ラ・ファイエット夫人 『クレーブの奥方』 恋愛小説の危険

恋愛を扱った小説を読む時には、とりわけ注意を要することがある。
一般に恋愛は人間にとって普遍的な感情であると思われているので、小説が書かれた時代や国民性を考えることなく、読者自身の持つ恋愛観を投影し、小説を通して自分の恋愛に関する想いを読み取るだけに終わってしまう可能生がある。

マノン・レスコーがファム・ファタル(恋愛によって男性を堕落させる魅力的な女性)であり、ボヴァリー夫人が平凡な結婚生活に退屈し、不倫を繰り返して最後は自殺する女性といった平凡な類型を当てはめる。マノンに翻弄される男の愚かさを語ってみたり、それほど愛されるマノンに憧れたり、平凡な夫であるシャルル・ボヴァリーに退屈して結婚外の恋愛を憧れる女性に共感したり、やっぱり不倫はダメだなどといった感想を抱く。

François Clouet, Elisabeth d’Autriche

ラ・ファイエット夫人(Madame de La Fayette)の『クレーブの奥方(La Princesse de Clèves )』は、しばしばフランスで最初の恋愛心理を分析した近代小説と紹介されることがあり、恋愛感情を繊細に分析した小説といった先入観を持って読まれることが多い。

しかし、恋愛小説をそうした視点を通してだけ読むのであれば、芸能人の恋愛ネタと変わるところがなく、わざわざ古い時代のフランスの小説に手を出す必要もない。

せっかく『クレーブの奥方』を読むのであれば、読者自身の恋愛観を直接投影するのではなく、17世紀後半のフランスで書かれた作品であることから出発した方が、読書の楽しみはより大きなものになる。


『クレーブの奥方』が出版されたのは1678年。ルイ14世の時代。
物語の背景は、それよりも100年以上遡った16世紀半ば。アンリ2世の宮廷が舞台で、王や王妃だけではなく、歴史上の人物たちが数多く登場し、現実の歴史に基づいた話のようでもある。もし恋愛物語を期待して読み始めると、あまりにも固有名詞が多く、すぐに投げ出してしまうことにもなりかねない。

恋愛に関する物語は、主人公のクレーブの奥方を中心に、夫のクレーブ氏とヌムール公とが構成する三角関係を土台にしている。
奥方は夫への忠誠を誓いながら、気持ちは強くヌムール公に惹かれている。
そうした中で、彼女は恋愛感情に抵抗するため、夫にヌムール公への気持ちを告白する。しかも、告白の場面をヌムール公は盗み見し、それを友人に話してしまう。

恋愛における三角関係は現実によくありがちな話だと言えるが、ラ・ファイエット夫人は、登場人物たちの心の動きを細々と書き綴っているように見える。
だからこそ、『クレーブの奥方』は恋愛心理を分析した小説と見なされ、そのように読まれることも多かった。

もし私たちが無意識のうちに、自分たちの恋愛観を小説に投げかけてしまうと、納得のいかないことも出てくる。その最たるものは、妻の気持ちを知った夫が、悲しみのあまり死んでしまうところだろう。
夫に妻が自分の気持ちを告白することは、小説の中でもあり得ないことだと書かれ、17世紀後半の読者にも本当らしさの欠けた行為と見なされることが多かった。
そして、一度本当らしくない、噓っぽいと感じると、物語の成り行きや分析に文句をつけたくなったりもする。
逆に納得がいくと、作者はよく考えているとか、分析が的確だと賞賛することにもなる。
要するに、血液型の説明を見て、当たっているとか当たっていないとか言うのと同じことを、それと気づかずにしていることになる。

しかし、そのような感情投影型の読み方では、『クレーブの奥方』の理解に到達することはできない。
理解のためには、恋愛と結婚についての基本的な図式、17世紀のおける宮廷文化=外見の文化、ジャンセニスム、パッションに関する考察など、いくつかの基本的な事項に関する知識が不可欠である。

