ランボー 花について詩人に伝えること Arthur Rimbaud Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs 5/5 地獄(鉄)の世紀の詩

第5セクションは第4セクションに続き、新しい詩を推進する言葉がさらに重ねられる。
そうした中で、2つのセクションの違いは時代性の有無にある。

前のセクションでは語られた内容は、非時間的、非空間的で、最後のアフフェニード合金だけがランボーの時代を思わせるものだった。
今度のセクションになると、具体的な固有名詞が出てきたり、現代(=19世紀後半の現代)を思わせる記述が多く使われる。
そして、アルシッド・バヴァは自分たちの現代を、「地獄(鉄)の世紀」と呼ぶ。

           V

(34)
Quelqu’un dira le grand Amour,
Voleur des sombres Indulgences :
Mais ni Renan, ni le chat Murr
N’ont vu les Bleus Thyrses immenses !

誰かが、大きな「愛」と言うだろう、
陰湿な免罪符を奪う者が。
しかし、ルナンも雄猫ムールも、
巨大な「青い錫杖」を見たことがなかった!

ルナンと猫のムールという固有名は、時代的な知識を纏っている。
そこで、どうしても知識を探す必要が出てくる。

エルネスト・ルナン(1823−1892)は、19世紀の歴史家、哲学者、文献学者、言語学者。『イエス伝』ではキリストの生涯を合理的、科学的な観点から論じた。
彼が生まれたのは、ブルターニュ地方のトレギエ(Tréguier)であり、その地名は、詩の最終詩節(第40詩節)に出てくる。

雄猫ムールは、ドイツの作家ホフマンの小説『雄猫ムールの人生観』の主人公。人間の言葉を理解し、博識で、科学に造詣が深く、詩人で哲学的な猫とされる。(皮肉だけれど。)
従って、ルナンもムールも、合理主義的博識を代表しているといえる。

さらに、ムール(Murr)は、この詩節の理解のためにどうしても必要なヒントを隠し持っている。
3行目の語尾にあるMurrは一行目のAmourと韻を踏むはずである。
しかし、Murrは綴り字だけではなく、フランス語の発音としても、amourとは韻を踏まない。
それにもかかわらず、なぜここでMurr – Amourが韻として使われているのか?
その理由は、murrをムールとドイツ語読みにして、アムールと韻を踏ませる例がテオドール・ド・バンヴィルにあるからと考えられる。
その例を踏襲することで、アルシッド・バヴァは、明らかにバンヴィルの詩句を前提にしていることがわかる。
実際、『綱渡りのオード(Odes funambulesques)』に収められた「魔法にかかった町(La Ville enchantée)」の中で、Murrとamourの韻を確認することができる。

La Belle au bois dormant, sur la moire fleurie
De la molle ottomane où rêve le chat Murr,
Parmi l’air rose et bleu des feux de la féerie
S’éveille après cent ans sous un baiser d’amour.

眠れる森の美女は、雄猫ムールが夢見ている、
柔らかな長椅子の、花咲くモアレ織物の上で、
お伽の国の炎に燃える、ピンクとブルーの空気に包まれ、
100年の眠りから目覚める、愛の口づけの下で。

この詩句からは、愛は、眠れる森の美女を100年の眠りから目覚めさせる口づけであることがわかる。
バヴァの詩句の「大きな愛(le grand Amour)」とはこの愛のことであり、「誰か(Quelqu’un)」とは、美女を眠りから覚ます者だと考えることができる。

彼は、罪の償いを軽減する偽善的で「陰湿な(sombres)」システムである「免罪符(Indulgences)」を盗み取る(voleur)。免罪符の代わりに、「大きな愛」をもたらす者となる。

その「誰か」と対比して、ルナンとムールの名前が挙げられ、彼らは「錫杖(Thyrses)」をこれまで見たことがなかったと言われる。

Thyrseはウイキョウの茎に木ヅタ等を付けた杖。
古代ギリシアの宗教では、ディオニュソス(バッカス)とその信者たちが持ち、祭儀の中でその突起に振れることで、狂気にも似た熱狂が生み出された。
また、ボードレールは、そうした神話的なイメージに基づき、フランツ・リストに捧げた散文詩「錫杖(La Thyrse)」の中で、錫杖を指揮棒と重ね合わせ、「神秘的、情熱的な美( Beauté mystérieuse et passionnée)」を創造する源泉とした。

実証的な学問の知識を詰め込んだ合理主義的なルナンやムールたちは、そうした芸術の美に熱狂することができない。彼らは陰湿な免罪符で満足する。そして、大きな愛を知ることはない。

