ヴォルテール 『哲学書簡』 啓蒙主義の出発点  

18世紀を代表する文学者、哲学者といえば、ヴォルテールの名前が最初に挙げられる。
1694年に生まれ、1778年に83歳で亡くなるまで、波瀾万丈の人生を送りながら、演劇、詩、小説、哲学、歴史書、政治的啓発文書、日記等、様々な分野の著作を手がけた。

ヴォルテールの思想を一言で言えば、理性による現実の検証によって真理を知ろうとする姿勢。
現実主義者であり、人間の幸福は、五感を使い、現実に生きる中で得られるものと考える。宗教的な制度が課す束縛を嫌い、自由を第一に考える。
ヴォルテール自身が言ったのではないが、彼の言葉として流通している、「私はあなたの言うことに同意しない。しかし、あなたがそのように発言する権利は死んでも守るつもりだ。」という言葉は、彼の姿勢を象徴している。

簡単に彼がどんな人生を送ったのか、振り返っておこう。

ヴォルテールの本名は、フランソワ=マリー・アルエ。1694年にパリの裕福なブルジョワの家に生まれ、1704年から11年まで、イエズス会の運営する学校に通った。そこで詩作に目覚め、賞を獲得したりする。

1711年からは、父親の命令で法律を学ぶが、その傍ら、自由思想家や懐疑主義者たちと交わるようになる。
1713年、駐オランダ大使の秘書としてオランダに赴くが、恋愛事件を起こして、フランスに戻される。

1715年、ルイ14世の死後、摂政時代になると、反政府的なグループに所属し、摂政を批判する詩を書き、フランス中央部の町チュールに追放されたりもする。
しかし、その後も政府を痛烈に中傷する詩を書き、1715年5月、23歳のアルエは、バスティーユ監獄に投獄、11ヶ月を過ごすことになる。

監獄を出ると、当時最も重要とされた文学ジャンルである悲劇と叙事詩に時間を費やすようになり、ヴォルテールという筆名を使い始める。
1718年、最初の悲劇作品『オイデプス』を発表。大成功を得て、社交界でも人脈を広げる。
1723年には、アンリ4世を主人公にした長大な叙事詩が大成功を収め、フランスのヴェルギリウスとあだ名されるようになる。

1726年、有力な貴族から侮辱的な扱いを受け、その復讐をしようと企てるが、それが徒となり、バスティーユ監獄に投獄されてしまう。
そこから解放される条件は、国外追放。32歳のヴォルテールは、イギリスに向かう。
彼にとって当時のイギリスは自由の国であり、精神の自由が認められる地だった。数多くの文学者、哲学者、自然科学の学者たちと出会うが、最も大きいのはニュートンを知ったことだった。

1728年秋にフランスに帰国。その後は、盛んに経済活動を行うかたわら著述も続け、1732年に悲劇『ザイール』を発表。
1734年、イギリスで得た知見を元にした『哲学書簡』を出版する。イギリスの自由と寛容の精神を称揚した書簡集は、政治と宗教に対する攻撃であると認定され、焚書の判断が下される。ヴォルテールはパリに留まることができず、前年に知り合ったシャトレ夫人とともに、ロレーヌ地方のシレーで暮らし始める。
そこでは、数学や物理学に長けた夫人に導かれるようにして科学の勉強に取り組み、『ニュートン哲学要綱』を著したりする。
1736年にはプロイセンの王太子フリードリヒとの文通が始まる。
1745年にフランス国王の史料編纂官に任命され、翌年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出されるなど、活躍の場を広げる

1749年、シャトレ夫人が亡くなり、ヴォルテールは再びパリに暮らし始める。
1750年、フリードリヒ大王に招かれ、プロイセンを訪問。彼の侍従となるが、様々な衝突を繰り返し、1753年フランスに帰国。しかし、ルイ15世によってパリに戻ることが禁止され、結局1854年末にスイスのジュネーブで暮らし始める。

ジュネーブでは活発な著作活動を再開し、『百科全書』の項目を執筆したり、1859年には寓話的哲学小説『カンディード』を出版する。
しかし、時間が経つにつれてカルヴァン派が市政を統治するジュネーブ市との関係が悪化。フランスにも戻ることができないため、1760年、スイスの国境に近いフランスの街フェルネーに居を定める。

フェルネー時代のヴォルテールは、無実でありながら死刑に処せられたジャン・カラスの冤罪を晴らすための活動を行う等、政治的な発言を数多く行い、『寛容論』や『哲学辞典』を書き上げる。

