ヴォルテール 『カンディッド』 地上における幸福に向けて

18世紀フランスの啓蒙主義を代表する作家ヴォルテールの創作活動の前半を要約する表現は、「人間は自然の中で、自分のいるべき場所にいる。」「人間とは、そのようであるべきもの。」といった、現状を肯定する傾向の現実認識に基づいていた。
しかし、後半になると、そうした楽観主義的な思想を否定し、悪の存在を強く意識し、より現実的な思考へと変化していった。

その変化の直接のきっかけとなったのが、1755年11月1日に発生したリスボンの大地震だった。
リスボンの85%の建物は破壊され、27万人の人口の3分の1にあたる約9万人が死亡したといわれている大震災だった。

その規模は、ヨーロッパの人々に大きなインパクトを与え、経済や政治だけではなく、哲学的にも大きな問題となった。

当時、地震は自然現象というよりも、神罰と見なされた。そこで、敬虔なキリスト教国家であるポルトガルで、11月1日の万聖節という祝日に、なぜ首都リスボンが地震にみまわれなければならなかったのか、多くの教会や聖堂が破壊され、罪のない人々が被害に遭わなければならなかったのか、大きな問題となった。

現代の日本でも、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東北大震災など、数多くの自然災害に襲われる。そして、被害を受けた人々は、なぜここが、なぜ私であって他ではないか、と自問することがある。
もし神様がいるとしたら、なぜそんな大災害を引き起こすのかと問いかけもする。

ヨーロッパの18世紀前半には、ドイツの哲学者ライプニッツ(1646-1716)が主張した、「慈悲深い神が創造する世界の中でも最善の世界の中で、全ての出来事は最善である」という楽観主義や、「慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない」という説が流通していた。

しかし、ヴォルテールは、リスボンの大震災を前にして、「人間は自然の中で、自分のいるべき場所にいる。」とは言っていられなくなる。
その震災を直接の契機として、『リスボン大震災についての詩』を執筆し、悪の起源、神の行い、人間の自由などの問題を韻文詩の中で論じた。
さらに、1759年には、哲学的な物語(コント)という枠組みで、より具体的にライプニッツ的楽観主義を批判した。『カンディッドあるいは楽観主義』は、そうした思索の結実である。

『リスボン大震災についての詩』 
理論と現実のギャップ

1710年、ドイツの哲学者ライプニッツ(1646-1716)が『弁神論』を出版、悪の問題をキリスト教の立場から論じ、善なる神が創造した世界になぜ悪が存在するのかという、非常に困難な問題を解決しようと試みた。
その主張は、神が存在するのであるから、「今ある世界は創造可能な世界の中で最善のもの」というものであり、存在するものには存在する「十分な理由」があるとした。

その後、イギリスの詩人アレキサンダー・ポープ(1688-1744)が、「存在するもの全ては善である。(Whatever is, is right. )」という表現によって、ライプニッツの『弁神論』の学説を楽観主義(オプチミズム)として一般化した。

しかし、1755年のリスボンの大震災を前にして、「全ては善」という思想を受け入れることができるだろうか。そうした学説は空理空論であり、現実に即していないと言わざるを得ないのではないか。
ヴォルテールがイギリス滞在中に最も多く学んだのはニュートンの思想であり、それは現実を観察し、実験から理論を作り出すものだった。

例えば、なぜリンゴが木から落ちるのか?
現代の私たちは、すでに引力の理論を知っているために、引力があるからと答える。しかし、もしニュートンが引力を「発見」していなかったら、どのように考えるだろう?

