中原中也 六月の雨 歌の生まれる場

中原中也は耳の詩人であり、彼の詩は声に出して読んでみると、歌を歌う時と同じような心地よさがある。
彼は子供の頃、和歌を数多く読み、地元山口県の新聞に投稿などしていた。
詩人になってからも、5音と7音の詩句を使い、日本人の体に染みついている和歌や俳句のリズムを活かし、詩に音楽性を与えていった。

詩句に音楽を。
フランスの詩人ヴェルレーヌが掲げた詩法を、中也は日本の伝統的な歌=和歌の音節数を持つ詩句で実現したといってもいいだろう。

しかし、それだけではなく、中也の詩は、子守歌の歌心と音楽性を取り入れ、赤ん坊を揺するように読者の心を揺すり、ノルタルジーとメランコリーの中にまどろませる。
その具体的な例として、佐々木幹郎は『中原中也』(ちくま学芸文庫)の中で、「六月の雨」と「ねんねんころりよ おころりよ」を取り上げている。

                六月の雨

またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく

たちあらわれて 消えゆけば
うれいに沈み しとしとと
畠の上に 落ちている
はてしもしれず 落ちている

    お太鼓叩(たた)いて 笛吹いて
    あどけない子が 日曜日
    畳の上で 遊びます

    お太鼓叩いて 笛吹いて
    遊んでいれば 雨が降る
    櫺子(れんじ)の外に 雨が降る

最初に、この詩に関する基本的な事項を確認しておこう。

1)「六月の雨」の執筆時期と中也の人生

「六月の雨」は、昭和11(1936)年4月頃に執筆されたと考えられ、『文学界』6月号に発表された。

中也は、昭和8(1933)年12月に遠縁の上野孝子と結婚し、翌昭和9年10月には長男文也(ふみや)が誕生していた。
「六月の雨」執筆時に、文也は1歳半。中也は文也を溺愛していた。

しかし、同じ年の11月、文也の突然の死が中也を襲う。小児結核だった。
文也と入れ替わるように、次男愛雅(よしまさ)が12月に生まれる。しかし、中也の悲歎が和らぐことはなかった。
神経衰弱の症状がひどくなり、昭和12(1907)年1月、家族によって千葉の療養所に入院させられる。
2月には退院でき、孝子とともに鎌倉に住むことになる。しかし、10月に結核性脳膜炎を発症、10月22日に永眠した。享年30歳。

ちなみに、「六月の雨」の書かれた昭和11年には、「羞恥」「曇天」「一つのメルヘン」「ゆきてかえらぬ」「言葉なき歌」「冬の長門峡」等、中也の代表作となる作品が多く発表されていた。

2)菖蒲(しょうぶ)
菖蒲は、5月5日の端午の節句になくてはならない水辺の草で、水中から剣のような緑の葉をのばし邪気を払う植物とされている。
開花時期は5−7月であり、「六月の雨」という題名は現実に即している。

3)面長き女


大正13(1924)年、中也が16歳で、京都の立命館中学に通っている時に知り合い、一緒に暮らし始めた長谷川泰子を指すと言われることが多い。

大正14(1925)年3月、泰子は中也とともに東京で暮らし始めるが、小林秀雄に惹かれ、11月には中也の許を去り、小林と暮らすようになる。

昭和3(1928)年5月、泰子の潔癖症があまりにも酷くなり、耐えられなくなった小林は家を飛び出し、そのまま大阪に向かい、翌年の1月まで東京を離れるという事件が起こる。

一人になった泰子は、松竹キネマ蒲田撮影所に入社し、女優としての活動を始める。その一方で、中也と京都を旅したり、彼の誘いで同人誌に詩を発表したりもする。

昭和6(1931)、居酒屋で知り合った演出家との間にできた子供を産む。中也がその子の名付け親になる。
この時期、中也は多くの恋愛詩を書いており、泰子は中也のミューズとしての役割を果たしたと言われている。

