中原中也 時こそ今は・・・ 人生と作品

中原中也は、自分の人生で起こったことを題材として取り上げ、赤裸々に詩の中で語るかのような印象を与える詩人である。

「時こそ今は・・・」の中の「泰子」は長谷川泰子だろうし、「冬の長門峡」は現実の長門峡の情景を前提とし、「帰郷」で歌われる「私の故郷」は山口県の湯沢温泉を指す。
中也の詩は、彼の人生の具体的な出来事を契機として生み出されたと考えていいし、詩の理解にはそれらの出来事の知識が大いに役立つ。

しかし、詩の言葉を全て現実の出来事に関連付け、詩人の人生から作品を解釈するとしたら、詩としての価値を大きく減らすことになってしまう。
たとえ個人的な出来事を歌った詩であっても、それが読者の心を打つためには、普遍性を持つ詩句である必要がある。
こう言ってよければ、詩人の仕事は、何を語るかと同時に、どのような言葉を選択し、それらの言葉をどのように配置し、一つの詩的世界を構築するかにかかっている。
出来上がった作品は、現実から独立し、詩としての価値を持つ。
だからこそ、読者は、中也の詩句を読み、たとえ彼の人生を知らなくても、心を動かされるのだ。

こうした人生と作品の関係について、「時こそ今は・・・」を読みながら、少しだけ考えてみよう。

「時こそ今は・・・」は、昭和5(1930)年4月発行の『白痴群』第6号に掲載された詩で、制作はその年の1月か2月だと推定されている。

時こそ今は……

       時こそ今は花は香炉に打薫じ
               ボードレール

時こそ今は花は香炉に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子、いまこそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじやう)の
空もしづかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

長谷川泰子は、大正13(1924)年、中也が16歳の時に京都で知り合い、同棲を始めた。その後、中也とともに上京し、東京でも彼との暮らしを続けた。

しかし、大正14(1925)年11月、中也の許を去り、彼の親友だった小林秀雄と暮らすようになる。
中也は、泰子の引っ越しの荷物を小林の家まで運び、そのまま上がり込んで酒を飲んだ話はよく知られている。

昭和3(1928)年3月、泰子の潔癖症が酷くなり、絶えられなくなった小林は家を飛び出して、そのまま関西に向かい、約一年間を関西で過ごした。

一人になった泰子は、中也に色々と世話になりながら、しかし小林を愛し続ける。回想録の中で、その気持ちを率直に述べている。(長谷川泰子口述、村上護編『ゆきてかえりぬ』)

できることなら小林との間をもとにもどしたいと望んでおりましたので、手紙を書いたこともありました。するとその返事に、中原がまだ君を思っているから、もとのような生活にはもどれない、とありました。それでもあきらめないで、私は手紙を書きました。


小林が「中原がまだ君を思っている」と言うように、中也は泰子への思いを断ち切れず、泰子もはっきりした態度を取らないままの関係が続いた。昭和4(1929)年5月には、泰子は中也と一緒に京都に旅行したりもした。

その頃の様子について、泰子は次のように回想している。

中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。
中原は西荻から東中野へ一番電車でやってきて、二階に間借りしている私を道路からオーイと呼んで、起こすこともありました。私が顔を出すと、夢見が悪かったから気になって来てみたのだが、元気ならいい、などといったこともありました。
そんな中原をうっとうしいと思い、私はピシャリと窓を閉めたこともありました。
だけど、私の態度も中原に対して煮え切らない面があって、喧嘩しながらも決して中原から離れて行こうなどと考えたこともありません。
中原の文学は私の思想の郷里だから、どうしても去りがたい気持がありました。

この思い出からも、泰子が中也に対して煮え切らない態度を取っていたことがよくわかる。

そうした中、中也は、「時こそ今は・・・」を書き、ボードレールの「夕べの諧調(Harmonie du soir)」の詩句が醸し出す、香りに満ちたハーモニーの世界を再現しながら、「いかに泰子、いまこそは」と繰り返し、愛する気持ちを伝えようとした。
「中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。」という二人の状況を知ると、「しづかに一緒に、をりませう」と呼びかける中也の気持ちが痛いほど感じられる。

しかも、中原の詩の中で、「泰子」という名前が直接記されるのはこの「時こそ今は・・・」だけ。
この詩は、まさに、二人の関係が複雑であった時期だからこそ生み出されたものであり、現実の状況に密着しているのだといえる。

ここまで、詩が現実生活を契機として生まれることを見てきたが、しかし、現実の出来事が詩を説明する原理というわけではない。

詩の中の「泰子」は、詩の発生時には長谷川泰子を指していたかもしれない。
しかし、詩の言葉として書き込まれた後では、「時こそ今は・・・」の「泰子」は、愛を投げかけられる女性という意味を持つ普通名詞の働きをする。
中也の「泰子」から、読者一人一人の「泰子」になるといってもいいだろう。

詩の言葉は現実に基づきながらも、現実から自立し、言葉そのものとして存在している。そこで、中也と泰子の関係を知らずに「時こそ今は・・・」を読み、言葉だけから詩を味わうことも可能である。