ここで話題にしている18世紀前半は、ニュートン以前の時代精神が人々の思考を支配していた時代。物体が落下するのは、神の摂理と言われれば、その考えを信じただろう。
そして、大震災は神の怒りの表現であり、天罰と言われたら、そう思う人々も数多くいたに違いない。

そうした中で、実験によって検証可能な現実に思索の基礎を置くヴォルテールは、哲学的思考やキリスト教の学説に固執する人間たちを非難する。

「全ては善だ。」と叫んでいる、誤った哲学者たちよ、
走り来て、見るのだ、この恐ろしい廃墟を、
この残骸を、この破片を、灰になったこの不幸な者たちを、
この女たちが、この子供たちが、積み重なっているのを、
この砕け散った大理石の下で、散りじりになった手足を。
(中略)
今にも息絶えようとしている人々の声がやっと吐き出す叫び声を聞き、
煙を立てる灰が形づくる恐ろしい光景を目にして、
お前たちは、「これは永遠の掟の結果なのだ。
自由で善良な神が必要とした選択なのだ。」と言うか?
この犠牲者の山を見ながら、「神が復讐したのだ。
彼らの死は彼らの罪の代償なのだ。」と言うのか?
この子供たちが、どのような過ちを、どのような罪を犯したというのか、
母の胸の上で押しつぶされ、血にまみれている子供たちが?
リスポンはもはや存在しない。リスボンが、多くの悪徳を犯したというのか、
ロンドンよりも、パリよりも、官能の喜びに浸る悪徳を?

João Glama Strobërle, Allegory of the 1755 Earthquake

こうした激しい怒りの声を届けるためには、散文よりも韻文詩の方が相応しい。感情がより直接的に伝わるからだ。

地球温暖化が進行し、自然災害が多発する現代において、私たちは、その原因が人間の力を超えた自然によって引き起こされると考え、心理的に災害を受け入れ、乗り越えようとする。
あるいは、原因が温暖化にあると考えれば、その原因を何とか取り除こうとする。
そうした考え方は、ニュートン、ヴォルテールに近い。
災害を神による罰だと言うことは、馬鹿げた空論だし、被災者の怒りを掻き立てる。

(私自身、阪神大震災で被災した際、友人からの電話で、「いい教訓になりましたね。」と言われ、憤慨した覚えがある。彼にもちろん悪気はなかった。日本の文明社会に対する反省という意味だということはわかっている。しかし、ヴォルテールと同じように、この光景を見て一般論など言うな!と強く思ったことは確かである。)

怒りの表現の後、ヴォルテールは、このように結論付ける。

私たちの悲しみ、後悔、失ったものは、数限りない。
過去は、私たちにとって、悲しい思い出でしかない
現在は恐ろしい、もし未来がないとしたら。
墓石のような闇夜が、思考する人間を破壊するならば、
「いつか、全ては善になるだろう。」それが私たちの希望。
「今日、全ては善きもの。」それは幻だ。

まず、現実の悲惨を確認する。大災害の被害は口で言い表せるものではなく、悲しい思い出が続く。
現在も悲惨だ。
そうした中で、ヴォルテールは、未来に希望を託す。
「あるがままの世界」は病気、不正、迫害、災害など悪がはびこっている。しかし、未来に目をやり、「理性の支配」に従えば、世界はよくなる希望がある。

そのためには、現実に基づいて考えることが必要だ。
もし思考しなければ、闇に包まれ、「全ては善」という説に振り回されてしまうだろう。
墓石の中の闇によって思考を破壊されてはいけない。「今ある世界は創造可能な世界の中で最善のもの」説や、「十分な理由」説を幻だと気づく必要がある。

『リスボン大震災についての詩』で、ヴォルテールは、ニュートン的実証主義という意味では以前と同じ思考的基盤に立っている。しかし、重要なのは変化している部分。現実肯定的な世界観を捨て、より現実的な世界観へと変わっていく。この韻文詩の中に、その過程を見て取ることができる。
そして、その変化は、『カンディッド あるいは楽観主義』へと続いていく。

『カンディッドあるいは楽観主義』 
「自分の庭を耕す」思想

『カンディッドあるいは楽観主義』は、哲学的物語(コント)と呼ばれる文学ジャンルに属している。

17-18世紀のフランスでは、物語にはコントとヌーヴェルという区別があった。
現代では中編小説を意味するヌーヴェルという名称は、かつては現実的な物語を指す言葉だった。
他方、コントは非現実的で空想的。ペローの「眠れる森の美女」や「シンデレラ」などを思い浮かべるとわかりやすい。