恋愛の三角形

現代の言葉で言えば、クレーブの奥方は、精神的な不倫をしていることになる。夫に対する尊敬は保ちながらも、別の男性を愛している。
母親から結婚外への恋愛への誘惑に対する危険と不道徳さを十分に教え込まれていたために、彼女は必死にヌムール公を避けようとし、さらに夫クレーブ公が死んだ後でさえも、愛する男性と結婚することはない。

一見すると、ヌムール公との結婚を拒否することは奥方の美徳と頑なさを表しているかのようだが、実は、宮廷風恋愛と呼ばれる恋愛概念における、結婚と恋愛に関する図式に基づく行動にすぎない。
そのことは、夫の死後、クレーブの奥方とヌムール公が交わす言葉の中にはっきりと現れている。

自分のことを愛している女性と結婚する男は、結婚するとびくびくし、他の男たちを目にすると、彼女が彼らとどんな振る舞いをするのか、おっかなびっくり観察するのです。

男性たちは永遠の誓いにおいて、パッション(激しい恋愛感情)を保つものでしょうか? 私は自分に都合のよい奇跡を期待すべきでしょうか? 私に至福の喜びを与えてくれるこのパッションが、必ず終わりになるのを見ることになるのでしょうか? おそらく夫クレーブ公だけが、この世でただ一人、結婚においても恋愛感情を保ち続けることができる方だったのです。

こうした二人の言葉は、結婚後も恋愛が続くかどうかという意味では、現代でも話題になりそうなことであり、いつの時代に誰もが口にしそうに思えるかもしれない。

しかし、結婚後の恋愛を否定する彼らの考えは、「恋愛の三角関係」に由来する問題であり、12世紀フランスで誕生したと言われる恋愛観に基づいている。

中世の吟遊詩人(トゥルバドゥール)が歌う恋愛あるいは宮廷風恋愛と呼ばれる恋愛においては、結婚と恋愛は相容れないものだった。

その恋愛の構図は次の様なものである。
まず、城主である夫とその妻がいる。その結婚は恋愛によるものではなく、こう言ってよければ家と家の結合であり、子孫を残すためのものだった。
城主には彼に仕える騎士がいる。その騎士が、城主の奥方に愛を捧げる。
騎士は、武力によって城主に仕えるのと同じように、奥方に対して愛の奉仕を捧げる。
それに対して奥方は、接吻あるいは指輪を与えることで、愛に応える。

この構図から明らかなように、恋愛とは結婚の外部で誕生した感情だった。要するに、不倫関係の中で恋愛が始まったといえる。

いくつかの規則も存在した。
(1)結婚外であるために、決して誰かに知られてはいけない。「秘密の厳守」が条件。

(2)基本的に肉体関係はないことが原則。重要なのは感情であり、恋愛は心の問題。プラトニックな関係であることは、この「恋愛が精神的なもの」であることを強調する。

(3)奥方と騎士にとって、夫は障害となる存在。逆に言えば、恋愛の成立および進展にとって「障害」は必要条件。
若い男女の恋愛において障害となるのは、ロミオとジュリエットのような家の反対。あるいは、マノン・レスコーのような娼婦という状況。
障害があることで、恋愛は活性化する。

(4)「嫉妬」は恋愛に必ず付随する感情。
奥方が騎士に与える指輪、騎士が槍試合の折に身につける奥方を示すリボンなどは、愛する者同士だけがお互いを認識する印。
嫉妬は、そうして出来た二人の関係に他者が入り込もうとするときに生まれる。逆に言えば、嫉妬は恋愛感情が存在することの証となる。

恋愛感情が人間にとって自然で普遍的なものだったとしても、フランス文学のテーマとなる恋愛は、このように人工的に作り上げられた感情表現であり、以上の構図や決まり事を前提にしている。
フランス文学における恋愛を理解するためには、「恋愛の三角形」に由来する規則を知ることが不可欠である。