4)櫺子(れんじ)
櫺子とは、細い角材や竹等を一定の間隔で縦や横に並べて作る格子のこと。格子のある窓を指すこともある。

「六月の雨」の執筆時、中也は、妻と子供三人で、市ヶ谷谷町の借家に住んでいた。

私は市ヶ谷台町に親類があったので、二度ばかり谷町の家へ寄ったことがある。東大久保で市電を降り、河田町の方へ四五町行ってから、左に折れ、坂を下ったところでる。附近はたいてい勤人の住宅で、淋しい町であった。
坂の途中の一軒の家の息子が気象マニヤだったらしく、屋根には風見の鶏があり、その日の晴雨を示す旗が翻っていた。中原の「曇天」で「旗は はたはた はためく ばかり、/空の 奥処(おくが)に 舞ひ入る 如く」という句を読み返すごとに、思い出すのはこの旗である。」 (村上護『四谷花園アパート』)

中原一家の住む借家の窓に施された格子。その向こうに見える光景は、淋しい様子をしていたに違いない。
しかも、以前住んでいた四谷のアパートには中也の友人達の出入りも多く、文学サロンのようなものだった。それが、市ヶ谷に引っ越すと、ほとんど孤立した生活になる。雨が降れば、寂しさがますます心に滲みたかもしれない。

そんな時、愛する息子の遊ぶ姿が、中也の心にどれだけの慰めをもたらしてくれたことか、容易に想像することができる。

5)日曜日

中原中也の生涯と詩の言葉と対応させると、詩の前半では長谷川泰子が、後半では息子の文也が歌われていると考えるのが自然であるように思われる。

しかし、そうした読み方をすると、結婚後も中也は妻の孝子をおざなりにして泰子を愛し続け、しかも泰子が消えたり現れたりする雨の空間の横に息子を配置するという、倫理的とはいえない詩を中也は書いたことになる。

その流れに沿えば、恋人と子供を取り上げて抒情的に歌う中也の魂の傷口は閉じていて、「六月の海」は穏やかな詩情を生み出す詩、という解釈さえなされることになる。

詩に倫理観など必要ないと考えれば、そうした解釈でもいいのだろう。しかし、詩句を現実に還元しすぎると、視野の狭い読み方しかできなくなってしまう。

読書人である中也もその点は意識していたはずであり、「日曜日」という曜日の指定がそのことを示している。

東京に住む中原親子は、山口に住む実家からの仕送りに頼って生活していた。
中也に詩人としての稼ぎはほとんどないが、それでも特に仕事をするでもなかった。従って、毎朝、子供と遊ぶ時間はたっぷりあったに違いない。彼が文也と遊ぶのは毎日のことで、日曜日である必要はない。

では、なぜ日曜日なのか?
世間一般の家庭では、父親は勤め人であったり商売をしていて、ゆっくり子供の相手をするのは、日曜日くらいしかなかった。日曜の朝であれば、父親も子供と遊ぶ時間があったはずである。
そこで、「日曜日」と記すことで、子供が遊ぶ情景が、中也個人のものではなく、多くの家庭で見られる通常の光景だと見なされることになる。
つまり、曜日の指定は、個人的な体験から一般的で普遍的な情景へと変換する仕組みなのだ。

中原中也もまた一人の読者であり、文学作品の読み方は心得ていた。
詩人の具体的な経験が語られているような記述でも、普遍的な意味を持ちうるからこそ、文学としての価値を持つ。
作者としての中也も同様の意識を持ち、「日曜日」と指定することで、「六月の雨」が読者にとっても身近な体験である印象を抱かせる仕組みを施したのだといえる。

抒情性と子守歌

詩の抒情性は、心の内面を吐露すると同時に、詩句の音楽性にも由来する。
中也の場合、音楽性は、表現の反復によって生み出される。

菖蒲のいろの みどりいろ
たちあらわれて 消えてゆく / たちあらわれて 消えゆけば
落ちている / 落ちている
お太鼓叩いて 笛吹いて / お太鼓叩いて 笛吹いて
びます / んでいれば
雨が降る / 雨が降る

「六月の雨」のわずか14行の詩句の中で、これだけ多くの反復が行われている。
そのことから、言葉の役割が意味を伝達するだけではなく、音とリズムによって音楽を奏でることにあることが理解できる。

さらに、「しとしと」という擬音語が使われ、音楽性がさらに強められる。

中原中也の詩がしばしば歌だと言われるのは、擬音語と言葉の反復からくる音色およびリズムを巧みに使い、口や耳に心地よい音楽を作り出しているからである。

さらに、佐々木幹郎によれば、中也の歌の心地よさの根本に子守歌的な要素がある。

それを証明するのが、「六月の雨」の「太鼓」と「笛」。それらは誰もが知る子守歌に由来すると佐々木は考える。
実際、「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな」の中で、太鼓と笛が歌われている。

ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよい子だ ねんねしな

ぼうやのお守りは どこへ行った
あの山こえて 里へ行った

里のみやげに 何もろうた
でんでん太鼓に 笙の笛(しょうのふえ)

笙(しょう)とは、雅楽で用いられる竹の笛を指す言葉だが、子供のおもちゃとしては相応しくない。しかも、お土産でもらう笛であり、その点でも雅楽の立派な楽器とは考えられない。

この子守歌が歌う「笙の笛」は、伊勢参りに行った旅人たちが土産物として持ち帰る、シンプルな笛だと考えられている。それであれば、子供のおもちゃとしてよく使われた、でんでん太鼓とも釣り合いが取れる。

中也はこの二つのおもちゃを連想させることで、詩の中に子守歌を取り込んだと佐々木は言う。
「お太鼓叩いて 笛吹いて / 遊んで」いる幼い子供は、「ねんねころりよ おころりよ
ぼうやはよい子だ ねんねしな」と歌われる坊やでもあり、遊びに疲れたら、いつしか眠り込んでしまうだろう。

その坊やをお守りする女性は、「どこへ行った/あの山こえて 里へ行った」と歌われる。
かつて、貧しい家の子供たちは、裕福な商家や農家へ住み込みで奉公へ出され、男の子なら丁稚や小僧として、女の子は子守りや走り使いとして働くことが多くあった。
子守歌のお守りも、そうした少女たちの一人だった。

住み込みで働く奉公人たちは、盆と正月に里に帰ることを許されていた。実家に帰った彼らが奉公先に戻る時になると、里からお土産を持ってくることになる。その中には、子供のためのでんでん太鼓や笛が入っていることもあっただろう。

子守歌を歌いながらお守りをしているのは、実の母親で、「ぼうやのお守りは どこへ行った/あの山こえて 里へ行った。」と歌うとすれば、子守りの娘は、今、実家に戻っている最中かもしれない。
そうだとすれば、お土産の太鼓や笛は、以前の里帰りの後で持ってきたものということになる。
あるいは、今はたまたま実の母親が子供を寝かしつけているだけで、今回の里帰りが終わり、娘が戻ってきた時に持ってきたものかもしれない。
いずれにしろ、里に戻った子守りは消え去るわけではなく、戻ってくることが前提にされていると考えてもおかしくはない。

このように考えると、子守りの娘は、中也の「面長き女」の動きと対応していることになる。その女も、「たちあらわれて/消えてゆく。」 
その動きは決して一回限りのものではなく、再び立ち現れ、消えてゆく。ちょうど、しとしと降る雨ように。

そうした中で、「どこへ行った」という問いかけが示すように、「消えてゆく」方に比重が置かれる。
消えることのもたらす喪失感が、日本的な心に強く訴えかけ、抒情性を生み出すからである。

その物憂げな雰囲気が、「ねんね(ん)」と「ころり」が反復し、ゆったりと揺れるリズムに乗って聞く者を包み込む。
子守歌であれば、心地よい眠りに誘う。
「六月の雨」を声に出して読んでみると、心がしとしととしてくる。

中也の詩句の抒情性が歌によって伝えられるとすると、その歌の根底には子守歌がある。
「サーカス」の空中ブランコが、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と揺れるように、読者の心を揺らし、夢想へと導いていく。

詩の生成する場

「六月の雨」は、2つの四行詩と2つの三行詩からなるソネット形式で構成されている。
最初の8行は戸外の風景、次の6行は室内の情景が描かれ、その二つの空間を格子のついた窓(=櫺子)が隔てている。

またひとしきり 午前の雨が/菖蒲のいろの みどりいろ/眼うるめる 面長き女/たちあらわれて 消えてゆく
たちあらわれて 消えゆけば/うれいに沈み しとしとと/畠の上に 落ちている/はてしもしれず 落ちている

外は雨。雨粒がしとしと、畑の上に降りかかっている。
その光景だけははっきりしているが、それ以外の要素にはよく分からないことが多い。

姿を現し、消えてゆく女性とは、現実の存在なのか、詩人の想いの中の空想の存在なのか?
菖蒲の緑色をしているのは何か? 雨なのか、女性の目を濡らす涙なのか、あるいは畠の緑色なのか?
愁いに沈んでいるのは、女性なのか、詩人なのか、それとも雨を擬人化しているのか?
情景に雨のヴェールがかかっているように、何かはっきりしない。

