
ベルナルダン・ド・サン・ピエール(1737-1814)は青年時代を旅に費やし、軍人として、マルティニーク、マルタ島、ロシア、フィンランド、モーリシャス列島、など、様々な地域を訪れた。
1771年にフランスに戻ってからは、ジャン・ジャック・ルソーと親交を結び、自然や政治に関するルソーの思想を吸収。
1773年の『フランス島(モーリシャス列島)紀行』を始めとして、『自然の研究(Études de la nature)』(1784-1788)や、その第4巻に含まれる『ポールとヴィルジニー(Paul et Virginie)』(1788)等を出版し、作家としての評価を得た。
フランス革命の後、国立植物園の館長になり、アカデミー・フランセーズの一員として迎えられたりもする。しかし、彼の『自然の研究』は、科学的で客観的な自然の研究ではなく、自然の中で全ては調和が取れているという前提の下、自然と人間の感覚的感情的な交感や、神の存在などを問題にしている。
ここでは『自然の研究』第12巻に収められた「自然の精神的法則について」という章の一節を読み、自然が表現するメランコリー(憂鬱な気分)についての考察を見ていこう。
Je ne sais à quelle loi physique les philosophes peuvent rapporter les sensations de la mélancolie. Pour moi, je trouve que ce sont les affections de l’âme les plus voluptueuses. « La mélancolie est friande », dit Montaigne. Cela vient, ce me semble, de ce qu’elle satisfait à la fois les deux puissances dont nous sommes formés, le corps et l’âme, le sentiment de notre misère et celui de notre excellence.
哲学者たちが、メランコリーがもたらす様々な感覚を、どのような物理法則と関係付けるのか、私は知らない。それらの感覚は魂の最も官能的な感情だと思えたりもする。「メランコリーは食欲旺盛だ。」とモンテーニュは言った。そのことは、メランコリーが、私たちを構成する二つの部分、つまり、肉体と魂、私たちの悲惨を感じる感情と私たちの優越を感じる感情を、同時に満足させることに由来するのだと思われる。

モンテーニュの引用が『エセー』からのものなのか、ベルナルダン・ド・サン・ピエールの記憶違いなのかはっきりしないが、とにかくここでは、メランコリーを「物理法則」と関係させるのではなく、「官能的な魂の感情」と関係させていることがわかる。
その際、人間は、目に見え手で触れることができる物質的な肉体の次元と、物理法則では捉えることができない魂の次元に分離される。
その二元論の中で、人間の悲惨は肉体と、優越は魂と関係づけられる。
そして、モンテーニュの引用を支えとして、メランコリーはその二つの次元の両方に関係するのだと、ベルナルダン・ド・サン・ピエールは主張する。
その主張は、自然の様々な表情が、人間の感情表現と対応することの前提となる。
そのことは、自然を歌うことで心の有様を表現する日本の和歌の伝統からすると、当たり前のことのように思われるかもしれない。
しかし、ヨーロッパにおいて、自然に対するそうした感受性は、18世紀後半、とりわけルソーの著作を通して感じられるようになってきたもので、決して当たり前のものではなかった。
Ainsi, par exemple, dans le mauvais temps, le sentiment de ma misère humaine se tranquillise, en ce que je vois qu’il pleut, et que je suis à l’abri ; qu’il vente, et que je suis dans mon lit bien chaudement. Je jouis alors d’un bonheur négatif. Il s’y joint ensuite quelques-uns de ces attributs de la Divinité, dont les perceptions font tant de plaisir à notre âme, comme de l’infini en étendue, par le murmure lointain des vents. Ce sentiment peut s’accroître par la réflexion des lois de la nature, en me rappelant que cette pluie qui vient, je suppose de l’ouest, a été élevée du sein de l’Océan, et peut-être des côtes d’Amérique ; qu’elle vient balayer nos grandes villes, remplir les réservoirs de nos fontaines, rendre nos fleuves navigables ; et tandis que les nuées qui la versent, s’avancent vers l’orient pour porter la fécondité jusqu’aux végétations de la Tartarie, les graines et les dépouilles qu’elle emporte dans nos fleuves, vont vers l’occident se jeter à la mer, et donner de la nourriture aux poissons de l’Océan atlantique. Ces voyages de mon intelligence donnent à mon âme une extension convenable à sa nature, et me paraissent d’autant plus doux que mon corps, qui, de son côté aime le repos, est plus tranquille et plus à l’abri.
そのように、例えば、天気が悪い中、私の人間的な悲惨を感じる感情が静まる時があるとすれば、雨が降っていて、私は濡れない場所にいるとわかっている時、あるいは、風が吹いていて、ベッドの中でヌクヌクとしていれれるとわかっている時などだ。そんな時には、私はネガティブな幸福を享受している。そこに、「神」の属性のいくつかが加えられ、それを感知することで、私の魂は大きな喜びを感じることおある。例えば、遠くから吹く風のつぶやきによって、空間の無限の広がりを感知する時だ。/ こうした感情は自然の法則について考えを巡らせるとより大きくなる。例えば、西からやってくるように思われる風は、大海原の真ん中か、アメリカの海岸で巻き起こったものかもしれない。それが降らせる雨は、大きな町を掃き清め、貯水池の水を満たし、大河に舟が通ることを可能にする。その一方で、雨を降らせる雲は東に向かって進み、タルタリア(東欧からアジアに及ぶ広大な地域)の植物を豊かに実らせる。雨が大河を通して運ぶ種や籾殻は西に進んで海に流れ込み、大西洋の魚たちに餌をもたらす。/ 私の知性が考えつくこうした数々の旅が、私の魂にその性質に応じた広がりを与え、私には大変に穏やかなものに感じられれば感じられるほど、休息を愛する私の肉体は、より平穏で、より安全な状態に置かれる。
ここでは、「メランコリー」が「私の人間的な悲惨を感じる感情(le sentiment de ma misère humaine)」と言い換えられ、その感情が自然現象とどのように関係するのかが、具体的な例に則りながら、3つの段階を通して説明される。
(1)ネガティブな幸福と魂の喜び