従って、哲学的物語(コント)という枠組みを設定することで、荒唐無稽な物語で読者を楽しませながら、哲学的な内容に導くことが可能になる。
それは、楽しい物語という外見を通して真実を教えるという古典主義文学理論に適合するものであり、寓意(アレゴリー)的物語と考えることもできる。

ヴォルテールはそうした空想的物語の枠組みを利用し、理想の国の様子を描いたり、非現実的な出来事を語ると同時に、哲学的な内容を含めたり、リスボンの大震災のような現実の出来事も描き、巧みに読者を啓発していく。

主人公カンディッドは、故郷となる城を追放された後、戦争や大地震等、数々の不幸にみまわれる。愛するキュネゴンド嬢に命を救われ、2人で南アメリカに渡ったりもするが、そこでも異端審問の追及にあう。黄金郷エル・ドラドにたどり着いても、無目的に人生を過ごすことのできない主人公は、ヨーロッパに戻る。最後に、「われわれの庭を耕さねばならない」と悟り、物語は終わる。

ツンダー・テン・トロンク男爵の城

『カンディッド』は昔話的な書き出しで始まる。

 昔々、ヴェストファーレン地方にあるツンダー・テン・トロンク男爵の城に、一人の若者がいた。非常に穏やかな立ち居振る舞いをするように生まれついていた。彼の容姿は彼の魂を告げていた。正しい判断力を持ち、この上なく素直(シンプル)な心持ちをしていた。私が思うに、そのために、若者はカンディッド(純真)と呼ばれていた。

Pieter Brueghel l’ancien, La-tour-de-babel, détail

「昔々、ある所に、・・・がいました。」これが昔話の出だしだとすると、「昔々、・・・に一人の若者がいた。」という開始は、昔話風の始まりであることがわかる。

その一方で、ヴェストファーレン地方というドイツに実在する地方の名前が挙げられており、現実を参照していることも示される。
ツンダー・テン・トロンクという城主の名前は、一見するとドイツ語的ではあるが、ドイツにもそうした名前はなく、ヴォルテールが創作した虚構の名前。

昔話の枠組み、現実と空想の混合。こうしたことから、冒頭の一節だけで、読者は、この物語が何かしらの寓意(アレゴリー)を含んでいることに気づかされる。

Antoine Watteau, Pierrot, détail

次に主人公カンディッドの紹介が行われる。
ここで最も注目したいのは、「容姿が魂を告げる」という言葉。

宮廷社会を支配する外見の文化において、外見は人を欺くものであり、人を偽る外見から内面を正しく見抜くことが、社会を生き抜く技術だった。

カンディッドは、穏やかな振る舞いという外見が、正しい判断力や素直な心根という内面と対応しているために、純真な若者だと見なすこともできる。
しかし、素直を意味するシンプルという言葉は、単純で信じやすいという意味にも理解できる。とすれば、容姿が魂を告げる純真さが、実は、外見と内面のズレに気づかず、外見から真実を見抜けない愚鈍な者という、隠れた意味を含んでいると考えることもできる。

ズレについては、ツンダー・テン・トロンク男爵を以下のように紹介する際、読者がはっきりと意識できるよう、滑稽で皮肉な描き方がされている。それに気づかない読者は、あまりに純真(シンプル)すぎると言わんばかりに。

 男爵はヴェストファーレン地方の最も有力な君主の一人だった。城には一つの扉といくつかの窓があったのだ。大きな広間は1枚の壁掛けで飾られていた。城の中の犬たちは必要な時には群を作った。馬を世話する者達が猟犬係だった。村の叙任司祭が城の大司祭だった。彼のことをみんなは殿下と呼び、殿下が物語(コント)をする時には、笑うのだった。

最も有力な君主といいながら、男爵の城で言及されるのは扉1枚と数枚の窓だけ。広間を飾る壁掛けも1枚しかない。猟犬は城内にいるただの犬で、馬の係が猟犬の係もする。城の大司祭は、実は村の叙任司祭。
現実の状況が、ヴェストファーレン地方の最も有力な君主という言葉を裏切っている。
そこで、人々は彼を殿下と呼びながら、しかし、彼の称号が空想的な物語(コント)に属するようなものであることを知っていて、それを笑いものにしているのだろう。