それに対して、大きな愛を語る者は、「青くbleues」、「巨大な(immenses)」錫杖を知っているといえるだろう。
青色は、すでに第4セクションの第30詩節に出てきた「狂った牧草地(prés fous)」で見えていた。
そこでの青は、理性を吹き飛ばしてしまう狂乱の色。
大きな愛は、そうした熱狂を引き起こし、読者をディオニュソス(バッカス)の信者のような状態に引き入れる力を持つ。
それは、眠れる森の美女を100年の眠りから目覚めさせたように、読者を美の世界で目覚めさせる。

第34詩節では、「誰か(quelqu’un)」とルナン、ムールの対比が行われるが、ドイツの哲学者ニーチェ的な用語を使えば、アポロンとディオニュソスの対比と言ってもいい。

次の詩節では、キリスト教の世界に入る。

(35)
Toi, fais jouer dans nos torpeurs,
Par les parfums les hystéries ;
Exalte-nous vers les candeurs
Plus candides que les Maries…

君、活動させてくれ、ぼくたちが麻痺している中で、
香水によって、ヒステリー状態を。
ぼくたちを高揚させてくれ、マリアたちよりも
無邪気な純真さの方に向けて。・・・

「君」とは、バヴァがずっと意見を伝えている詩人を指す。

その詩人に向かい、麻痺状態にいる私たち(私と読者)に、香りによってヒステリーを起こさせてくれ、高揚させてくれと言う。

ここでバヴァは、マリア(Marie)の名前を出しているために、香りは教会の儀式で用いられる振り香炉(encensoir)を思わせる。
「マリアよりも無邪気な純真さ(candeurs plus candides que les Maries)」という表現は、キリスト教の信者が教会のミサの際に入り込む恍惚感よりも激しい恍惚感を求めていることを示している。

また、ここでも、バヴァの頭の中には、ボードレールの「夕べの諧調(Harmonie du soir)」の詩句が浮かんでいたのかもしれない。

花が、消え去っていく、振り香炉のように。

Chaque fleur s’évapore ainsi qu’un encensoir

https://bohemegalante.com/2020/01/08/baudelaire-harmonie-du-soir/

この詩句でも、問題になるのは、読者に働きかけ、高揚させることだ。

(36)
Commerçant ! colon ! médium !
Ta Rime sourdra, rose ou blanche,
Comme un rayon de sodium,
Comme un caoutchouc qui s’épanche !

(37)
De tes noirs Poèmes, − Jongleur !
Blancs, verts, et rouges dioptriques,
Que s’évadent d’étranges fleurs
Et des papillons électriques !

商人よ! 植民者よ! 霊媒よ!
君の韻が湧き上がってくる、バラ色あるいは白い韻が、
ナトリウムの光線のように、
横溢するゴムのように。

君の黒い詩から、— 軽業師よ!
白、緑、赤く屈折する光線から、
脱出するのだ、奇妙な花たちが、
電気蝶たちが!

古代ギリシアの錫杖、キリスト教のマリアから、今度は現代社会へと対象が移行する。
詩人は、商人であり、植民者であり、霊媒師でもある。軽業師でもある。

そして、彼の韻文は、ナトリウムやゴムといった化学物質にたとえられる。
彼の詩は「屈折光線(dioptriques)」という物理学の用語と同格に置かれる。
要するに、現代社会においては、詩も産業製品になる。

その製品は、バラ色、白、黒、緑、赤、黒など、色がついている。
それは、ランボーの詩「母音(Les Voyelles)」の世界。

アルシッド・バヴァは、それらの詩を「奇妙な花(étranges fleurs)」と言うだけではなく、「電気蝶(papillons électriques )」とさえ言う。

ボードレールは、「美とは常に奇妙なもの(Le Beau est toujours bizarre)」であり、「美は常に人を驚かせる(Le Beau est toujours étonnant)」と言い放った。
バヴァは、さらに一歩進め、「電気の(électriques)」という言葉を使う。
19世紀、産業革命はトーマス・エジソンの時代に至り、詩もその時代を反映することになるだろう。「電気蝶(papillons électriques)」のように。

(38)
Voilà ! c’est le Siècle d’enfer !
Et les poteaux télégraphiques
Vont orner, − lyre aux chants de fer,
Tes omoplates magnifiques !

これだ! 地獄の「世紀」だ!
電信柱は、
飾ることになるだろう、— 鉄の歌を奏でる竪琴となり、
君の壮大な肩甲骨を!