先に引用した奥方とヌムール公の言葉はその証明といえる。
従って、彼らの言葉を読んだ読者が、夫の死後奥方はもう自由なのに、愛する人との結婚を拒否するのは納得がいかないとか、馬鹿げているとかといった感想を抱いたとしても、それは読者自身の考えを押しつけているにすぎないことになる。
宮廷風恋愛を知る人々には、彼らの言葉は当たり前すぎることであり、何の説明もなく納得がいったはずである。

クレーブ公は、結婚後も妻に対して恋愛感情を持ち続けている。そして、作者であるラ・ファイエット夫人も、彼のことをこの世でまれな夫と呼んでいる。

その夫は、妻の愛しているがゆえ、妻の愛する相手が誰なのか知りたがり、不確かな状態に置かれることで嫉妬がつのり、最後は病になって死んでしまう。
その顛末について、あほくさいと感想を抱くことがあるかもしれない。しかし、嫉妬が恋愛の目印だという法則があるということを知っていれば、作者がそれをどのように用いているかを考えることにつながり、作品の理解が深まる方向に進む。

ヌムール公に関しても、夫人の描かれた肖像画をこっそり盗むのは、奥方から愛の奉仕の返礼として送られる指輪の代用だと考えれば、愛する人の気持ちを確認したいという願いの表れと見なすことができる。
騎乗槍試合の時には、夫人にだけわかる配色の服やリボンを身につける。これも宮廷風恋愛で常に見られる行動である。

もっとも重要な点は、二人の恋愛感情が決して人に知られず、秘密が保たれること。それは、宮廷風恋愛の絶対的な条件である。
秘密の暴露は、恋愛の消滅に直結する。

このように見てくると、『クレーブの奥方』が12世紀に南フランスで発明された恋愛の図式に則っていることが明確になる。
その上で、ラ・ファイエット夫人は、その秘密を夫に明かす妻の行為という新たな要素を付け加え、彼女の物語の核とした。

17世紀の読者たちも、作者と同様の知識を持ち、同様の文化的な背景に基づき、作品を読んだはずである。

ただし、宮廷風恋愛と17世紀の恋愛観の間には、本質的な違いがある。
宮廷風恋愛では、下位にいる騎士が上位にいる城主の奥方に愛を捧げるという構図からもわかるように、自分よりも優れた相手に対して愛を捧げることが前提となっていた。愛する対象の選択は理性に基づく判断によって行われたのであり、その相手に相応しい身のこなしを身につけることで、より洗練された人間になることにつながる。

それに対して、17世紀の恋愛はパッションの代表と捉えられる。そして、パッションは理性の対極にあり、理性を混乱させ、人間を破局に導く働きをする。

この違いのために、クレーブの奥方は、宮廷風恋愛の規則に従いながらも、ヌムール公に対する恋愛から逃れようとする。

宮廷における外見の文化

ルイ14世の君臨する時代に生きたラ・ファイエット夫人は、物語の舞台を16世紀半ばのアンリ2世の宮廷に置いた。
アンリ2世の妻はカトリーヌ・ド・メディシス、愛人はディアーヌ・ド・ポワチエ。

1559年6月30日、王の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世という二組の結婚を祝う宴の一環として、馬上槍試合が行われた。その試合に参加したアンリ2世は右目を槍で突かれ、その怪我が原因で命を落とす。

アンリ2世の後を継ぐのはフランソワ2世。その妻はメアリー・スチュアート。彼らはカトリック勢力であるギーズ家に権力を託し、プロテスタントを迫害する方向に向かう。
フランソワ2世は、即位後一年も経たないうち、狩猟の帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、手術をしないままに脳炎のために死んでしまう。そうした中で、カトリックとプロテスタントの争いは続き、宮廷での権力闘争も激しさを増していく。