ヴォルテールは、哲学的な物語(コント)をこのように始めることで、言葉の第一義的な意味をそのまま受け取るのではなく、常に別の意味があることを意識するよう、読者を導いている。

カンディッドを指導する家庭教師パングロスは、最初に「一家の神託」と言われる。つまり、彼の言うことは、神のお告げのように全てが正しく、理性的な検討をすることなく、受け入れられていた。
そして、カンディッドは、彼の教えを「年齢と性格に相応しい誠意を持って受け取った。」
この関係を、どのように理解するのか?

「純真な」カンディッドは、パングロスの言葉を「素直に」に受け入れ、「誠意」を持って信じる。
読者はその姿を辿りながら、カンディッドと逆な態度を取り、疑い、現実を観察し、科学的精神を持って検証することが求められる。

パングロスの教えは次の様なものだ。

パングロスの教育は、形而上学的・神学的・宇宙論的・愚学だった。見事に証明したのは、原因のない結果はないこと。そして、可能世界において最も素晴らしいこの世界の中で、男爵陛下の城は最も美しい城であり、男爵夫人はあらゆる可能な夫人の中で最も善良な夫人であるということ。
 「証明されているのは、」と彼は言う。「物事は今ある以外のあり方をすることはできない、ということ。なぜなら、全ては一つの目的のために作られているので、必然的に最もよい目的のためにある。鼻が作られたのは、眼鏡を支えるため。だから私たちは眼鏡を持っている。足は、靴を履くようにはっきりと形づくられている。だから私たちは靴を持っている。石は切断されるために形作られた。それらを使い城を作るために、殿下は大変に美しい城をお持ちだ。この地方の最も偉大な男爵は、最もいい住まいに住むべきだ。豚は食べられるようにできているので、私たちは一年中豚を食べている。従って、「全ては善だ。」と言った人々は愚かなことを言ったことになる。「全ては最善の状態にある。」と言わなければならなかったのだ。」

「可能世界において最も素晴らしいこの世界」という表現は、パングロスがライプニッツやポープに連なる「楽観主義」を説いていることを明確に示している。
「存在するもの全ては善である。」

しかし、ここでの証明は滑稽であり、ヴォルテールが「楽観主義」を揶揄していると、誰もが一目でわかるように書かれている。
鼻があるのは、眼鏡を支えるため。足が曲がっているのは、靴を履くため。等々。
そして、最後にダメを押すように、「全ては善」ではまだ誤りで、「全ては最善」だとする。

実は、パングロスの教育に対する批判は、学問の名称の中で最初に示されていた。
形而上学、神学、宇宙論の後で、ヴォルテールが作った愚かな学という意味の新語が使われているのである。
「愚学」と訳したnigologieという言葉は、nigaud(愚かな)とlogie(学問)から作られている。

ヴォルテールの皮肉は、18世紀の思想の最終的な目的である「幸福」にまで及ぶ。

 カンディッドは注意深く耳を傾け、無邪気に信じた。なぜなら、キュネンゴドお嬢様を大変に美しいと思ったからだった。しかし、決して彼女にそう言う勇気はなかった。彼は次のような結論に達した。ツンダー・テン・トロンク男爵として生まれる幸福。その後に来る第2の幸福は、キュネゴンド嬢であること。第3の幸福は彼女を毎日見ること。第4の幸福は、師パングロスの教えを聞くこと。パングロスはこの地方で最も偉大な哲学者であり、その結果、地上で最も偉大な哲学者なのだ。

最初に非論理的な言葉が連ねられる。
カンディッドがパングロスの教えを無邪気に信じたことと、王の娘であるキュネゴンドを美しいと思ったこと、その二つの間に何の関係もない。それにもかかわらなず、「なぜなら」という言葉が使われ、この文の意味のなさが読者に伝わるようにされている。