1778年、最後の悲劇となる『イレーヌ』がコメディー・フランセーズで上演されるのに合わせて、パリに28年ぶりに帰還する。劇が終わり、劇場を出ると、市民たちから大歓迎を受ける。
しかし、その後、病が進行し、苦痛が続く。そうした中、3月末に次のような言葉を書き残している。
「私は死んでいきます。神を愛し、友人を愛し、敵を憎むことなく。しかし、迷信を嫌悪して。」
同年5月30日、ヴォルテールは、大変な苦痛の中で死を迎えた。

啓蒙主義を代表する哲学者、思想家、作家といわれるヴォルテールの著作は膨大であり、彼の思想の全体像を掴むことは難しい。
現代でも興味深く読めるのは哲学小説といわれる『カンディッド』だろうが、一読してヴォルテールの思考を理解するのはそれほど容易ではない。
そこでまず最初に、1726年5月から1728年11月まで過ごしたイギリス時代に得た知見を元にして執筆した『哲学書簡』に目を通しておこう。

『哲学書簡』  ー イギリスの経験から学ぶ

題名に哲学とあるが、最初はイギリスの政治、宗教、思想とフランスのそれを対比し、異国からの光を当てることで自国の制度を検討し直すことが、ヴォルテールの意図だった。
その意味では、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(1821)と類似した試みだということもできる。面白いことに、モンテスキューも1729年から31年の間ロンドンに滞在している。

イギリスでは1688年に「名誉革命」が起こり、議会が国王ジェームズ2世を追放し、オランダからウィレムとメアリを迎え、議会政治と国教会制度を柱とする立憲君主政治が確立した。その議会は、寛容法を制定し、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認め、宗教対立を終わらせた。

そのようなイギリスは、絶対王政が続くフランスから見ると「自由の国」であり、ヴォルテールにとっては「理性の島」とも見えた。
従って、彼の意図は、『イギリス書簡』あるいは『イギリス人の手紙』という題名が相応しいものだっただろう。

ちなみに、これらの書簡は最初英語で書かれ、次にフランス語に書き直された。

『哲学書簡』は25通の手紙から構成されている。

書簡 1 – 7 :宗教問題。クエーカー教徒との対話を通して、制度化された宗教の問題点を指摘する。その一方で、ヴォルテールは決して無神論者ではなく、人間が自然に感じる宗教感情を持っていることが示される。

書簡 8 – 10 :政治、経済の問題。議会制度に基づく立憲君主制を理想とする。通商政策においても、それが単に経済的な発展や進歩につながるだけではなく、自由を保障するものと見なす。

書簡 11 – 17:哲学や物理学に関する知見。ベーコン、ヒューム、とりわけニュートンの紹介と賞賛、デカルトに対する批判などが述べられる。

書簡 18 – 24 :イギリス文学、とりわけシェークスピアの紹介。さらに文学者に対するイギリスとフランスの扱いの違いを強調し、フランスの扱いの酷さを告発。(『カンディッド』第22章につながる。)

書簡 25:パスカルの『パンセ』に対する反論。ヴォルテールのパスカル批判を通して、17世紀と18世紀の時代精神の違いを知ることができる。


ヴォルテールは、理性に基づき迷信を排除し、政治や宗教の権威主義的な義務に対して自由を主張する。それが人間に幸福をもたらす手段なのだと彼は確認している。
彼が求めるのは、死後の救いではなく、地上における幸福であり、人間は社会生活の中で自由に生き、幸福に到達できるという楽観主義が、前期の彼の思想にはある。
その点で、人間には原罪があり、罪を思考の出発的にするパスカルとは対照的である。

(1)パスカルに反対して

書簡25で中心となる一節は、ヴォルテールの基本的な思考を明確に示している。

私にわかっているのは、原罪の神秘は信仰の対象であって、私の理性の対象ではないということです。ですから、人間がどういう存在であるのか、神秘を介さずに考えます。人間は他の動物と同じようにこの世にやってきます。母親の出産は、動物の出産よりも苦しいものです。よりデリケイトだからです。時には、人間の女性も動物の雌も出産で命を落とすことがあります。時には、身体が上手く形作られず、1つか2つの感覚器官がなかったり、思考する器官がない子供が生まれることもあります。もっとも見事に生まれついた子供は、情念(パッション)が最も活発に活動する子供です。

