus, improvisant des chants de délectation ou d’ineffable douleur, ou confiant au papier vos méditations abstruses, chantre de la Volupté et de l’Angoisse éternelles, philosophe, poète et artiste, je vous salue en l’immortalité !
親愛なるリストよ、靄を横切り、大河の彼方、ピアノがあなたの栄光を歌い、印刷機があなたの叡智を言葉に変換する数々の町を越え、あなたがどんな場所にいようと、永遠の都の栄光の中で、あるいは、カンブリニュスが慰める夢見る国の靄の中で、歓喜や消え去りがたい苦悩の歌を即興で歌い、理解しがたい瞑想を紙に委ねる人、永遠の「官能性」と「苦悩」の歌い手であり、哲学者、詩人、芸術家であるあなた、私はあなたに敬意を表する、不死の中で!
最後に、ボードレールは、リストに直接呼びかける。
その際にも、「霧(brumes)」と「町(villes)」、「喜び(délectation)」と「苦痛(douleur)」、「永遠の都(ville éternelle=ローマ)」と「夢見る国(pays rêveurs)」、「官能性(Volupté)」と「苦悩(Angoisse)」というように、常に二重性に基づき、音楽が聴覚に訴える感覚的なものでありながら、精神性をもたらす芸術であることを思い起こさせる。
ちなみにカンブリニュスはビールの発明者と言われ、夢見る国の靄とは、人間的な酩酊を意味するのだろう。それに対して、永遠の都はローマ。
そしてそれらの二重性が、音楽に身を委ねる者を永遠の美の世界へと導く。
そんな音楽を創造する指揮者、作曲家、ピアニストこそが、ボードレールが「敬意を表する(saluer)」フランツ・リストなのだ。
「聖なる杖」という散文詩は、リストの音楽を分析的に解説しているものではない。
向こう見ずな分析家のように理性で音楽を解釈しようとすれば、音楽がもたらす官能性も忘我的恍惚も消え去ってしまう。
私たち読者も、無理に理解しようとするのではなく、一つ一つの言葉を音符のようにして辿るだけでいい。
ボードレールの狙いは、散文詩の言葉が音楽を奏でることだったはずである。
私たち読者が、詩句の音楽を耳から聞き、楽譜を演奏するように詩句を口に出して言ってみる。そのことで、あたかもリストの音楽によって導かれるような「神秘的で情熱のこもった「美」(la Beauté mystérieuse et passionnée)」の世界に入り込めば、バッカスの聖なる杖に触れる経験をすることになる。
1850年、リストは「ローエングリン」の初演が終わった後、ワグナーに「ローエングリンは最初から最後まで崇高な作品です。私は多くの場面で心の底からの涙を流しました。」と書き送ったという。
「ローエングリン」の序曲を聴き、その上で「聖なる杖」を声に出して読んでみると、ボードレールの生み出した散文詩の美をより深く感知することができるような気がする。
ローエングリン序曲(約10分)
ローエングリン 全曲 (約3時間30分) ダニエル・バレンボイム指揮 ミラノ・スカラ座 2012年。