そうした中で、二つの動きが、愁いに包まれた雰囲気に穏やかな「喪失感」を付け加える。
「たちあらわれて 消えてゆく」
「はてしもしれず 落ちている」

「はてしもしれず」というのは、どこまでも落ちるという意味ではなく、雨が果てしなく続くという意味で、現れては消えると同様に、継続する状況を示すと考えたい。

中也の詩句によって表現される雰囲気は、鴨長明の『方丈記』冒頭と類似性がある。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。(鴨長明『方丈記』)

川の水は流れていき、決して同じ水が留まることはない。その意味では全てが消えていく。
しかし、動きそれ自体は絶えることはなく、永続する。
喪失感はあるが、しかし流れがなくなることはない。物憂いはかなさは、決して絶望につながらない。
むしろ、もののあわれが、美を感じさせる。

「眼うるめる 面長き女」は、物憂い雨の情景を象徴する精のような存在と考えてもいいだろう。
雨が降り続くように、彼女は「たちあらわれて 消えてゆく/たちあらわれて 消えゆけば」というように、出現と消滅を繰り返す。
決して、消え去るだけの存在ではない。
そのことは、言葉の反復がはっきりと示している。

外の景色に対して、家の中では、子供の遊ぶ様子が描かれる。

お太鼓叩いて 笛吹いて/あどけない子が 日曜日/畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて/遊んでいれば 雨が降る/櫺子の外に 雨が降る

幼い子供が日曜日の朝、おもちゃで遊んでいるというだけの情景描写。
しかし、言葉の繋がりによって、雨を降らせているのが誰か、この詩句によって明かされている。

「お太鼓叩いて 笛吹いて/遊んでいれば 雨が降る」
外で雨が降っているために、家の中で遊んでいるのではない。
「遊んでいれば 雨が降る」のだ。
つまり、あどけない子は雨の主だということになる。太鼓と笛の奏でるのは雨乞いの音楽。

雨が絶え間なく降ることは、ここでも言葉の反復によって示される。
「遊びます/遊んでいれば」
「雨が降る/雨が降る」

このように考えた時、音楽を奏でる子供は詩人自身であり、奏でられる音楽は「六月の雨」そのものではないかという想いが湧いてくる。
中原中也という詩人が言葉という楽器を使い、「六月の雨」という楽曲を作り上げる。
読者はその詩を読むことで、曲を演奏する。
すると、もののあわれを感じさせる情景が描き出され、心の中にしとしとと雨が降り始める。
もの悲しく、美しい情景。

ヴェルレーヌを訳した掘口大學なら、こう表現するだろう。

巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?

中也は、「眼うるめる」「うれいに沈み」といった表現で、「わが心にも涙降る」印象を書き記す。
そして、「しとしと」。
擬音語は、外の世界に降る雨を心の中で感じ、その印象を音によって表現する言葉。「しとしと」は、外の世界と心の中の世界を一つにし、私たちを物憂い美の世界へと導き入れる。


中也の詩を読むと、物憂い哀しみを感じながら、しかしその哀しみが美とつながるために、いつまでもいつまでもその雰囲気の中に浸っていたいと感じる。

そこに喪失感はあるのだが、その感情が失われた何かに対する思いをかき立て、懐かしさも同時に生み出す。その時、中也の詩の音楽が、子守歌のように読者を揺すり、まどろませる。
読者は、詩句に揺られ、うっとりとする。
そして、その体験を味わいたくなる度に、中也の様々な詩句を思い浮かべ、ゆっくりと口ずさんでみたりする。

「六月の雨」は、そうした中原中也の詩の生成する現場を明かしている。


中原中也の詩の直後、小林秀雄が短い追悼文を『手帳』という雑誌に掲載した。(昭和12(1937)年10月号)
その中で、「六月の雨」を全文引用しているのだが、その前に以下のような文を書いている。

「中原中也」

 先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面した馬鹿野郎どもからいろいろな事を言われながら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変(注:日支事変)の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、どこかで鼠でも死ぬ様に死んだ。時代病や政治病の患者等が充満しているなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらいの抒情の深さが必要であったか、その見本を一つ掲げておく。