ヴォルテールはまず「信仰」と「理性」を対比させる。
信仰は、合理的に考えるのではなく、まず信じることから始まる。理屈では証明できない奇跡を信じ、宗教儀礼には素直に従う必要がある。
理性を働かせると、例えば、葡萄酒とパンをキリストの血と肉として口に入れる聖体拝領は、受け入れがたくなる。

理性を思考の中心に据えるヴォルテールは、すべての人間は、アダムの子孫として、アダムが犯した罪を生まれながらに負っているとされる原罪を信じない。
様々な人間が存在するのも、神秘ではなく、人間や動物に共通する自然の原理にすぎない。全ての人間が同じように作られるわけではなく、出産時に様々な状態で生まれることがある。それが自然なのだ。

17世紀から18世紀の時代精神の変化という視点から見ると、もう一つ重要な点がある。それは、「情念(パッション)」に対する姿勢の違い。
17世紀において情念は理性を混乱させ、人間を破滅に陥れるものだった。それに対して、ヴォルテールは、最も見事に生まれついた子供は、「情念(パッション)」が最も活発に活動するのだとしている。
その言葉は、「情念(パッション)」が肯定的に捉えられる時代が到来したことを告げている。

「情念(パッション)」に関する時代精神の変化が、ロココ絵画の官能性を可能にし、アベ・プレヴォの『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』が人気を博した素地になっている。

「自己愛」に関する記述も、時代精神の変化に基づいている。

自分に対する愛は、全ての人間に等しくあります。その愛は、五感と同じように人間にとって必要なものです。自己愛は神から私たちに与えられたもので、自己保存のためのものです。神が私たちの宗教を与えたのは、自己愛を制御するためです。

17世紀においてラ・ロシュフコーが『箴言集』の中で最も激しい攻撃の対象とした「自己愛」を、ヴォルテールは肯定している。

自己愛は、五感と同様に人間に自然に備わるものであり、存在を保つために必要なものだとする。
その上で、行きすぎた自己愛は人間を害する可能性があるため、それを抑制するために宗教がある。

ヴォルテールはここではっきりとは書いていないが、彼にとっての神や宗教は自己愛を制御する人間の自然な能力であり、言葉を換えれば、それは理性であるともいえる。

そして、人間とは、理性と情念が入り混ざり、様々な状況において多様に変化する存在であるが、それが人間の自然な状態なのだとヴォルテールは考える。

私たちの思考は、正しいこともあれあば、首尾一貫しないこともあります。暗いこともあれば、明るいこともあります。それは、私たちの器官がある程度しっかりしているか、緩んでいるかによります。私たちが多かれ少なかれ情念(パッション)にとらわれているかどうかによります。あらゆることにおいて、私たちは周りの環境や口にする食物に依存しています。そうしたこと全てにおいて、何も矛盾することはありません。人間は謎ではありません。あなた(パスカル)はそのようにお考えになり、その謎を見抜くことをお楽しみになるのでしょうが。

人間には矛盾した思考や行動を取ることがあるが、それは内部の情念に捉えられることから来ていることもあれば、外部の環境によることもある。

パスカルが人間を「謎」と考えるとすれば、それは彼が謎解きを楽しみたいからに過ぎない。
ここではそれ以上は踏み込んでいないが、原罪に関しても同じことが言える。楽園でアダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったことが人類最初の罪など、考える必要はない。

人間は自然の中で、自分のいるべき場所にいるように見えます。身体的な器官に関しては動物と似ていますが、動物よりも上にいます。思考を使うことにおいては、似ているであろう別の存在に比べると、下にいます。人間は、私たちが目にするあらゆるものと同様、悪と善が混ざり、喜びと苦悩が混ざっています。情念があるので活動し、理性があるので活動をコントロールします。もし人間が完璧だったら、神になってしまいます。あなたが「矛盾」と呼んでおられる一見対立する要素は、人間を構成するものの中に入ってくる必要不可欠な原材料なのです。人間とは、そのようであるべきものなのです。

ヴォルテールの人間観は、「人間は自然の中で、自分のいるべき場所にいる。」「人間とは、そのようであるべきもの」という言葉で的確に表現されている。

善も悪も行い、喜びも苦悩も感じる。
活動の源泉は情念(パッション)であり、理性がそれを抑制する。
それが人間であり、そのままの状態、つまり束縛のない自由な状態でいることが、最も幸福な状態ということになる。