その上で、4つの幸福が列挙されるのだが、哲学的な思索が追い求める幸福とはほど遠い。
キュネゴンドは、冒頭の部分で、「娘のキュネゴンドは17歳。血色がよく、新鮮で、ぽっちゃりし、美味しそうだった。」と紹介されていて、彼女と毎日会うことは幸福かもしれない。
しかし、彼女への愛のために、カンディッドは、城から追放されてしまう。

 キュネゴンド嬢は城からの帰り、カンディッドに出会い、顔を赤らめた。カンディッドも同じように赤くなった。彼女は途切れ途切れに「お早う」と言った。カンディッドも何か話したが、何を言っているのか自分でもわからなかった。翌日、夕食の後、テーブルから離れた時、キュネゴンドとカンディッドは衝立の後ろにいた。キュネゴンドがハンカチを落とす。カンディッドがそれを拾う。彼女は彼の手を無邪気に取る。若者は無邪気に若いお嬢様の手に口づけする。いきいきと、感受性豊かに、特別の優雅さを持って。二人の唇が出会った。目が炎のように燃えた。膝が震えた。手がさまよった。ツンダー・テン・トロンク男爵が衝立の近くを通りかかった。そして、原因と結果を見、尻に足蹴りを喰らわせてカンディッドを城から追放した。キュネゴンドは気絶した。意識が戻るとすぐ、男爵夫人に平手打ちされた。創造可能な城の中で最も美しく最も気持ちのいい城の中で、全てが茫然自失状態になった。

「原因と結果」、「創造可能な城の中で最も美しく最も気持ちのいい城」といった表現は、ヴォルテールが攻撃する「楽観主義」の議論の中にしばしば出てくる。
従って、それらの表現を使うことで、ツンダー・テン・トロンク男爵の城は、「全ては最善」という理論が通用している場所であることがわかる。

それにもかかわらず、現実においては、カンディッドはキュネゴンドと口づけしている場面を男爵に見つかり、尻に足蹴りを喰らい、追い出されてしまう。
キュネゴンドの方も、意識を回復したかと思ったら、母親から平手打ちされる。
愛し合う二人の現実は、実際には善とはほど遠く、悲惨なものである。

このように、『カンディッド』の第1章を読むだけで、ヴォルテールの哲学的物語(コント)がどのように進められ、「全ては善」説がからかいや皮肉の対象になり、現実に基づかない理論に対する攻撃がどのように行われるのか、理解することができる。

リスボンの大震災

ヴォルテールに大きな衝撃を与えたリスボンの大震災は、『カンディッド』の中にも取り込まれている。文学的に興味深いのは、韻文詩『リスボン大震災についての詩』と同じテーマでありながら、哲学的物語(コント)ではどのように扱い、何を目指すのかという問題である。

ツンダー・テン・トロンク男爵の城を追い出されたカンディッドは、ブルガリアの町を彷徨っている時、ブルガリア王を愛していないからという理由で捕らえられ、軍隊に入れられて暴力を振るわれる。そこから何とか逃れた時、非常に惨めな状態にいるパングロスと出会う。
パングロスは、王の一族がブルガリア軍によって皆殺しに合い、キュネゴンドも乱暴されたあげく、殺されてしまったと告げる。また、パングロス自身も、性病にかかり、死ぬ間際の状態にいる。
その病の治療のため、カンディッドは、ある町で出会った非常に親切なジャックという男に依頼し、3人そろって船に乗り、ポルトガルに向かう。

リスボンの港に到着する直前、大きな嵐に襲われ、ジャックは一人の水夫を助けるために、自分は船から落ち、命を落としてしまう。さらに、船が真っ二つに裂ける。生き残ったのはカンディッドとパングロス、そしてジャックに助けられながら、ジャックを助けようとしなかった船乗りの三人だけ。
そのようにしてやっとリスボンに到着する。

