サン・ジェルマンの散策は3章でも続き、今度は秘密結社であるフリーメーソンに関係する集会の様子が描かれ、そこで歌う男性歌手の様子から、1810年にナポレオンの遠征に参加したネルヴァルの父親の思い出が思い出され、シレジアの地で亡くなった母親のことにも言及される。
さらに、若い時代に感じた恋愛感情が思い出され、「彼女たちへの愛が、私を詩人にした。」といった作家としての自己を語る試みがなされていく。

3.「歌声結社」
管理人が最も愛情を込めて見せてくれたのは、一列に並んだ小さな部屋だった。「独房」と呼ばれ、監獄で働く何人かの軍人が寝泊まりしている。本物の寝室で、風景を描いたフレスコ画で飾られている。ベッドは馬の毛で作られ、ゴム紐でとめられている。全てが清潔で可愛く、船室のような感じ。ただし、日光が欠けていて、パリで私に提示された部屋と同じだった。——— 日光を必要とする「状態なら」、そこに住むことはできないだろう。私は守衛長にこう言った。「私なら、もう少し飾り付けが少なくていいので、窓に近い部屋の方が好きですね。」——— 「夜明け前に起きる時には、それはどうでもいいことです。」と彼は答えた。確かにその考察は正解だと思う。

衛兵室を再び通りかかった時、少佐には、御丁寧にありがとうございました、と言うだけにした。守衛長は「心付け」を受け取ろうとしなかった。イギリス人に募金を提案するという考えが、私の頭の中を去来し、町に住む人たちにそれがどのように受け止められるのか試してみる、という考えに満足していた。そこで、アンリ4世館に夕食に行った。そこからは、フランスで最も美しい眺めを楽しむことができる。その中にある東屋の前には、40キロにもなるパノラマが広がっているのだ。募金について、3人のイギリス人男性と一人のイギリス人女性に話してみると、みんなとても喜び、その計画はイギリスの国家意識にぴったりだと見なした。——— サン・ジェルマンには特別なことがある。みんな知り合いで、公共の建物の中でも大きな声で話をし、紹介されなくても、イギリス人の女性と話すことができる。そうでなかったら、退屈してしまうだろう! 住民の構成も特別で、社会状況に応じて分けられているけれど、完全にその土地に根付いている。サン・ジェルマンの人はめったにパリに来ない。10年に一度さえその旅をしない人もいる。外国人の家族も同様で、家族同士で親しく交流して生活している。その親しさは、水の町に存在するもの。人がサン・ジェルマンに求めるのは、水ではなく、純粋な空気だ。魅力的な精神病院がいくつかある。そこに住むのは、とても健康だけれど、都会での気の狂ったような喧噪や動きに疲れた人々。駐屯地にいるのは、以前は護衛部隊だったが、今は機甲連隊。美しい若い娘や寡婦たちがいるのも、それと無関係ではないだろう。ロージュやヴァル城に行く道で、馬やロバに乗っている彼女たちの姿を見掛けることがある。——— 夕方になると、パリ通りやパン通りのブティックが灯りを灯し始める。最初は扉の近くでペチャクチャ話し、ケラケラ笑い、歌を歌うこともある。——— 声の調子がパリとははっきりと違っている。若い娘達は、山岳地帯のように、ピュアーで、とてもよく響く声をしている。教会の道を通りかかった時、カフェの奥の方で歌う声が聞こえてきた。そこに沢山の人たちが入って行くのが見えたが、特に女性が多かった。店の中にずんずん入って行くと、大きな部屋になった。色々な旗や花飾りで一面が飾り付けられ、秘密結社フリーメーソンを示す飾りと、よく使われるモットーが張り出されていた。——— 私は以前、「喜びの人々」と「シラクサの牧人」という歌声結社に属していたことがある。そのために、問題なくそこに入ることができた。

