中原中也 朝の歌 吉田秀和の思い出の中の「歌う中也」 

中原中也の詩が音楽性に富んでいることは、彼の詩句を声に出してみればすぐに感じる。
では、彼はどんな音楽に親しんでいたのだろうか?

そんな問いに応えてくれるのが、日本を代表する音楽評論家、吉田秀和(1913-2012)が中也の思い出を語った文章だ。彼の思い出によると、中也は、自作の詩、フランスの詩、そして和歌も、声に出して歌っていた。

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊(つちくれ)になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。(中原中也「都会の夏の夜」)

吉田の思い出を辿りながら、中也がどんな風にラアラア歌っていたのか、少しだけのぞいてみよう。

吉田秀和は、成城の学校(旧制)に通っていた昭和4(1929)年頃、中原中也からフランス語を教わったことがある。吉田17歳、中也22歳。

その勉強法は、昔なら当たり前からもしれないけれど、今では無茶だとしか思えない。
暁星中学のリーダーを一通りやってしまうと、いきなりボードレールの『悪の華』を読み始める。
夏休み中、吉田が北海道に戻っている時に中也からハガキが来て、「ボードレールは暑苦しくってしかたがない。9月からはパスカルにする。」と知らせてきたという。
(ただし、夏休み後、フランス語のレッスンはもう終わりになったと吉田は書いている。)

吉田秀和が中也の詩の中に「無限」を感じ、「万有との一体に帰」し、「宇宙との交感」に達しようとする望みを読み取るとしたら、ボードレールの詩的世界に響く「コレスポンダンス」のハーモニーを聞き取ったからかもしれない。
https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/

ボードレールに代表される19世紀フランスの(一般的には象徴派と呼ばれる)詩では、音楽性がことのほか重視された。
ヴェルレーヌは「何よりも先に、音楽を。」と『詩法』の冒頭で宣言し、マラルメも「詩人は音楽から富を取り戻さなければならない。」と主張した。

中原中也は子どもの頃には短歌に親しみ、やまと歌の音楽性を体に染み込ませていた。その後、フランス詩だけではなく、西洋音楽との出会いを通して、和と洋の音楽を彼の身体の中で融合していった。彼の詩の音楽性は、そうした作用の一つの表現だといえるだろう。

吉田秀和は中原が自作の詩「朝の歌」を歌う姿を思い出している。

ちなみに、「朝の歌」は、中也が最初に満足した詩。彼自身、後にこう振り返っている。

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガッカリす。

まず、実際に「朝の歌」を読んでみよう。

天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂の香(か)に 朝は悩まし
  うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

ひろごりて たいらかの空、
  土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

大正14(1925)年、長谷川泰子とともに京都から東京に出てきた中也。彼は、小林秀雄と知り合ったりしながら、詩で身を立てていこうと決心する。
しかし、泰子は中也の許を去り、小林と暮らし始める。中也は「悔しい男」となる。
詩人としての中也にできることは、安アパートで一人暮らしながら、宮沢賢治の『春と修羅』等を愛読し、詩を書き続けることだった。

そんな状況の中、「朝の歌」が出来あがる。
アパートの雨戸の隙間から、一筋の光が入ってくる。もう日は高く、外では楽隊の音楽が聞こえ、空ははなだ色、つまり薄青色。
薄暗い部屋の中の彼は、まだ目覚めたばかり。思い通りにいかない生活に、心はなんとはなしに倦んでいる。故郷の山や森を見ながら抱いた夢も、いつしか消えつつある。
しかし、故郷の美しい自然、そこで見た夢、そして、今の物憂い喪失感が、4/4/3/3行というソネット形式の詩の中で、美しい音楽に乗せて歌われる。
「朝の歌」にてほぼ方針立つ。中也にとって、それは詩人としてやっていけると確信させてくれる詩となった。

昭和3(1928)年になると、諸井三郎が曲を付け、雑誌「スルヤ」に発表される。

中原中也も、諸井のつけた曲で「朝の歌」を歌ったのだろうか。吉田秀和の思い出によれば、どうもそうらしい。

「朝の歌」は、(中略)、私が最も早く知り、今でも最も好きな彼の詩のひとつであるが、この詩は諸井三郎が作曲している。
私はよく彼の所に泊り、また彼につれてゆかれた人の所に泊り、また彼も何度か私の宿に泊ったものだが(中略)、そんなおりに私は、何度か、彼のこの歌を歌うのをきいた。

天井に 朱きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
  手にてなす なにごともなし。

ひろごりて たいらかの空、
  土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

 私は、いつか文字通り、雨戸の隙を洩れて入ってくる陽の光が天井にうつる影をみながら、彼の声をきいていたこともある。中原はだみ声だけれど、耳がよくて、拍子はずれではなかったし、ニオクターヴ声が出るといって自慢していた。