『クレーブの奥方』の中ではこうした歴史的な背景が具体的に語られるために、何の知識もなく読み始めると、あたかも歴史書を読んでいるかのような印象を受ける。
クレーブ公もヌムール公にもモデルがいて、虚構の人物は主人公であるシャルトル嬢、つまり結婚後にクレーブの奥方になる女性だけではないかとさえ言われている。
それほど、アンリ2世の宮廷を彩る人物たちが登場し、当時の宮廷の様子がリアルに語られる。

では、その宮廷社会とはどのような場所だったのだろうか。

シャルトル嬢(後のクレーブの奥方)の母親が娘に次のように語る場面がある。

「ここでは外見で判断すると、いつでも騙されることになります。見かけは、決してと言っていいほど、真実ではありません。」

外見は人を騙す。これこそが宮廷社会の原則であり、貴族たちは外見を偽り、本心を見せないように努める。そして、相手の外観を通して、真実を読み取ろうとする。

クレーブの奥方は、ヌムール公に対する愛が彼女の振る舞いから明らかになるのを何とか隠し、愛する人にさえ自分の気持ちを悟られまいとする。
ヌムール公の方でも、振る舞いで示すことで、奥方には気持ちを伝えながら、他の人々には彼の内心を悟られないように最大限の努力を払う。

そうした中での微妙な心理についての言及が、後の時代の言葉で言えば、心理分析につながる。

例えば、ヌムール公が奥方の肖像画をこっそりと盗む場面がある。
その行為を目にするのは、奥方一人。他の人々はヌムール公の行為に気づかない。
その後、肖像画がないことに気づいた人々、とりわけ夫クレーブ公はそれを探すが出てこない。
奥方は犯人がヌムール公であることを暴露できない。

肖像画の所有は恋愛感情の証であり、ヌムール公はその行為で内面の感情を明かすことになる。そこで、その行為を目撃した奥方には、ヌムール公の気持ちがわかる。
秘密の共有。それは、ヌムール公にとって、奥方の内心を知る手掛かりとなる。
また、奥方は彼を愛しているために、盗みの犯人を白日の下に晒すことはできない。しかし、暴露しないことは、ヌムール公への愛を本人に伝えることになってしまう。
そこでジレンマに捉えられるが、しかし愛が勝り、何も言わないことを選択する。

このように「外見の文化」の中では、目に見える行為や会話の言葉から、真実を読み取ることが最大の課題となる。

ラ・ファイエット夫人と同じ社交界に属するラ・ロシュフコーの箴言(Maximes)は、外見から真実を読み取る手引きと考えてもいい。

『箴言集』(1664年)の最初に付されているエピグラフには、「私たちの美徳とは、ほとんどの場合、悪徳が偽装されたものである。」とある。

恋愛、社交界での振る舞い、情念(パッション)に関する項目を読んでみよう。

恋愛は、火と同じで、絶えず活動していないと継続できない。希望や恐れがなくなると、生きることを止める。(75)

社交界での地位を確立するには、できること全てをして、地位が確立しているように見せなければならない。(56)

パッションは、しばしば、最も巧みな人間を愚かな人間にし、もっともアホな人間たちを巧みな者にする。(6)

ラ・ファイエット夫人は、16世紀半ばの宮廷という舞台の上に恋愛の三角形を設定し、ラ・ロシュフコーが簡潔な表現で説いていることを、物語として語ったのだと考えることもできる。

彼女は、小説の冒頭に付した「読者へ」という小文の中で、自分の作品を「物語(Histoire)」と呼んでいる。その言葉は、17世紀においては、記憶に留めるのに値する行動や出来事に関する語り物、あるいは特別な出来事の一部始終を語った話を意味する。
ラ・ファイエット夫人の狙いは、フィクションと見なされる小説(roman)を書くことではなく、現実に根ざした物語(nouvelle)という枠組みを作り、宮廷という外見の文化の中で、外見に騙されず、本心を読み取る練習問題を提示したのだともいえる。

