ジェラール・ド・ネルヴァル 「散歩と思い出」 散文のポエジー Gérard de Nerval Promenades et Souvenirs 2/8

「 モンマルトル」の章では、1850年からパリの再開発が始まり、パリ近郊のモンマルトルにも開発の波が押し寄せる様子がリアルに綴られていた。
その中で、ネルヴァルの視線は、一般的には貧しく不潔な地区とされたモンマルトルに美を見出し、画家たちが憧れたローマ近郊の風景と比較することで、後に来る印象派絵画に先立つものだったといえる。

続く「サン・ジェルマンの城」の章では、1837年に開通したパリとサン・ジェルマンを結ぶ鉄道を利用して、サン・ジェルマンで住まいを探すという口実の下、サン・ジェルマン城を巡る描写や歴史、個人的な思い出などを書き綴っていく。

最初の部分で、アニエール、シャトゥなどと地名が列挙されるが、そのリズムは列車の通過する速度を感じさせる。

ネルヴァルのジョークも披露される。
ビールの中のゴキブリのエピソードに込められたユーモアは、現代の私たちにもすぐに理解できる。
サン・ラザール通りの番地を130番というのは、通りが108番地までしかなかったことを知ると、とても面白い。パリから30分も郊外にある町に、パリの通りの番地を付けるというジョーク。

パリ近郊鉄道図(1859年)

2.サン・ジェルマンの城

 私はパリで、自分が関係する地区を歩き回ったが、支払が不可能なものしか見つからなかった。門番たちの口にする各種の条件のせいで、家賃が高騰していたのだ。300フラン以下の住まいをたまたま見つけた時には、日光が必要な状態かと訊かれた。——— 私は、健康状態のために必要だ、と答えたように思う。——— 門番が言うには、部屋の窓はあまり明るくない廊下に面しているということだった。それ以上知りたいと思わなかったので、「貸し地下室」を下見するのはやめにした。ロンドンで同じように書かれた張り紙を見た事を思い出したのだ。「貸し地下室」の後ろには、「紳士専用」という言葉が続いていた。

 私はこう思った。「どうしてヴェルサイユかサン・ジェルマンに行って住まないのか?」郊外はパリよりもさらに高い。しかし、電車の定期を使って何度か行けば、その二つの町の中の、ひどく荒れ果てているか、うち捨てられた方でなら、たぶん住む所をいくつかは見つけることができだろう。実際、朝と晩に30分電車に乗ることなんて何でもない。町の便利さはあるし、しかもほぼ田園地帯でもある。サン・ラザール通り130番地(注:実際には108番地にまでしかない。)に住むということだ。電車に乗っている間は気持ちがいいし、退屈さとか疲れからすると、乗合馬車の行程ほどではない。——— 私はその考えがとても気に入り、サン・ジェルマンを選択した。私にとって思い出の町なのだ。なんと魅力的な旅なんだろう! アニエール、シャトゥ、ナンテール、ル・ピック。セーヌ河が3度クネクネと曲がる。緑の島、草原、森、小屋やヴィラが見える。右側には、コロンブ、アルジャントゥーユ、カリエールの丘。左側は、ヴァレリアン山、ブジヴァル、リュシエンヌ、マルリー。その向こうに見えてくるのは、世界で最も美しい眺め。

アンリ4世の城のテラスと古びた回廊。その上には、フランソワ1世の城の厳めしい姿。私はずっとこの奇妙な城を見るのが好きだった。ゴシック字体のDの形をしていて、美しいディアーヌ(・ド・ポワチエ)に捧げられたのだと言われている。——— 一つ残念なのは、斑岩で覆われた大きな屋根も、螺旋階段が設置され、透かしの入った小さな鐘塔も、ヴァロワ王朝の建築物を特徴付ける角張った屋根から飛び出している、彫刻の施された高窓も、見ることが出来ないことだ。ルイ18世の時代、石工たちが、花壇に面した正面の形を変えてしまったのだ。その後も、建物は監獄に変えられ、張り紙で覆われた小さな壁の囲いによって古い掘や橋が醜くされた。高窓も、黄金のバルコニーも、ヴァロワ王朝やスチュアート王朝の金髪の美女たち、メディチ家の優美な騎士たち、メアリー・スチュアートとジャック王に忠誠を誓ったスコットランドの家臣たちが次々に姿を現したテラスも、決して修復されることはなかった。残っているものといったら、大窓、塔、建物正面の高貴な輪郭、夕日や夜の銀色の影に照らし出されるレンガとスレートの奇妙なコントラスト、城砦の半ば優美で半ば勇ましい様子だけだ。盛り上がった土地の上に立てられた豪華な宮殿のあったその城砦は、川が蛇行して流る木々の生い茂る谷と、広大な森の端に姿を現す花壇の間に位置している。

 私は、祖先の城に戻ったラヴェンウッド(ウォルター・スコット『ラマムアの花嫁』の主人公)のような気持ちで、サン・ジェルマンに戻ってきた。城の住人の中には私の祖先もいた。——— すでに20年前のことだ。他の住人には、町の人々もいた。全て合わせると、4つの墓。・・・それらの思い出に、さらに、ブルボン王朝時代に遡る愛や祭りの思い出が入り交じった。——— その結果、私は一晩のうちに、幸せだったり、悲しかったりした。

