フランス文学の道しるべ 一歩踏み出す前に

Vincent van Gogh, La lectrice de roman

 フランス文学には汲み尽くせない魅力を持った作品が多くあり、人生の友として生涯を通して付き合っていけるし、人生を豊かにしてくれる。

しかし、友として接していくためには、それなりの作法がある。こちらの思いを一方的に押しつけるだけでは相手は逃げていくだろう。
たとえそれが本であろうと、やはり相手を尊重する精神は必要。

そこで、これから少しづつフランス文学の紹介をしていく前に、文学作品を読む前提となることを振り返っておきたい。相手を知ることが、最低限の礼儀だから。


時代精神の反映

文学は、広い意味では、人間の精神や感受性の表現の一つだといえる。
実際、人々の行動や習慣、考え方、感じ方等と関係する。
芸術の分野であれば、建築、彫刻、絵画、演劇、音楽、映画等と連動するし、料理やファッション等も無関係ではない。

生活する中で普段あまり意識しないし、意識しようと思ってもはっきりとは分からないけれど、私たちはある一定の考え方や感じ方の中で生きている。
エピステーメとか知の体系とか呼ばれることもあるが、とにかくみんなに漠然と共有されていて、一人一人の人間は自然にそれに基づいて行動したり、感じたりしている。

Auguste Renoir, Le Couple

ファッションのことを考えてみるとわかりやすいかもしれない。
少し前に流行っていた服が、いつの間にか古くさく感じられ、着れなくなってしまう。自分の感受性がどうのこうのというよりも、モードに流行り廃りがあるからだ。
モードにあえて反発し、少し前の時代の服を選ぶこともできる。
しかし、反モードあるいは脱モードも、モードを意識している点ではモードを追うことと変わりがない。モードに対する意識は共有されている。

ファッションの動きはかなり短期間に変化する。
しかし、ファッションとは違い、例えば絵画での遠近法のように、より深いレベルでの共通項は意識されにくく、大きな幅で変動する。200年とか300年の間変化しないということもある。

ルネサンスの時代に生まれた遠近法的な絵画の技法は今でも通用している。
遠くのものは小さく朧気に見え、近くのものは大きくはっきりと見える。そのように思っているし、絵を描くときにはその法則に従って描く。
1400年代から約600年間に渡り、当たり前だと思い、絶対的な真理だと信じている。

Pablo Picasso, Buste de femme

しかし、19世紀の後半には、遠近法に対する疑いが生まれ、遠近法に反発する画家たちが活動を始めた。
有名なモネの睡蓮の絵には遠近法的な遠近がほとんど感じられない。
ピカソであれば、非現実としか思えない絵を描いた。彼の眼には、彼の描いた世界が見えていたのだろう。

このように考えると、ファッションのように短期間で変化するものも、遠近法のように大きなスパンで変化するものもあることがわかる。

そして、大きなスパンで変化するものに関しては、一人の人間の一生の中では決して変化しないために、目に見えない規範が存在すると気づかずにいる。
遠近法的な世界観の中にいると、遠近法に基づかない世界観がなかなか理解できないし、遠近法とは違う見方をする時代があったと思いつくことすらない。

人々の生活様式は後の時代には消えてしまうことが多く、自分の時代に流通する時代精神が普遍的なものだと思いがちになる。
すると、別の時代に作られた芸術作品が別の時代の精神性を反映していると気づかないまま、自分の時代の精神で解釈し、理解してしまいがちになる。

逆に言えば、過去に作られた作品は、作られた時代の精神性や感受性を反映している。その上で、芸術家の個人的な気質に基づく表現が与えられている。

私たちが芸術作品に接する時には、その作品が基づいている時代精神を意識し、自分の思い込みで解釈しないようにすること。それが、まず第一に、友に接する際の礼儀作法になる。
そして、そうすることが、自分の知らない世界を知ることを可能にし、自分の考え方や感じ方の幅を広げ、豊かにすることにもつながる。

だからこそ、芸術作品に接する時には、時代性を意識しておきたい。

言葉の芸術

文学と他の芸術との違いは何か?