 恩義のあるジャックの死に涙しながら、彼らが町に入るとすぐ、足元で地面が揺れるのを感じる。海が持ち上がり、港で沸き立ち、停泊している船を破壊する。炎と灰の渦巻きが道や広場を覆いつくす。家々が崩れ落ちる。屋根が土台の上にひっくり返り、土台がばらばらに飛び散る。あらゆる世代、男も女も含めて3万人もの人々が、廃墟の下で押しつぶされている。船乗りが、口笛を吹き、口汚く言った。「ここには獲物がありそうだ。」パングロスは言った。「この現象に関する十分な理由とは何だろう。」「これこそ世界の最後の日です。」とカンディッドは叫んだ。船乗りはすぐに廃墟の中に走っていき、死と直面しながら金銭を探し、見つけると奪い去り、酒に酔いしれる。ぐっすり眠った後は、最初に出会う善意の娘の好意を金で買う。その娘と出会うのは、壊れた家々の廃墟の上、今にも息絶えようとしている人々やすでに息絶えた人々の中でだ。パングロスは彼の袖を引き、こう言った。「友よ、それはいいことではない。君は普遍的な理由に違反している。時間を悪用しているのだ。」「頭に血が上っているのか!」と船乗り。「俺は船乗りだ。バタヴィア生まれだ。日本に4回旅行し、十字架を4度踏んだんだ。お前は、お前の思うような人間を、お前の普遍的な理由と一緒に見つけたんだろ!」
 いくつかの石の破片がカンディッドを傷つけていた。彼は道に横たわり、身体は破片で覆われていた。パングロスに向かって言った。「あーあ! ワインと油を少しください。死んでしまいそうです。」「こうした地震は新しいことではない。」とパングロスが応える。「去年はアメリカで、リマの町が同じように震えた。同じ原因、同じ結果だ。リマからリスボンまで、地下で硫黄の流れが続いているに違いない。」「それほど本当らしいことはありません。」とカンディッド。「でも、神様にかけて、油とワインを少しください。」「なんだ、本当らしいだと?」と哲学者が応えた。「私が支持するのは、それが証明されているということだ。」カンディッドは意識を失った。すると、パングロスは、近くにある噴水から、わずかの水を彼のところに持ってきた。

韻文詩において、ヴォルテールは、現実を無視して「全ては善」と言い続ける理論家たちを、感情を露わにして非難した。
散文の物語では、3人の人物を地震に立ち会わせ、彼らの言動を描くことで、読者もその場に立ち会っているような印象を作りだす。

最も素直な反応は、カンディッドのもの。大災害を目の当たりにし、「地球最後の日だ」と叫ぶ。

船乗りは、自分の利益しか考えない。
彼は、遺体から金銭を奪い、酒に酔いしれ、女を買う。そうした行為のおぞましさは、売春が瀕死者や死者の真ん中で行われると付け加えられることで、さらに強調されている。

パングロスは、「すべて(パン)」は「言葉(グロス)」という彼の名前が示す通り、常に言葉による理論ばかりを振りかざす。
震災の被害を見るのではなく、地震の起こる「十分な理由」は何か自問する。
船乗りの悪行に対しては、「普遍的な理由」に違反すると批判する。
怪我をして横たわっているカンディッドがワインと油を求めるのに対しては、すぐに命を救うための行動を取るのではなく、地震が昨年は南アメリカにあるペルーの首都リマでも起こったのであり、「同じ原因、同じ結果」だと自説を説く。
カンディッドが「本当らしい」と言うのに対して、「それは証明されている。」と言葉を訂正する。
結局、パングロスが行動するのは、カンディッドが意識を失った後でしかない。

読者はこうした展開を追いながら、パングロスの行動には滑稽さが際立ち、彼の学説に対する揶揄が行われているのに気づくことになる。
「十分な理由」「普遍的な理由」「同じ原因、同じ結果」「本当らしい」「証明」などは、当時の哲学的議論の中で用いられた用語であり、ヴォルテールがパングロスを通して、楽観主義(オプチミズム)を批判していることは明白である。

災害の被害者たちに対しても、パングロスの言動は変わらない。

パングロスは彼らを慰め、事物がこれ以外の仕方でありえないのは確かだと言った。「というのも、これら全ては最善のものだからです。というのも、リスボンに火山があるとしたら、他の場所にあることはできなかったのですから。というのも、事物があるところにないのは不可能なのですから。というのも、全ては善なのですから。」