ヴォルテールが、17世紀フランスの演劇理論では決して受け入れられないシェークスピアを高く評価し、フランスに紹介したのも、そうした人間観によるものに違いない。

シェークスピアは、活力と豊穣さ、自然さと崇高さに満ちた才能を持っていた。よき趣味の輝きなどかけらもなく、ほんの僅かな規則さえ知らなかった。(中略)この劇作家の持つ奇妙で巨大な思考の大部分は、200年の後に、崇高と見なされる権利を獲得したのだった。(第18書簡)

「よき趣味」「規則」が理性に基づくものだとすれば、シェークスピアはフランス古典悲劇の対極にあり、情念(パッション)に満ちた芝居を生み出した。
ヴォルテールの評価は、17世紀から18世紀へと変遷する中で、時代精神が変化しつつあったことをはっきりと示している。

パスカルの『パンセ』は、このような形で、ヴォルテールの思想を確立する上で、対立軸として重要な役割を果たしたのだといえる。

(2)デカルトからイギリスの経験論、ニュートン物理学へ

ヴォルテールはデカルト(1596-1650)に対しては、現代とはかなり違う見方をしていた。

現代では、デカルトは、精神と肉体、物質と意識を対立的に捉える二元論の創始者と見なされることが多い。

確かに彼は理性と情念の二元論を確立したのだが、最終的な目的は神の存在を証明することにあったことが知られている。
ヴォルテールによれば、デカルトは激しく強烈な想像力の持ち主であり、哲学の著作でも想像力に溢れている。
そして、皮肉なことに、彼の哲学は無神論ということで断罪されたのだが、デカルトの探求の目的は、神の存在を新たな証拠によって証明することだった。(第14書簡:デカルトとニュートンについて)

ただし、デカルトの証明はヴォルテールの目から見て、正しいわけではない。彼は、古代の哲学者たちと同様に、魂の先天性を前提にしており、その点で間違っている。

 デカルトは、古代の過ちを発見するために生まれたのですが、その過ちの代わりに自分の過ちを置き換えてしまいました。最も偉大な人間たちでさえも盲目にしてしまう体系的な精神に引きずられ、次のような説を証明したと思い込みました。魂は思考と同じものである。それは、物質が広がりと同じという彼の説と同じこと。人間は常に思考を続ける。魂は肉体に到達する時、あらゆる形而上学的な概念を持っている。神、空間、無限を知っている。あらゆる抽象的な思考を有している。素晴らしい知識に満たされている。しかし、不幸なことに、母の胎内から出る時、魂はそれらを忘れてしまう。(第13書簡:ロックについて)

ここでヴォルテールが問題にしているのは、プラトン的な二元論であり、肉体に先立つ魂の存在を前提に論を進めることを誤りと考えている。

そして、その問題意識こそ、ヴォルテールがイギリスにおいて学んだ経験論、感覚論、物理学から来ているのである。
その二つの概念の移行は、「超自然」を第一原理とする思考法から、「自然」を第一原理とした思考法への移行である。

ヴォルテールは、その第一歩をフランシス・ベーコン(1561-1626)に置く。

 ベーコン卿はまだ自然を知ることはありませんでした。しかし、自然に連なるあらゆる道を知り、それを指摘しました。早い時期から、大学が哲学と呼ぶものを軽蔑していました。(中略)
 一言で言えば、ベーコン卿以前の誰も、経験哲学を知りませんでした。そして、彼以降に行われた全ての物理学的な実験の中で、彼の書籍に記されていないものはほとんどないのです。
(第12書簡)

ここでキーワードのなるのが、「自然」。それが「経験哲学」につながる。
その自然とは、抽象的な概念によって推論されるのではなく、物理学の実験によって確認されるもの。

次にヴォルテールは、ジョン・ロック(1632-1704)の考察に移る。
ロックの経験論を一言で言えば、人間の心は白紙(タブラ・ラーサ)状態で生まれ、生得的な観念を持たないというもの。観念は経験に由来し、人間は、外的な感覚と内的な反省を通して、知識を形成する。

