ルイ14世の時代の刻印

ペローの物語には、ルイ14世時代の風俗がはめ込まれている。そして、そこには、昔話といえないような生々しさがあり、物語を活気づけている。
「眠れる森の美女」は紡錘に刺されて百年間の眠りにつく。そして百年後王子が彼女を森で発見したとき、目を覚ます。
その際ペローは、流れた歳月が具体的に感じられるように、細かな細工を施している。例えば、美女を守る兵士たちは「旧式の火縄銃(フランス語の原文ではカービン銃)」を持っている。
17世紀の後半にこの銃はすでに使われていなかったということであり、当時の読者であればすぐにピントきたはずである。


時間の経過はさらに、美女の着ていた服で表される。それは高い襟のついたドレスであるが、エリザベス1世の有名な肖像画を思い出すとわかるように、16世紀後半の女性の服だった。
それに対して、17世紀後半には女性のドレスの胸元は大きく開かれ、襟は全くなくなっている。王子はそこで美女が古い時代の服を着ているようだと思うのだが、しかしそれは口に出さないでおく。
このようにして、ペローは実際に100年の時が経ったことを、ドレスの描写を通して読者に感じさせようとしたのである。
ペローの時代を感じさせる品物はそれ以外にも見つかる。
美女が気を失ったときにかがせる「ハンガリー女王の水」、人食い鬼が子どもを食べるときにかける「ロベールソース」。こうした固有名詞は現実性を増すのに役立っている。
また、王子が美女に愛を告げる時、「自分自身よりも王女様を愛しています。言葉はしどろもどろでしたが、それがますます王女様の気に入りました。」といった気取った文章が使われる。こうした言葉遣いも、当時の時代の反映といえる。

「サンドリヨン」では、一七世紀後半の風俗がさらに大きな役割を果たしている。
舞踏会に出かける前に、二人の姉は精一杯のおめかしをする。
上の姉は、赤いビロードのドレスにイギリス製のレース飾りをしたもの。
下の姉はスカートを二枚重ね、内側のものは普通のスカートにするが、外のスカートは金糸の花柄で飾られ、ダイヤモンドのブローチで内スカートが見えるようにする。さらに当時は胴が細く見えるようにコール・バレネと呼ばれる胴衣をつけ、それを紐で締め付けていた。
「胴をできるだけ細く見せようとして、一ダース以上も紐を切ってしまった」という記述は、こうしたファッションの事情を反映している。
姉のおしゃれはそれだけでは終わらず、今度は髪型が話題になり、「腕のいい美容師を呼びにやり、二列の髪飾りを準備させる」。これは、髪の毛を塔のように高く結い上げたもので、ルイ一四世の寵愛を受けたフォンタンジュ嬢が始めたことから、フォンタンジュ型と呼ばれた。
最後に、「腕のいい女職人のつけぼくろ」にも言及される。つけぼくろも当時の流行で、にきびや吹き出物を隠し、さらに黒い色のものを使うことで、肌を白く見せる効果があった。
一般的な昔話であれば、二人の姉は美しく着飾って出かけたというだけのところを、ペローの物語では当時の流行がわかるように具体的に書き「サンドリヨン」の中では、そうした風俗が当時の女性のファッションを彷彿とさせるというだけではなく、物語の骨格ともかかわっている。

サンドリヨンが舞踏会に行くとき、妖精から12時になると魔法の効果が失われると告げられる。そこで、最初に舞踏会にいったときには、11時45分を知らせる鐘の音を聞き、急いで会場から立ち去る。
次の日に再び舞踏会に行くのだが、その時には12時の鐘の音を聞くまで時間を忘れてしまう。
何気ない反復のようだけれど、17世紀後半において、45分まで細かく時を刻む時計は新しく作られた機械であった。
わざわざ細かく11時45分などという時間を明示するのは、最新の時計技術を反映しているといえる。
こうした記述は「青ひげ」や「長靴をはいた猫」でもことかかない。「赤ずきんちゃん」では、おばあさんという言葉にわざと古い表現が使われ、古めかしさを出す工夫もなされている。
徹底的に細部にこだわったペローは、古いものと新しいものの対比を、物の質感を通して感じさせようとした。そうした語り口を通して、ペローの昔話の中では、時間の経過が実感できるような仕組みが施されているのである。
ところが、現実を感じさせる語り方に対して、昔話の文法に違反しているという意見が提出されることがある。
ドイツの学者マックス・リューティは、時間の流れを無視するのが昔話の文体であり、ペローのようなフランス的エスプリを感じさせるリアリティーは昔話の本質からははずれていると言う。(『昔話の本質』『ヨーロッパの昔話』)
精神分析的な視点から昔話を研究したブルーノ・ベッテルハイムも、昔話の主人公たちは服の流行等とは関係のない世界の住人であり、ペローは昔話の価値を下げてしまっていると嘆いている。(『昔話の魔力』)
しかし、こうした昔話の文法は、グリム兄弟の昔話に基づき、そこから作り上げた規則であり、その規則に合わないからと言ってペローの物語を非難するのは、お門違いだと言わざるをえない。
ペローを読む面白さは、昔話ではありながら、そこに独特の生々しさを感じられるところなのだ。(ポール・アザール『本・子ども・大人』)
生きた人間の感情表現
ペローの登場人物たちは、紙芝居の人形のように平面的な昔話の主人公たちとは違い、人間的で生き生きとした感情を持っている。