豪華な受付場所が三色旗で飾られた天蓋の下に設置されていて、会長が私に親愛の情を示す挨拶をした。「訪問者」にはそうすることになっているのだ。——— 「シラクサの牧人」では、たいだいは「ポーランド人に! 女性たちに!」という乾杯の音頭で会が始まったことは、これからもずっと覚えていると思う。ただし、今では、ポーランド人に関しては、少し忘れられている。—— ここの会では、非常に美しい歌を聞いたし、とりわけ魂を奪うような女性の声を聞いた。国立音楽院のせいで、純粋で自然なイントネーションの輝きや、ナイチンゲールやツグミの鳴き声を真似たトリルの輝きが、濁ってはいなかった。ソルフェージュの練習によって、新鮮でメロディー豊かな喉が、歪められてもいなかった。ここの女性たちは、どうやってこれほど的確に歌うことができるのだろう? それなのに、プロの音楽家ときたら、彼女たち一人一人に、「あなたは歌い方を知らない!」と言うに違いない。
若い娘達が即興で歌う歌ほど楽しいものはない。多くの場合、恋人の裏切りや男性の気まぐれを歌う。時には、その地方独特の皮肉が込められていて、異国の訪問者には理解できないこともある。しばしば、ダフネとクロエや、ミルティルとシルヴィのように、男女が応答することもある。私はその考えに強く惹かれていたので、青春時代の思い出と関係しているように感じ、ひどく心を動かされ、感動していた。・・・ ある年齢、女性で言えば「難しい年齢」というものがあり、思い出が生き生きと蘇ってくる。忘れていた幾つかの映像が、皺のよった人生の横糸の下で再び姿を現す! 恋愛のことを思わないほど歳を取ってはいないが、人の気に入ろうと常に考えるほど若くもない。——— 正直、この言い回しはちょっと「革命中の総裁政府時代」風だと思う。そう書いたのは、年老いたかつての二枚目が、壁からギターを取り外し、ガラの歌った古い恋の歌を見事に歌うのを聞いたからだ。
愛の喜びは一瞬しか続かない。・・・Plaisir d’amour ne dure qu’un instant…
愛の悲しみは一生続く! Chagrin d’amour dure toute la vie !
彼の髪は信じられないほどカールしていて、白いネクタイをし、ダイヤモンドの付いたピンをワイシャツの飾りに付け、フリーメーソンの印である組紐型の指輪をしていた。手は、可愛らしい少女のように、白くて繊細。もしも私が女性だったら、彼の歳にもかかわらず、恋していただろう。彼の声は、心に直接届くものだった。
その立派な男は、私に父親のことを思い出させた。父がポーランドから帰国した時にはまだ若く、イタリアの歌をとてもいい感じで歌ったものだった。彼は妻を失っていた。そのため、彼女が愛した恋の歌の歌詞をギターの伴奏を付けて歌っては、涙するのをどうしようもなかった。私はその歌詞をずっと覚えていた。
ああ、お母さん、治して、 Mamma mia, medicate
私のこの傷を、お願いだから! Questa piaga, per pietà !