ジャンセニスムとパッション

クレーブの奥方は、自分の中の情熱的な恋愛感情を自覚し、それを誰の目にも見せないように努める。精神的な不倫ではあっても、ヌムール公と愛人関係になることはない。

この行動原理は、母親から与えられた教育による。
その原則は、幸せな人生を送るためには結婚の外に発生する恋愛を遠ざけることにかかっている。

母親は病気になり、今にも死のうという時、娘に最後の忠告を与える。

あなたは今、危険な断崖の縁にいるのです。大きな努力、激しい行いをしなければ、自分を引き留めることはできません。夫にどれほどよくしてもらっているか考えなさい。自分自身でどれだけの努力をしているか考えなさい。自分の力で手に入れた今の評判を失うことを考えなさい。その評判を私がどれほど望んできたことか。(中略) 努力し、勇気を持って、宮廷から遠ざかりなさい。(中略) 美徳と義務以外の理由から、あなたが私の望むことをしないといけないとするなら、こんな風に言いましょう。私がこの世を離れようとしている時、私の望む幸福を乱すことがあるとすれば、それは、あなたが他の女性たちと同じように堕落するのを見ることです。でも、もしその不幸があなたに降りかかることになるようなら、私は喜んで死を受け入れ、あなたの不幸を見ないことを望みます。

宮廷の女性たちは結婚の外で恋愛関係を持つ。それは女性にとっては不幸の原因にほかならない。母は娘にその不幸を避けるように忠告する。

なぜ恋愛が不幸を招くかと言えば、発覚すれば不名誉になるから。
では、結婚に至るとどうか? 宮廷風恋愛の構図では、恋愛は結婚の外にしか存在しない。とすれば、結婚後の夫は結婚の外に恋愛を求め、愛人を作ることになる。その結果、妻への恋愛感情は失われる。

こうした構図に反対して、結婚後も恋愛は続くし、一方的に愛が終わるなどと考えるのはおかしい。そんな風に考えるのは自然なことだが、17世紀後半のフランスの物語を理解するためには、一旦自分の考えをカッコにいれる必要がある。
ルイ14世の時代の宮廷の感受性を頭で整理し、まずはその考え方で物語を辿ることが、『クレーブの奥方』を理解する第一歩となる。

クレーブ奥方の行動は全て、心の中の愛を言葉では否定しながらも、思わず現れてしまう身振りや行動、それを他の人の目から隠し、外観を取り繕うところにある。
外見の文化の中で、彼女は必死に人を欺こうとする。

その一方で、夫であるクレーブ公は、彼女からの信頼は得られても、恋愛感情は得られないことに苦しみ、彼女の外見から誰かを愛していることは見抜いている。
そして、嫉妬にかられて、妻に対して、その誰かに対する恋愛感情を認めさせ、告白が得られた後では、妻が愛するのが誰かを知ろうとする。

こうした夫が宮廷風恋愛において例外的な存在であることは、物語の中で何度も言及されている。
実際、結婚後に妻に恋愛感情を抱き続けるとすれば、それは宮廷風恋愛の規則に反した感情であり、例外と言わざるをえない。

彼の恋愛感情の真実さは、妻に他の男への愛を告白させるところまでいく嫉妬によって表現される。
ここでも、嫉妬は恋愛ではないという声が上がりそうだが、宮廷風恋愛の規則では、嫉妬は恋愛の証と見なされる。
従って、彼の行動は、結婚の枠内で妻に恋愛感情を抱き続ける例外的な存在であることを語っているということになる。

クレーブ公の死後、フリーになった夫人は愛するヌムール公の求婚を受け入れることができる立場に立つが、しかし先ほども述べた理由——結婚後は夫からの恋愛は消滅し、夫は結婚の枠組みの外に恋愛を求める——から、結婚を拒否する。
最終的に彼女は修道院に入り、物語は次の一節で終わる。

クレーブの奥方は一年のある時間を修道院で過ごし、それ以外の時は自宅で過ごした。その時でも、ひっそりとした生活で、どんな厳格な修道院でのお勤めよりも神聖なお勤めをして暮らした。彼女の一生は短いものだったが、人には真似のできない美徳の実例をいくつも残したのだった。