A.
外で雨が降り、風が吹いている中で、自分は家の中にいて濡れることがなく、ベッドで暖かくしていられる時、幸せを感じる。
そうした幸福を、ベルナルダン・ド・サン・ピエールは「ネガティブな幸福」と呼ぶ。
B.
遠くから吹く風の音を聞き、その風が広大な空間を感じさせる。そこに人間的な次元を超えた神の存在を感知し、魂の喜びを感じる。
この場合には、自然現象が神秘的な印象を与え、人間の内面に「ネガティブな幸福」を超えた、より深い喜びを生み出す。
(2)思考による感情の強化
ベルナルダン・ド・サン・ピエールは、自然現象について考察することで、それがもたらす感情がより大きなものになると言う。
例えば、西から吹く風は、アメリカの海岸で起こったものかもしれず、その風がもたらす雨は多くの都市の上に降り、大河を満たしてきたかもしれない。
フランスからさらに東に進み、東ヨーロッパからオリエントでは植物を豊かに実らせる。一方、西に向かう大河に降る雨は、大西洋に流れ込み、魚たちに栄養分をもたらす。
こうしたことを考えると、自然現象のもたらす感情がより強くなると言うのである。
この部分は、自然の中で自分を無にし、しっとりと感傷に浸る日本的な感性とは大きくかけ離れ、知性や理性の働きを重視するヨーロッパ的な思考に基づいているといえる。
(3)魂と肉体の対応
「私の知性が考えつくこうした数々の旅(Ces voyages de mon intelligence)」とは、直前で展開された自然現象に関する知識に基づく考察を指す。
その旅は、魂に広がりを与える。その広がりが魂の性質に応じているとしたら、遠くから吹く風によって喚起される人間を超えた次元=神の次元を暗示していると考えてもいいだろう。
だからこそ、広がりを与えられた魂は、穏やかなものになる。
そして、それに対応して、肉体も雨や風から逃れ、平穏な状態に置かれる。
このようにして、「私の人間的な悲惨を感じる感情」は、最終的には、安らかな感情へと変化する。
以上が原則であるが、次の一節では、メランコリーに身を委ねる時、「すべきでないこと」と「すべきこと」が示される。
Si je suis triste, et que je ne veuille pas étendre mon âme si loin, je goûte encore du plaisir à me laisser aller à la mélancolie que m’inspire le mauvais temps. Il me semble alors que la nature se conforme à ma situation, comme une tendre amie. Elle est, d’ailleurs, toujours si intéressante, sous quelque aspect qu’elle se montre, que quand il pleut, il me semble voir une belle femme qui pleure. Elle me paraît d’autant plus belle , qu’elle me semble plus affligée. Pour éprouver ces sentiments j’ose dire voluptueux, il ne faut pas avoir des projets de promenade, de visite, de chasse ou de voyage, qui nous mettent, alors, de fort mauvaise humeur, parce que nous sommes contrariés. Il faut encore moins croiser nos deux puissances, ou les heurter l’une contre l’autre, c’est-à-dire, porter le sentiment de l’infini sur notre misère, en pensant que cette pluie n’aura point de fin ; et celui de notre misère sur les phénomènes de la nature, en nous plaignant que toutes les saisons sont dérangées, qu’il n’y a plus d’ordre dans les éléments, et nous abandonner à tous les mauvais raisonnements où se livre un homme mouillé. Il faut, pour jouir du mauvais temps, que notre âme voyage, et que notre corps se repose.
悲しくて、魂をそれほど遠くまで広げたいとは思わないにしても、私はまだ、悪天候が私にもたらすメランコリーに身を委ねる喜びを味わっている。そうした時には、自然は、私の今いる状況と適合し、優しい女友だちのように思われる。その上、自然はどんな様相で現れようと、いつでもとても共感でき、雨が降ると、美しい女性が泣いているのを目にしているように、私には思われる。彼女が辛い思いをしているように見えれば見えるほど、美しく見える。/ 官能的とさえいえるこうした感情を感じるためには、散歩するとか、誰かを訪ねるとか、旅行するといったことを計画してはいけない。そんなことを考えると、私たちは不機嫌になる。なぜなら、それをするのを妨げられているのだから。もっとしてはいけないのは、二つの力(肉体と魂)を交差させたり、お互いにぶつけあったりすること。つまり、私たちの悲惨(肉体)の上に無限の感情(魂)を重ね、雨は終わることがないと考えること。あるいは、私たちは悲惨だと感じる感情を自然現象の上に重ね、全ての季節が混乱しているとか、四大元素の間に秩序がないとか不平を言うこと。そして、雨に濡れた人間が没頭するような悪い推論に身を委ねること。/ 悪天候を楽しむためには、魂は旅し、肉体は休息しなければならない。
「雨が降っている時の憂鬱な気分を楽しむ」という感覚は、日本では誰もがすぐにピンとくるに違いない。しかし、ヨーロッパ的な感性にとっては、ベルナルダン・ド・サン・ピエールがここで細々と述べているような思考の転換が必要だった。そうした違いを確認することは、大変に興味深い。