メリチェルトが矢を射ったから. Melicerto fu l’arciero
私の心は平和を失ったの。・・・. Perchè pace in cor non ho…
残念なことに、今の時代、ギターは、ハープと同じように、ピアノに負けてしまった。この歌は、別の時代の色恋だし、優美さだ。サン・ジェルマンに行かないといけない。そこでなら、今でも平和な小さな社会の中で、昔の結社も持っていた魅力、今では消えてしまった魅力を、もう一度見つけることができる。
外に出ると美しい月の光。私は1827年に生きているように思った。その頃、少しの間、サン・ジェルマンに住んでいた。そこの小さな祭りに参加していた少女たちの中で、私は、強い眼差しや、規則正しく、こう言ってよければ古典的な顔立ち、そして、その地方特有のイントネーションに気づいていた。それらのおかげで、私は従姉妹やその時期に友だちだった女の子たちを夢心地で思い出し、別の世界で最初の頃の恋愛を再発見したような感じがした。月の光の下で、眠っている通りや散歩道を歩き回った。城の堂々とした姿に感嘆し、ほとんど葉が落ちた木々の香りを嗅ぎに、森の端まで行った。この時刻の方が、教会の建物をよりよく味わうことができる。教会にはジャック2世の妃が眠り、ローマの神殿のように見える。(原注:今では内部はビザンチン様式で修復され、数年前から、素晴らしいフレスコ画が発見され始めている。)
夜中の12時頃、一つのホテルのドアをノックした。数年前、よく泊まったホテルだ。誰も起きてこない。牛の群が静かに通りかかった。牛引きの誰一人、その夜をどうやって過ごしたらいいか教えてくれなかった。市場のある広場に戻り、番兵がいたので、比較的遅い時間に一人のパリジャンを泊めてくれるホテルはないか尋ねてみた。「詰め所に行けば、教えてくれるでしょう。」と彼は答えた。
詰め所で何人かの若い軍人に尋ねると、彼らはこう言った。「とても難しいですね。ここではみんな10時には寝ます。とにかく、ちょっとここで暖まってください。」薪が暖炉に投げ込まれ、私はアフリカやアジアのことを話し始めた。それがひどく彼らの興味をひいたので、話を聞くために、眠っている人たちまで起こすほどだった。私はアラビア語やギリシア語の歌を歌ったりもした。歌声結社のおかげで、そんな気分だったのだ。2時頃、一人の軍人が私に言った。「テントで寝たことがありますよね。・・・もしよければ、その野戦ベッドで寝て下さい。」弾薬を入れる袋を使い、横長の枕を作ってくれた。私は自分のマントで身を包み、眠りにつこうとした。その時、守衛長が戻ってきて、「どこでこいつを拾ってきたんだ?」と言った。——— 「とっても話上手の人ですよ。」と射撃兵の一人。「アフリカにいたこともあるんです。」——— 「アフリカにいたなら話は別だ。」と守衛長。「時には、知らない人間をここに泊めることもあるが、もちろん不用心だ。・・・何かを取っていく可能性もあるからな!」——— 「でも、いつでもマットレスというわけじゃないでしょ!」と私は呟いた。——— 「気にすることはありません。」と軍人の一人が言う。「彼はそういう性格の人なんです。「親切なお叱り」を受け入れたばかりなので・・・、ぶつぶつ言うんです。」
私は朝までぐっすり眠った。そして、立派な兵隊たちや、すっかり穏やかになった守衛長にもお礼を言い、マレイユの丘の方に向かい、朝日が昇る素晴らしい光景を見に行くことにした。
すでに次のように書いておいた。——— 若い時代のことが甦ってくる。——— 愛した場所の面影が、私の中で、過ぎ去った事物に対する感情を思い出させる。サン・ジェルマン、サンリス、ダマルタンは、パリから遠くなく、私の最も愛しい思い出に関係する三つの町だ。すでに亡くなった年老いた親戚の記憶が、何人かの若い娘への思いと、メランコリックに結びついている。彼女たちへの愛が、私を詩人にした。彼女たちに顧みられなかったために、私は皮肉屋で夢見がちな人間になった。ラブレターや友情に満ちた手紙を書きながら、文体を学んだ。今でも残っている手紙を読み返すと、ディドロ、ルソー、セナンクールなど、その時代に読んでいた本の痕跡がはっきりと刻まれているのがわかる。今言ったことが、以下の文章が書かれた時の感情を説明することになるだろう。私は、秋の最後の日々のサン・ジェルマンを、かつてと同じように再び愛し始めていた。ホテル「守護天使」に泊まり、散歩の合間に、思い出をあれこれ書き綴った。それを「思い出の記」と名付ける勇気はない。むしろ、ジャン・ジャックの孤独な散歩のプランに従って構想されたもの、と言っていいかもしれない。そして、私が育ち、彼が死んだ地方で終わることになるだろう。

歌手のピエール・ジャン・ガラが「愛の喜び」を歌う場面を、サシャ・ギトリの映画「ナポレオン」の中で見ることが出来る。