 ロックは、生得観念を破壊し、人間は常に思考すると信じる虚栄心を捨てた後、私たちの全ての観念は感覚に由来するという説を打ち立てました。(中略)
 もし私がロックに続いて、非常に微妙な問題について発言できるとしたら、次の様に言うでしょう。人間は長い間、魂の性質と不死について論じてきました。魂の不死については、それを証明することは不可能です。というのも、今でも魂の性質について議論しているのですし、創造された存在を徹底的に知らなければ、それが不死か不死でないかを決定することはできないからです。人間の理性はそれ自体では魂の不死をほとんど証明できませんから、宗教が私たちにそれを明かさなければならなかったのです。全ての人間が共通して望む好ましいことは、人々が魂を不死だと信じることです。信仰がそれを私たちに命じるのです。それ以上は必要ありませんし、そのように決められているのです。しかし、魂の性質に関しては、同じではありません。宗教にとって、魂がどのようなものからできているのかは重要ではありません。魂が美徳に富んでいればいいのです。それは、私たちに与えられた時計で、制御するのは私たちです。それを作った職人は、時計のネジが何でできているか、私たちに告げませんでした。
 私は肉体であり、私は思考します。それ以上のことはわかりません。

この引用の最初で、ロックの認識論の原則がはっきりと示されている。それは以下の二点に集約される。
ー「生得観念」は存在しない。
ー 全ての認識は「感覚」から始まる。

最後の一文は、ヴォルテール的な表現で、ロックの思想を言い換えたもの。つまり、人間の出発点は「肉体」であり、ベーコンに関する書簡では「自然」と呼んだもの。感覚が属するのは肉体であり、物質である。
しかし、その肉体は思考する。
「それ以上のことはわかりません。」
この言葉は、人間に生得的な概念がない、つまりタブラ・ラーサであることの、ヴォルテール的表現に他ならない。

引用した一節の中心に位置するのは、魂の不死の問題であり、宗教の本質に直結する。

ヴォルテールは魂の性質と魂の不死という二つの問題に切り分け、魂の不死を信じるためには、魂の性質を知ることが不可欠だが、魂の性質については今でも議論が続いており、論理的には不死か不死でないかを決定することはできいないと言う。
しかし、その一方で、宗教、この場合には、教会といった制度としての宗教ではなく、人間が自然に持つ宗教感情といったものを指すが、その宗教感情が魂は不死だと人間に明かす。つまり、合理的な説明はできないが、魂は不死だとヴォルテールは主張しているのである。
そうした考え方は、特定の宗派には属していないが、漠然と神様の存在を信じ、お寺でもお宮でも、時には日の出や山頂に向かって手を合わせる日本人には、親しみやすい考えではないだろうか。

ただし、啓蒙主義の中心人物であるヴォルテールは、唯物論的な思考の持ち主であり、魂をメカニックな時計にたとえもする。彼にとっては、メカニック(=魂の性質)を知らなくても、時計が正確に動くように、魂が美徳を行うように制御すればいい。

ロックに続くのは、アイザック・ニュートン(1642-1727)。

ヴォルテールは、万有引力の解説から始め、光学、微分積分法、天文学の説明に3通の書簡(15-16-17)を費やすほど、ニュートンの紹介に力を入れる。
21世紀の読者の視点から見てとりわけ興味深いのは、ニュートンの説明をデカルトとの対比から始めることである。

 二人の哲学者についてのイギリスの一般的な意見によれば、一人(デカルト)は夢想者であり、もう一人(ニュートン)は賢者です。。(中略)
 本当のことを言えば、何においても、デカルト哲学をニュートン哲学と比較できるとは思いません。デカルト哲学は小手試しですが、ニュートン哲学は傑作です。(中略)
 デカルトは盲人たちに視力を与えました。そのおかげで彼らは古代の過ちを見、そしてデカルトの過ちも見ることになりました。彼が切り開いた道は、その後、広大なものになりました。(第14書簡)

理性を思索の中心に据えたデカルトが出発点となり、ニュートンに至る。デカルトが切り開いた幾何学、物理学の広大な分野を、科学的な実験によって一つ一つ証明したのがニュートンだと、ヴォルテールは考える。

二人を分ける決定的な違いは、デカルトが理性を中心にした思索から始めながら、結局は思索のみに留ったことにある。デカルトは、最終的には、「2足す2が4になるのは、神がそう望んだからだ。」といった論を展開して終わる。
ニュートンはそのようには考えない。物体が落下するのは、決して神が望んだからではなく、引力があるからだ。

結局、ヴォルテールが提唱したのは、イギリス経験論、感覚論を通して、ニュートン物理学を哲学的に捉える視点だった。


ヴォルテール『哲学書簡』林達夫訳、岩波文庫、1980年。

ダニエル・モルネ『十八世紀フランス思想 ー ヴォルテール、ディドロ、ルソー』市川慎一、遠藤真人訳、大修館書店、1990年。

エルンスト・カッシーラー『啓蒙主義の哲学(上・下)』中野好之訳、ちくま学芸文庫、2003年。