この記述を見ると、吉田は、中也のアパートで、実際に雨戸の隙間から入ってくる光を見ながら、中也が歌うのを聞いたようだ。
中也の声はだみ声だけれど、2オクターブも出るらしい。
現在のようにスマートフォンがあれば、中也の声が聞けたはず。しかし、吉田の言葉から、自分の中で中也の声を再現してもるのも楽しい。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
  諫めする なにものもなし。

樹脂の香に 朝は悩まし
  うしないし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな

 天井にゆれている光をみながら彼の歌をきいていると、私には、小鳥と空、森の香りと走ってゆく風が、自分の心中にも、ひとつにとけあってゆくのを感じた。そうして、この倦んじた心、手にてなす何ごとも知らない心。私は、そこに、泰西象徴派の詩人のスプリーンより、中原自身の倫理の掟をみるのだった。動いてはいけない。あせってはいけない。

フランス象徴派のスプリーン(Spleen)という言葉は、『パリの憂鬱(スプリーン)』の詩人ボードレールを思わせる。吉田秀和が中也からフランス語を教えてもらったときの教材となった詩人。
当時の日本の文学界において、大きく深い影響を与えたのが、そのボードレールだった。

しかし、吉田は、「倦んじてし 人のこころ」という詩句から感じられる憂鬱以上に、中原の倫理の掟を見るという。その掟とは、「動いてはいけない。あせってはいけない。」
あるいは、「決して急いではならない/此処で十分に待つていなければならない。」(中原中也「言葉なき歌」)

そう言いながらも、吉田は、ボードレールの「夕べの諧調(ハーモニー)」の音楽性を強く反映した中也の詩「時こそ今は・・・」の詩句を引用する。
https://bohemegalante.com/2021/03/31/nakahara-chuya-voici-venir-les-temps-vie-oeuvre/

いかに泰子、いまこそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじやう)の
空もしづかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

 歌といえば、中原は、よくヴェルレーヌやランボーの詩をふしをつけて朗読してくれたし、そのほかにもバッハのあのすばらしいハ短調の「パッサカリア」が大好きで、よくあのバス主題を歌っていた。

宮沢賢治はクラシック音楽の大の愛好者で、「セロ弾きのゴーシュ」には「トロメライ ロマチックシューマン作曲」をリクエストする猫も出てくる。

中也はバッハの「パッサカリア」のテーマを歌い、その調子でヴェルレーヌやランボーの詩をラアラア歌っていたのかもしれない。

その上、和歌さえ同じ調子で朗唱したらしい。

その中で、彼が私に最も好んできかせてくれたのは、あの百人一首の中にある、

   ひさかたの ひかりのどけき はるのひに
      しづこころなく はなのちるらん

の一首だった。これを中原は、チャイコフスキーのピアノ組曲「四季」の中の六月にあたる「舟歌」にあわせて歌うのだった。楽譜でお目にかけられず残念だが、彼は、枕詞の『ひさかたの』は、レチタティーでやって『光のどけき春の日に』から歌にするのだったが、そこはまた、あのト短調旋律に申し分なくぴったりあうのだった。

中也は、紀友則のやまと心を伝える伝統的な日本の歌を、西洋音楽の曲に乗せて歌っていた。

少年時代に得意とした短歌の歌心と、フランス象徴派の詩やクラシック音楽の音楽性が、違和感なく融合し、ハーモニーを奏でたのだろう。

中也が空を「はなだ色」と言う時、古い日本の伝統を明確に意識し、意図的に「縹(はなだ)色」を使ったに違いない。
「縹色」とは、古くから藍染めの色名として使われ、藍色よりも薄く、浅葱色よりも濃い色のこと。『日本書紀』にはすでに『深縹こきはなだ』、『浅縹あさはなだ』の名が見られる。

チャイコフスキーの「四季」では、12ヶ月が音楽で描き出されるが、6月は「舟歌(バルカロール)」。
ヴェニスのゴンドラ乗りの歌に由来し、体と心を揺らす様子は、揺り籠を揺らしながら歌われる子守歌にもつながる。

こんな風に考えると、中也の詩の根底を流れる「子守歌」は、和歌と西洋音楽の混ざり合う所から来たのかもしれない。
だからこそ、彼の詩句が、私たち読者の心を、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(中原中也「サーカス」)と揺らし、何とも言えない夢見心地にしてくれるのだ。

吉田秀和は、中也の歌を何度も聞いたことがある。だからこそ、こんな風に言うことができる。

私は、彼にかつて何をせがんだこともないつもりだが、できるなら、彼に、もう一度この歌をうたってもらいたい。

何と運がいいことだろう。


吉田秀和が中原中也について語った映像がある。

中原中也からフランス語の手ほどきを受け、音楽評論家となった吉田秀和。
彼の心の故郷は、CD付きで発売された『永遠の故郷』(全4冊、集英社、 2012年)を通して、私たちにしっかりと伝わってくる。

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