当たり前のことのように思われるが、文学は言語を表現手段とする芸術。つまり、言葉の芸術だ。
絵画、彫刻、建築であれば、視覚に訴えかける。
音楽であれば聴覚。
料理は味覚と視覚と臭覚。
映画は視覚と聴覚、そして言語。
芸術によって、訴えかける五感は違っている。

それに対して、文学は五感に直接訴えかけるものではない。
文字情報は目を通して、音声情報であれば耳を通して脳に達するが、感覚的な刺激だけでは意味をなさない。
文字や音を通して入ってきた刺激を言葉として理解するという、知的な作業が必要になる。

しかも、文学言語は、日常使われる言語と違う性格を持っている。
日常の言語は意味を伝えることが最も重要な役割であり、できる限り意味がわかりやすい表現を使い、一旦意味が伝われば、どのような表現を使ったかは重要でないと考えられる。

Edvard Munch, Despair

それに対して、文学言語は、意味を伝えると同時に、言葉そのものに価値があるような仕掛けが施されている。
そのために、難しくわかりにくいという印象を与える。
最近だと、ぼんやりとして意味不明な言葉だという悪意を込めて、ポエムなどと言うことさえある。

なぜそのような難しさが生まれるかと言えば、その根本には、意味の問題がある。
言葉は表現部分と意味とに分けられる。表現を通して意味が伝わる。そこに難しさがある。

誤解する時のことを考えると、話し手が言いたいと思う意味と、聞き手が理解した意味が違う時があることがわかる。
つまり、誤解は、話し手が持っている内的な辞書と聞き手の内的な辞書が違っていて、一つの表現から二つの意味が導き出される時に起こる。
文学言語の場合には、作者は読者とは違う世界観の持ち主であることが前提なので、二人の内的辞書は違っている。そのために、誤解したり、理解できないことが起こる可能性が出てくる。

母語でも理解が難しいことがあるのだから、外国語では難しさはますます大きい。
しかも、多くの場合、翻訳に頼らざるをえない。

翻訳の問題には、2つの側面がある。
一つは、翻訳者の語学力の問題。
翻訳者だからと言って、全てを正しく理解できるわけではないし、どこかで間違いを犯すのは避けられない。
小林秀雄が、自分のランボー訳について、「水に水素があるように、私の翻訳には誤訳がある。」と言ったことがある。翻訳に間違いはつきもの。
原文を読んでも正しく理解できないことがあるのだから、誤訳の問題はあまり深入りしても仕方がない。

もう一つの問題は、翻訳者の日本語表現の問題。
フランス語の書き言葉は名詞中心で、かなり抽象的な表現が用いられる。
日本語は動詞中心で、具体的な表現が多い。
このギャップをどうするかが、フランス文学の翻訳では大きな問題になる。
フランス語的な抽象的表現をそのまま日本語にすると、とても堅くて、わかりづらくなってしまう。
やわらかな日本語にすると、原文の意味から離れてしまうことになりかねない。
フランス語に忠実で、どこまでわかりやすい日本語にするのか? 
翻訳には難しい問題がつきつけられている。

プルーストの文章は一文一文が長くて、途切れない。それを模して、一文の長い日本語にすると、非常に読みにくいし、時には意味不明になってしまう。そのために、プルーストの文はわかりにくい、難しいと思い込んでしまうことがある。
しかし、フランス語は主語と動詞が最初にあり、文章が長くても構文は明確で、長さと意味の不明さは比例しない。
日本語の文では、動詞は文の最後に置かれ、主語と離れて置かれる。主語がないこともある。そこで、文の長さと分かり難さは比例しやすい。
もし日本語でプルーストを読み、分かり難いと感じるとしたら、それはプルーストではなく、訳者がそうした日本語を選択したということになる。
分かり難いのはプルーストの文ではない。

こうした翻訳の限界を前提にした上で、しかし、フランス文学の作品を読むことに意義はあるし、一生の友となる作品に出会うこともある。
翻訳に間違いがあろうが、翻訳は通訳者の声を通した声のようなものだとしても、原作者の言葉の内容を汲み取ることはできるし、作者の執筆した時代の精神性や感受性を知ることもできる。

Jean Siméon Chardin, L’Enfant au toton

たとえ分かり難い部分や、理解の不十分なところが残るとしても、フランス文学にトライする価値は十分にある。日本人の読者にも大きな果実をもたらしてくれるのは間違いない。

フランス文学の世界に最初に一歩を踏み込む前に、礼儀作法と注意点は頭に入れておきたい。

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