ラ・ファイエット夫人の意図では、『クレーブの奥方』は、恋愛というパッションに捉えられながら、パッションに負けなかった例外的な女性の「物語(Histoire)」なのだ。

その意味で、『クレーブの奥方』はラシーヌの『フェードル』とは対極にある。
フェードルは、パッションに捉えられ、義理の息子に愛を告白し、最後は自ら死を選ぶ。

『フェードル』の初演は1677年。『クレーブの奥方』の出版は1678年。
興味深いことに、二人の作家は、ジャンセニスムの影響下にあった。

ジャンセニスムでは、人間の魂の救い=恩寵は、人間の力の及ぶところではなく、神の決定による。その神の決定の理由を人間は知ることができず、神の絶対性を認めるしかない。
そうした中で、人間はどのように生きるのか?

その試金石として、パッションの代表である恋愛が使われる。
非常に単純化して言えば、パッション(passion)は理性(raison)と対極にあり、真実を知るために最も基本的な理性を曇らせる働きを持つ。比喩的に言えば、恋愛は理性を盲目にする。

外見の文化の中で、外見を通して真実を見抜くためには、真実に導く道具である理性を働かせなければならないが、恋愛は理性を狂わせ、真実を見誤らせる。
フェードルは言う。「恋は毒」。

主人公に毒を飲ませ、彼女たちの振る舞いを通して、ラシーヌは、義理の息子を愛するという運命と必至に戦った女性の苦悩を描き、ラ・ファイエット夫人は、内心の恋心と実際の振る舞いの間で葛藤する女性の苦しみを描いた。

フェードルは、恋の炎に身を焦がし、その苦悩の深さが人々の心を打つ。そして、そこに美が生まれる。

クレーブの奥方は、理性の力によってヌムール公に身を委ねることを思いとどまり、美徳の代表として提示される。しかし、それ以上に、彼女の複雑な心の動きが詳細に語られることで、人間心理の微妙な動きを読者に垣間見させてくれる。


恋愛小説を読むとき、私たちは無意識のうちに自分たちの恋愛観を作品に投影してしまいがちになる。言うなれば、作品を通して自分の持つ恋愛観を読み取り、納得がいくいかない、好き嫌いを決めたりする。
そうした読み方をする限り、どの作品を読んでも、最終的には自分を読んでいることになる。

もし『クレーブの奥方』を同じように読んでしまうと、その作品が17世紀の思想や感受性に基づいていることも、その中でラ・ファイエット夫人がどのような工夫をし、何を目指したかも無視してしまうことになる。作品一つ一つの持つ独自性が見えなくなる。

恋愛小説を読む時の危険は大きい。

文学作品にはそれぞれの独自性があり、それが作品最大の魅力なのだから、私たち読者はできるかぎりその独自性に接近できるような読み方をしたい。


ラ・ファイエット夫人『クレーブの奥方』永田千奈訳、光文社古典新訳文庫、2016年。

ラ・ロシュフコー『箴言集』 二宮フサ訳、岩波文庫、1989年。

ラシーヌ『フェードル、アンドロマック』渡辺守章訳、1993年。

ジャンセニスムと17世紀文学について
ポール・ベニシュー『偉大な世紀のモラル―フランス古典主義文学における英雄的世界像とその解体』新倉剛、芳賀健二訳、法政大学出版局、1993年。

17世紀のサロン文化について
川田靖子『十七世紀のフランスのサロン―サロン文化を彩どる七人の女主人公たち』大修館書店、1990年。

16世紀フランスの歴史について
佐藤賢一『ヴァロワ朝 —— フランス王朝史 2』講談社現代新書、2014年。

トルバドゥールの恋愛抒情詩、宮廷風恋愛について
水野尚『恋愛の誕生 12世紀文学散歩』京都大学学術出版会、2006年。

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