ここでは、「というのも」という原因を示す言葉が4回も繰り返されるが、少しも大震災の原因を明らかにするものではない。ただ自説を言い換えているだけで、現実から導き出した結論とは言えない。
そのために、言葉が上滑りし、滑稽にしか感じられない。

このように、『カンディッド』では、皮肉や揶揄によって、読者に「全ては善」説の滑稽さを理解させようとする。その点で、「’今日、全ては善きもの’。それは幻だ。」と直接批判した『リスボン大震災についての詩』の語り方とは対照的になっている。

自分の庭を耕す

『カンディッド』では、悪いことしか起こらない。しかし、パングロスの教えを素直に信じるカンディッドは、「全ては善」と思い続ける。
しかし、物語の最後になり、登場人物たちがトルコのイスタンブールの近くで再会した後、回教の僧侶との対話、次に、小さな土地で幸福に暮らす老人との対話を通して、カンディッドは楽観主義とは異なる思想を見つけることになる。

回教の僧に向かい、パングロスは、「人間のような奇妙な動物がなぜ作られたのか?」と問いかける。

「あなたは何に口出ししようというのですか?」と回教の僧は言った。「あなたと何の関係があるのですか?」「我が尊敬すべき師よ。」とカンディッド。「地上には恐ろしいほどの悪が存在するのです。」「悪があろうと、善があろうと、それが何だと言うのか。」と回教の僧は言う。「至高の方がエジプトに一艘の船を派遣なさるとき、船に乗った鼠の居心地がいいのか悪いのか、お気になさるでしょうか?」「では、何をしなければならないのですか?」とパングロス。「あなたは黙ることです。」と回教の僧。パングロスは言う。「私はあなたとご一緒に少しでも議論できることと思っておりました。結果と原因について、可能世界の中の最善の世界について、悪の起源について、魂の性質について、予定調和について。」回教僧は、そんな言葉を聞くと、彼らの目の前でドアを閉めてしまった。

最後のパングロスの言葉は、ヴォルテールの時代の哲学の議論の主要なテーマ。そのパングロスに対して、イスラム僧は口をつぐむように命じ、それでも言葉を続けると、ドアを閉めてしまう。

次に出会う老人は、小さな農地で、子ども達と幸福に暮らしている。イスタンブールで起こる政治的な出来事には関心を示さず、自分の庭で採れた果実をそこで売ることだけが、イスタンブールに関する興味だった。
そんな老人に対して、カンディッドは「さぞ大きくて立派な土地をお持ちなのでしょうね。」と尋ねる。

Jean-Baptiste Oudry, La Ferme

「私には2キロ四方の土地しかありません。」とトルコ人は応えた。「子供たちとその土地を耕しています。働くことが私たちを3つの大きな悪から遠ざけてくれます。退屈と悪徳と欲求(必要)です。」

この言葉にも、当時の哲学的、宗教的議論のテーマが含まれている。「労働」「退屈」「悪徳」「欲求(必要)」。

このように見てくると、哲学的物語(コント)という文学ジャンルがどのようなものか、理解できるだろう。
物語自体は空想的だったり、馬鹿げている部分もあるが、その展開を通して哲学的なテーマが様々な形で組み込まれている。そうしたテーマには、「全ては善」「幸福」「労働」などキーワードがあり、読者はそれを手引きに、物語の寓意を読み取ることになる。

 カンディッドは小作地に戻る途中、トルコ人の話について深く考えた。そして、パングロスとマルタンにこう言った。「あの善良な老人は、私たちが光栄にも一緒に夕食をした6人の王たちの運命より好ましい運命を、自ら作り出したように私には思えます。」「偉大なことが非常に危険だとは、全ての哲学者たちが伝えるところだ。」とパングロス。「というのも、モアブ国の王エグロンは、結局、アオドによって暗殺された。(中略:以下、同様の例が多数挙げられる。)」「私にもわかっていることがあります。」とカンディッド。「私たちの庭を耕さなければならないのです。」「お前の言うことは正しい。」とパングロス。「というのも、人間がエデンの園に置かれた時、『創世記』が言う通り、人間は働くためにそこに置かれたからだ。そのことが証明するのは、人間は休息のために生まれたのではないということだ。」「屁理屈を言わず、働こう。」とマルタン。「それが人生を耐えられるものにする、唯一の方法なのだ。」