 どうでもいい出来事が、こうした青春時代の夢の詩情から私を引き離した。夜になり、通りや広場を歩き回り、昔好きだった建物に挨拶し、マレーユやシャンブルシの「池」を最後に見た後、市場の広場にあるカフェに腰を下ろした。ビールのジョッキが持ってこられた。その底にゴキブリが3匹。——— 中近東に旅行したことのある人間なら、そんな小さなことではジタバタしない。「ボーイさん!(と私は言った。)私がゴキブリ好きという可能性はある。でも、別の機会に、私が注文するときにしてくれ。その場合でも、ゴキブリはビールとは別に出してくれる方がいい。」 その言葉は新しいものではなかった。オムレツの上に髪の毛が入っていた時、もう使っていた。——— しかし、サン・ジェルマンでは、二度目でも喜ばれることができた。常連たちは、肉屋とか牛引きたちだったが、その言い方を気持ちのいいものだと思った。

 ボーイは、動揺することなく返事をした。「お客さん、そんなことに驚くべきことじゃありません。今、城では修復工事の最中なんです。で、虫たちも町の家々に避難してるんです。虫はビールが大好物で、そこを自分の墓にするんです。」「ボーイさん、(と私。) ボーイさんはとっても美男子だし、話も面白い。・・・ でも、本当に、城の修復をしているのかい。」「お客さんも今それを納得したでしょ。」——— 「確かに、ボーイさんの理屈には納得する。でも、工事自体は確かなのかい。」——— 「新聞もそう書いていましたよ。」

 長い間フランスを留守にしていたので、この証言に反論することができなかった。翌日、私は城に行き、修復工事がどこまで進んでいるか見ることにした。守衛長は、その階級の軍人に特有のニヤニヤ笑いを浮かべながら、私に言った。「城の基礎を固めるだけで、900万フラン必要でしょう。900万、持って来たのですか?」私はどんなことにも驚かない習慣がついている。「900万フランは持っていません。(と私。)でも、見つけられるかもしれません!」——— 「へえー!(と彼。)その額を持ってくれば、城を見せます。」

 私はちょっとイラッとした。そのため、二日後にもう1度サン・ジェルマンに戻ってきた。一つの考えを見つけたからだった。私が思ったのは、募金をしたらどうだろ、ということ。フランスは貧しい。しかし、来年はシャンゼリゼの万博があり、多くのイギリス人がやって来る。彼らの国の数世代の女王や王たちをかくまった城を破壊から救うとしたら、彼らが私たちを助けないことはありえないだろう。ジェームズ2世の家族は、みんなここにやって来たことがあった。——— この町には今でもまだかなりのイギリス人がいる。私は子どもの頃、ジャック王の歌を歌い、メアリー・スチュアートに涙し、デュ・ベレーやロンサールの詩句を朗読した。・・・ チャールズ王の一族が町の通りを一杯にしているとしたら、数多くの消滅してしまった一族の愛情の生きた証拠だ。・・・ 絶対に! と私は思うのだが、イギリス人たちは二重の意味で国家的な募金を拒否することはないだろう。私たちフランス人がモナコ硬貨で貢献するとしたら、イギリス人はクラウン銀貨やギニー金貨をたくさん見つけるだろう。

 その組み合わせに意を強くして、私は市場のカフェの常連たちにどう思うか聞いてみた。彼らはその考えを熱狂的に受け入れてくれた。私が「ゴキブリなし」のビールを注文すると、ボーイが、「おお! 旦那さん、今日はなしです!」と言った。

 私は、堂々とした態度で城に行った。守衛長は私を守衛室に連れて行ってくれた。そこで自説を展開し、賛同を得ることができた。少佐に連絡がつき、普通の見物客には閉ざされている、礼拝堂とスチュアート家の部屋を見る許可が、私に与えられた。スチュアート家の部屋は悲惨な状態。回廊や古いホール、メディチ家の寝室に関しては、数世紀前からそれとは分からなくなってしまっている。仕切りが付けられ、石積み工事が行われ、仮天井が張られ、城が軍事施設用にされてしまっていた。

 その一方で、何と中庭の綺麗なことか! これらの彫刻を施された側面、これらのアーチ、これらの騎士道風の回廊、全体の不規則な様相、正面の赤い色、それら全てが、ウォルター・スコットやバイロンに、スコットランドやアイルランドの城を夢見させる。ヴェルサイユのためにはすでに多くのことがなされた。フォンテーヌブローのためにも多くのことがなされた。・・・ としたら、どうして私たちの歴史の貴重な欠片(サン・ジェルマンの城)を再建しないことがあろうか? ディアーヌ(・ド・ポワチエ)を讃えるために作られた建物に嫉妬したカトリーヌ・ド・メディシスの呪いが、ブルボン王朝の下でも続いていた。ルイ14世は、サン・ドニの尖塔を見るのを恐れていた。大王の後継者たちは、サン・クルーやヴェルサイユのためには全てのことをしてきた。今日、サン・ジェルマンは一つの約束の結果を待っている。たぶん戦争(注:クリミア戦争)がその実現を妨げたのだった。

 

 

 

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