「時こそ今は 花は香炉に打薫じ/ そこはかとない けはひです」
ボードレールがどのような詩人か知らなくても、この詩句の花の香りがほのかに漂う雰囲気を感じ、詩の世界に入っていくことはできる。

香りに誘われて醸し出されるのは、共感覚によって呼び起こされる世界。

第1連で現れて来るのは、「しほだる花」「水の音」「家路をいそぐ人々」。
しほだる花、つまり萎れた花、そして人々が家路を急ぐ姿は、夕方を思わせる。としたら、水の音は、打ち水の音かもしれない。

第2連では、遠くの空を飛ぶ鳥の姿が見え、「いたいけな情け」が感じられる。
「いたいけな」は普通「子ども」を形容する。いたいけな子どもとは、幼いながらにけなげで可愛らしく、その様子に思わず心を打たれるような、そんな子どもを指す。
とすると、童謡「夕焼け小焼け」を連想させないだろうか。

「夕焼小焼で日が暮れて/山のお寺の鐘がなる/お手々つないで皆かえろ/からすと一緒に帰りましょう」

現代のカラスのイメージと昔のイメージは随分と違っている。昔は、夕暮れ時に山に戻るカラスは、懐かしさのシンボルだった。

第3連になると、「暮るる」という形容詞が使われ、夕方であることが明らかになる。
籬(まがき)、つまり竹や柴などで編んだ垣根にも夕日がかかり、空は群青色に染まっていく。夕べの闇が徐々に深くなる。

第4連では、こうしたイメージを湧き上がらせた源の種明かしがなされる。
「おまへの髪毛(かみげ) なよぶころ」
「泰子」の髪の毛がゆったりと揺れ、髪の香りが辺りに立ち込め、詩人を包み込む。

詩人はそんな雰囲気の中で、ボードレールの官能的な詩「夕べの諧調」を思い浮かべ、再び「花は香炉に打薫じ、」と最初の詩句を反復する。
しかも、最後の句読点は丸ではなく、読点。そのことで、この詩がまだ終わらず、永遠に続いて欲しいと願う気持ちが表現される。

彼が泰子に願うことはただ一つ。
「しづかに一緒に、をりませう。」

何か特別なことをしなくても、特別なことがなくても、愛する人といるだけで幸福を感じる。そんな経験のある人間であれば、誰もが、いつまでもその時間が続いて欲しいと願い、静かに一緒にいることだけを祈る気持ちを理解することができるだろう。

このように読み解いてみると、「時こそ今は・・・」を構成する詩の言葉は、中也と泰子の関係を全く知らなくても理解することができるし、そこで奏でられる夕べの調べに多くの読者が心を打たれるだろう。

その上で、二人の関係を知れば、泰子の中也に対する振る舞いのせいで、中也は別れることも、恋人となることもできず、不安な気持ちを抱きながら、一時だけでも静かで幸福な時間を過ごしたいと希求したのだろうと、推測することができる。

「そこはかとない」幸福感は、髪の香りのようにはかなく、夜になれば消え去ってしまうかもしれない。
しかし、はかない香りに包まれる時間を失うのではないかという恐れがあるからこそ、それだけ、静かに一緒にいられるだけで感じる幸福感は大きくなる。

そのように考えると、詩の契機となった中也の実生活を知る方が、詩をより理解し、より豊かに味わうことができるようになる。

詩人の実生活と作品の関係について、加藤周一は以下のように述べている。(加藤周一編・解説『中原中也 近代の詩人十』潮出版)

 詩は詩人の生活を反映していて、中原の場合には殊にそうだったということができる。なぜそのときにその詩が書かれたかは、生活の具体的な事実、長谷川泰子への愛情と別離(中略)を前提としなければ、説明できないだろう。しかしいかに詩が書かれたかということは、生活上の事実から説明されるわけではない。たとえ詩のなかの「泰子」が誰であるかを知らなくでも、読者は「時こそ今は・・・」に感動する。なぜなら、読者は読者自身の「泰子」をそこに感じるからだ。(中略)
 同じことを詩人の側からいえば、中原は彼の泰子(中略)を詠って、全ての読者の泰子(中略)を表現したのである。長谷川泰子は、中原中也のジャンヌ・デュヴァル(Jeanne Duval)である。「時こそ今は・・・」の泰子は、「旅への誘い」の« mon enfant, ma sœur »である。詩人は具体的な経験の特殊性を普遍性へ向かって超える。表現の結果は言葉の秩序であり、言葉の秩序は、それが成立したときに詩人を離れる、—— もう少し詳しくいえば、詩人のあらゆる条件の特殊性を離れるだろう。作者に属していた作品は、社会と歴史に属するようになる。

ジャンヌ・デュヴァルはボードレールの恋人だった女性の一人。« mon enfant, ma sœur »は、「我が子、我が妹」という意味で、恋人への呼びかけとして使われた。

加藤周一は、中原中也を、醒めた知性と鋭敏な感性が結合した詩人と見なし、日本語による表現の魅力を多く学んだと述べている。

その加藤が論理的に説明する中也の人生と作品の関係は、中也の詩だけではなく、あらゆる文学作品を読者が解読するための、基本的な姿勢を教えてくれる。