「眠れる森の美女」の後半に出てくる料理長は、人食い鬼の女王から子どもを料理するように命じられるが、可哀想に思い、子山羊の柔らかい肉を出して、子どもたちの命を救う。
しかし、美女の殺害を命じられたときには、眠った100年をさしひいても20歳を超えた女性の肌と同じほど固い肉を見つけ出すことができず、命令を実行しようとする。
料理長は、自分の命が助かりたいあまり、お妃様ののどを切る決心をしました。もう二度としたくないと決心して、お妃様の部屋に上って行きました。
子どもたちに対する料理長の優しさ、そして、嫌々ながらも、自分を救うためには王妃を殺害するしかないという追いつめられた感情、そうした複雑な人間の気持ちが、この文の中で的確に表現されている。

青ひげの妻は好奇心に負ける女性の典型として描かれているが、妻の友だちたちもやはり物見高い。いつもは青ひげを怖がって家に近づこうともしないが、青ひげが家をあけるとすぐにやってくる。
近所の女たちや仲良しの友だちたちは、迎えがくるのも待ちきれず、新婚の妻のところに押し掛けました。それほどみんなは、この家の宝物を見たくて仕方がなかったのですが、夫がいるあいだは青いひげが怖くて、やってくる勇気がなかったのでした。
集まるとすぐに部屋をめぐり始めました。(中略)女たちは、青ひげの妻の幸せをはやしたてたり、うらやましがったりしました。
こうした女性たちの姿のリアリティに劣らないのが、主人公である青ひげの妻の姿である。
彼女は、禁じられた部屋を見たくてたまらない。友人たちが喜んでみている豪華な家具はいつも見ていて、つまらない。彼女の心は禁止された部屋のことで満たされている。
彼女は下の階の小部屋を開けに行きたくて、うずうずしていました。
妻はとうとう好奇心にかられて、お客様たちをほったらかしにするのは失礼だとも考えず、狭い隠し階段をおりていきました。あまり急いだので、二度、三度、あやうく首の骨をおりそうになるほどでした。
こうした描写から、どれほど彼女が部屋を見たかったか、手に取るように感じることができる。

ペローのサンドリヨン(シンデレラ)は従順に仕えるばかりではない。
姉たちが舞踏会に行き、そこから戻ってきた時、宮廷で出会ったお姫様にオレンジやレモンをいただいたと自慢する。そのお姫様とは、こっそりと城に行ったサンドリヨンに他ならない。
そんな時、サンドリヨンは何食わぬ顔をして、それほど美しいお姫様に自分も会ってみたいと言い、わざとドレスを貸して欲しいと頼む。もちろん、姉たちはそんな頼みを受け付けようとはしない。
サンドリヨンは、こうして断られることを、ちゃんと予想していたのでした。断られて、かえってうれしかったくらいです。もしお姉さんたちが喜んで服を貸そうなどといったら、ずいぶんと面倒なことになっていたでしょう。
こんなサンドリヨンの人間的な側面を描いているのは、ペローだけだろう。

ペローはこうした人間の心模様を実に巧みに物語の中にちりばめているが、そうした中でも、生き生きとした人間像が最も端的に描かれるのは、親指小僧の母親だろう。彼女は実に人間らしい。
食べる物がなく子どもを捨てようと決心した夫に向かって最初に言う言葉は、夫を非難する言葉である。「おまえさんは、自分の子どもを自分の手で捨てるつもり。そんなことができるの!」
そして、ペローは続ける。「なるほど、貧乏は貧乏です。でも、おかみさんは子どもたちの母親なのです。」
しかし、子どもたちが飢え死にする姿を見るのもつらく、最後には子捨てに同意して、泣きながら寝にいくことになる。
子どもたちを森の中に捨てた後、たまたま食べ物が手に入り、夫婦はお腹一杯ごはんを食べることができる。すると子どもたちのことが思い出される。
やれやれ、うちのかわいそうな子どもたちはどこにいるんだろう。ここに残っている肉をやれば、さぞかしおいしく食べるだろに。でもねえ、ギヨーム、子どもをやっかいばらいしようって言い出したのは、あんたなんだよ。わたしはきっと後悔するって言ったじゃないか。今ごろあの子たちは森の中でどうしているだろう。もしかするともう狼に食べられているかもしれない。子どもたちを捨てようだなんて、おまえさんは、ほんとうに人でなしだよ!
子どもを捨てた母親のこの言葉は、昔話の世界ではなく、現実の世界で言われる言葉そのものだといえる。
他方、こんな言葉で非難された夫も面白いわけがない。
きこりはとうとうがまんできなくなりました。なにしろ、きっと後悔すると言ったじゃないかと、何度も何度も言われたのですから。そこで、だまらないとぶんなぐるぞと、おかみさんをどやしつけました。きこりもおかみさんにおとらず悲しんでいたというよりも、おかみさんの言葉にうんざりしていたからでした。きこりも世間の男たちと同じように、正しいことを言う女は好きですが、いつもいつも正しいことばかり言う女はわずらわしいと思う方だったのです。
こんな夫婦の姿は、ペローの時代だけではなく、現代の日本にもありそうに思われる。それほど、きこり夫婦の会話には血が通っている。
昔話だと思って読んでいるのに、時々、血が通った人間に出会い、不思議な感じがする。そうしたところに、ペロー童話の一番の面白さがある。