パングロスは、相変わらず意味のない言葉を話し続けるが、しかし初めてカンディッドの発言を肯定し、「お前は正しい。」と言う。

その内容は、「私たちの庭を耕さなければならない。」というもの。

その言葉の意味に関して、パングロスは、『創世記』からの言葉を引用し、働くことの価値を説く。

南アメリカで知り合った悲観論者のマルタンは、「働くこと」と同時に「理屈を言わないこと」を提案し、人生を耐えられるものにするには労働しかないと言う。

そのようにして、最後に集った人々はそれぞれに働くようになり、物語は結末を迎える。

時にパングロスがカンディッドにこう言うことがあった。「全ての出来事は、可能世界中の最善の世界の中でつながっている。というのも、結局、もしお前が、キュネゴンド嬢への愛のために尻を蹴られて美しい城から追い出されなかったのなら、異端審問にかけられなかったのなら、アメリカ大陸を歩いて回らなかったのなら、男爵を剣で一突きしなかったのなら、楽園の素晴らしい国の羊を全て失わなかったのなら、今ここで、砂糖漬けのレモンもピスタチオも食べていないだろう。」
「おっしゃる通りです。」とカンディッドは応えた。「でも、私たちの庭を耕さなければなりません。」

パングロスは最後まで自分の理論をふりかざす。それに対して、カンディッドは、真正面から反論することはせず、一応同意した上で、「でも」と保留を入れ、再び「私たちの庭を耕さなければなりません。」と結論づける。

すでに労働の意義については、パングロスもマルタンも認めていた。
カンディッドは、再び同じ言葉を繰り返し、物語は終わりを告げる。
そのことは、単に労働の意義というだけではなく、言葉で「全ては最善」と繰り返すパングロスに対しての、確実な反論になっている。
『カンディッド』の題名の中に含まれる「楽観主義」が、物語を通して徹底的に揶揄され、決して人間の幸福には繋がらないことが例証される。

現実世界の中で生きる人間にとって、幸福は、身近な現実を自分の足で踏みしめ、その現実に自分で働きかけることによってしか得ることができない。
「人間は自然の中で、自分のいるべき場所にいる。」のだとしても、そこで現実を観察し、検証し、労働することが幸福への満ちだと、カンディッドは私たちに示している。


『カンディッド』から通して見えてくるのは、世界は悪に満ちているという現実認識。別の言葉で言えば、抽象的な議論に基づく結論が先にあるのではなく、悪の存在を認めることが、物事を論じる際の第一歩となる。

次に、そうした世界でも幸福は得られること。そのためには、「自分の庭を耕す」ことが必要。つまり、現実にできることをして、それ以上を望まないこと。

そのような生活の中であれば、王政も宗教も入り込まず、各人が自由に生きることができる。
さらに言えば、神を崇拝するという理由で行われる様々な儀礼はなく、人間を束縛することはない。しかし、それが神の存在を否定するものではない。様々な宗教の儀礼は異なっているので普遍的ではないが、しかし全ての宗教が神の存在を認めている。従って、神の存在は普遍的に認められているのであり、神は存在する。

このように見てくると、ヴォルテールの思想は、現代の日本でも見られるものであり、18世紀前半に合理主義的、科学的世界観の基礎が出来上がったことが理解できる。


ヴォルテール『カンディード』斉藤悦則訳、 光文社古典新訳文庫、2015年。

ダニエル・モルネ『十八世紀フランス思想 ー ヴォルテール、ディドロ、ルソー』市川慎一、遠藤真人訳、大修館書店、1990年。

エルンスト・カッシーラー『啓蒙主義の哲学(上・下)』中野好之訳、ちくま学芸文庫、2003年。