アルシッド・バヴァは、アルチュール・ランボーと同じで、一旦話始めると、過激な言葉を続けざまに発する傾向がある。

電気蝶だけではとまらず、今度は、最新の工業製品である「電信柱(poteaux télégraphiques)」を、詩人の「竪琴(lyre)」に見立てる。
それが奏でるのは、「鉄の歌(chants de fer)」。

詩人の肩の上(「肩甲骨(omoplates)」)に載せるのは、優美な竪琴ではなく、鉄の電信柱。

そんな時代は、「地獄の時代(Siècle d’enfer)」だとバヴァは大きな声で宣言する。
ここでも、彼はどこまで真面目かわからない。
「地獄(enfer)」はen fer(鉄の状態)であり、「鉄の歌(chants de fer)」のferとの言葉遊びに過ぎないかもしれない。
また、「鉄の時代(âge de fer)」を連想させることで、黄金、銀、青銅の時代の後に訪れる暗黒の時代を連想させる効果もある。

どこまでが真面目で、どこまでが遊びなのか、バヴァの場合も、その後ろにいるランボーの場合も、よくわからない。
彼らは言葉を遊びながら、言いたいことを言う。
勢いよく、« Voilà ! C’est le Siècle d’enfer ! »と叫ぶ。
読者は、「そうだ、地獄の世紀だ!」という言葉にびっくりし、精神の活動を開始する。

第39−40詩節では、詩を書くときの具体的なアドヴァイスが付け加えられる。
主題だけではなく、執筆のために買うべき本まで指定される。

(39)
Surtout, rime une version
Sur le mal des pommes de terre !
− Et, pour la composition
De Poèmes pleins de mystère

(40)
Qu’on doive lire de Tréguier
À Paramaribo, rachète
Des Tomes de Monsieur Figuier,
− Illustrés ! − chez Monsieur Hachette !

                               Alcide Bava. A. R.
                               14 juillet 1871.

とりわけ、韻を踏み、詩を書くのだ、
ジャガイモの悪について!
— そして、神秘に満ちた
詩を創作するために、

トレギエからパラモリボにいたるまで、
読まれることになる詩のために、買い戻すんだ、
フィギエ氏の「何冊かの本」を、
— イラスト入りのものだ! —アシェット書店で!

アルシッド・バヴァ A. R.
1871年7月14日

詩のテーマは、「ジャガイモの悪(le mal des pommes de terre)」について。
malは悪ではなく、病気と理解してもいい。
悪としたのは、ボードレールの詩集『悪の華(Les Fleurs du mal)』を連想させるため。
Fleursとmalの順番を入れ替え、fleursをpommes de terreに変更するような悪ふざけは、悪ガキの仕業ともいえる。

ジャガイモの悪をテーマにして、神秘に満ちた詩(Poèmes pleins de mystère)を書き、ルナンの生まれ故郷であるトレギエから南アメリカのパラマリボまで至る広い地域で読者を獲得する。
そんな詩を書くために買うべきなのが、アシェット書店から出版されている、ルイ・フィギエ(Louis Figuier, 1819-1894)の挿絵入りの本。
例えば、『植物誌(Histoire des plantes)』(1864)。
フィギエは、それ以外にも、科学的な知識を一般の人々の広める類の概論書を数多く出版している。

こんなアドヴァイスは冗談でしかない。
しかし、固有名詞を列挙することで、具体性が増し、それなりのアドヴァイスのように感じられもする。
ただし、逆接的なアドヴァイス。
「地獄(鉄)の世紀」の詩の中では、トレギエ、パラモリボ、フィギエ、アシェットと言った言葉が、現実の何かを参照している必要はない。
それらは音でできた素材であり、詩はその素材から作られる新しい建物。
その詩が語るのはジャガイモの病気かもしれない。しかし、それに神秘性を感じるかもしれない。世界中で読まれるかもしれない。

「花について詩人に伝えること」の作者は、最後に自分の名前を書き込む。
アルシッド・バヴァ。
そして、その後ろに、Arthur Rimbaudの頭文字、A. R. と付け加える。
日付は1871年7月14日。

7月14日は革命記念日。
アルシッド・バヴァの後ろに潜むA. R.は、様々な花について詩人に伝える日を、「詩的」革命記念日と見なしたのだ。


「花について詩人に伝えること(Ce qu’on dit au poète à propos de fleurs)」の前半で、ロマン主義から続く伝統的な花(詩)は否定され、後半になると、地獄(鉄)の世紀に相応しい花(詩)が称揚された。
新しい時代には、写真のように現実を再現するではなく、花(詩)自体が物としての実在性を持ち、人に働きかけるものであることが必要だと、アルシッド・バヴァは言ったのだった。

バヴァが語り掛ける詩人は、第一義的には手紙の受取人であるバンヴィルであるが、彼は仮想の敵でしかないだろう。
本当にバヴァが花について言う相手は、アルチュール・ランボー自身ではないだろうか。
実際、ランボーは、アルシッド・バヴァのアドヴァイスを受け、新たな詩を生み出していく。
まずは、「母音」や「酔いどれ船」、次には『地獄の季節』等を。