前の一節では、メランコリーを穏やかにする原則が示されたが、今度は、より内的なレベルで、雨がもたらす憂鬱な気分と親しむ際の心構えが示される。
そのために、まず最初に、雨を一人の女性の涙と重ね合わせる。
すると、激しい雨は女性の激しい悲しみの表現ということになり、「私」はその悲しみに共感することで、雨がますます愛しいものになる。
そこに、官能性を感じることさえあるかもしれない。
そうした中で、「自然はどんな様相で現れようと、いつでもとても共感でき(Elle(la nature) est, d’ailleurs, toujours si intéressante, sous quelque aspect qu’elle se montre)」という言葉を何気なく忍ばせ、自然現象と人間の間にある「共感( intéressant)」に言及する。
こうした感情は、18世紀半ば以降、例えば物質論者であるデゥニ・ディドロの廃墟に関する考察や、とりわけジャン・ジャック・ルソーの自然論に見られるものであり、ベルナルダン・ド・サン・ピエールが彼らの思考を受け取り、19世紀のロマン主義への橋渡しをしたと考えることができる。
雨を女性の涙と重ね合わせた後で、メランコリーに身を委ねる楽しみを味わうために、「してはいけないこと」が列挙される。
まず、肉体の活動。
外出しようとしたら、雨は妨げになり、人は不機嫌になる。従って、散歩したり、人を訪ねたり、旅行したりといった、肉体の移動をしようとしてはいけない。
次に、肉体と魂を対比して考えること。
魂は広がりを感じ、無限を感じ取る。その感覚を現実に持ち込むと、雨という物理的な現象が永遠に終わらないのはないかと考えることになってしまう。
逆に、現実に雨が降り、悲惨な状況にあることを、魂の次元に適用してしまうと、季節が混乱しているとか、世界を構成する四大元素の秩序が乱れているとか考えてしまう。
「すべきこと」に関しては、非常に短く、格言のような表現で示される。
魂には旅をさせ、肉体は休息させる。

ベルナルダン・ド・サン・ピエールの思考は、肉体と魂の二元論の上に立ち、二つの次元が対応することを述べているのだが、その対応は順接ではなく、逆説的なものになっている。
肉体の次元では、人間は悲惨な感情を抱く。それに対して、魂の次元では、広い空間の彼方に潜む神の存在を感じる。
従って、肉体は活動せず、人間の悲惨をメランコリーとして感じるままにする。その一方で、魂は数々の旅をすることで、大きな喜びを感じる。そして、その喜びが、肉体の安逸につながる。
ここで展開されているメランコリー受容論は、決して論理的とは言えず、どちらかといえば、感情的なものだと指摘されることが多い。
確かに、肉体の次元での悲惨や、魂の次元での神の知覚、肉体と魂の対応など、最初から結論が出され、論証されているとはいえない。

しかし、そうした難点を超えて、ベルナルダン・ド・サン・ピエールの思考をたどることで、18世紀の後半においてメランコリーが肯定的な価値を持ち得たこと、そして、その価値付けを通して、自然という物理現象が人間の感情と共感関係に置かれる過程を見て取ることができる。
その意味で、啓蒙の時代からロマン主義の時代へと向かう時代精神の変遷を垣間見ていることになる。
何となく”悩みすぎ”の様な気もするが…
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あうんの呼吸での相互理解を好む日本的な感性だと、くどくどと説明しすぎているように感じられるかもしれません。
他方、フランス的な感性からすると、論理性が足りず、感情的という解釈もされているようです。
そうした違いから、ヴェルレーヌの「巷で雨が降るごとく」が、フランス人以上に、日本人に親しみやすいということが言われるのかもしれません。
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