ネルヴァル シルヴィ 言葉の音楽性を体感する

ジェラール・ド・ネルヴァルは、1853年に「シルヴィ」を執筆している時、友人に宛てた手紙の中で、「ぼくは真珠しすぎる(je perle trop)」と書いている。

「真珠しすぎる」?
どういう意味だろう。

お菓子に関して言えば、真珠の形をしたアーモンド菓子を作ること。裁縫では、刺繍などを完璧に仕上げること。音楽では、テンポや一連の装飾音を完璧にするという意味になる。

ネルヴァルはその動詞を文体にも適用し、「シルヴィ」を書きながら、文章を凝りすぎていると感じていたのだろう。そのために、なかなか終わらなくて焦っていたふしもある。
実際、普段のネルヴァルの文章と比較して、「シルヴィ」には非常に美しく、ポエジーを感じさせる文が多くある。

私たちが外国語を学ぶとき、意味の理解に精一杯で、文の美しさを感じることができるとはなかなか思えない。理解するために思わず日本語に変換してしまうことも多く、原語の持つ音楽性を感じることができずにいる。
しかし、それではあまりにももったいない。
せっかく原語で読むのであれば、言葉たちが奏でる音楽に耳を傾け、少しでもいいので「美」を感じられたら、どんなに幸せなことだろう。

小説を形作る言葉の音楽性が何よりも重要だと、村上春樹が小澤征爾との対談で述べている。(村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』)

僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなのは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。何から学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、いちばん何が大事かっていうと、リズムですよね。文章にリズムがないと、そんなものは誰も読まないんです。

新しい書き手が出てきて、この人は残るか、あるいは遠からず消えていくかというのは、その人の書く文章にリズム感があるかどうかで、だいたい見分けられます。でも多くの文芸批評家は、僕の見るところ、そういう部分にあまり目をやりません。文章の精緻(せいち)さとか、言葉の新しさとか、物語の方向とか、テーマの質とか、手法の面白さなんかを主に取り上げます。でもリズムがない文章を書く人には、文章家としての資質はあまりないと思う。もちろん、僕はそう思う、ということですが。

日本語の小説を読む時でも、私たちは内容の理解に努め、文章のリズムはあまり気にしないことが多い。しかし、実際には、文を読む際には言葉の連なりを辿っているので、必ずリズムを感じていて、それが好き嫌いの判断につながっている。ただ、そのリズム、音楽性があまりにも当たり前でありすぎるために、意識されないでいる。

小澤征爾も、文章のリズムについてあまり考えたことがなかったらしく、「僕らがその文章を読むときに、読んで感じるリズムということですか?」と尋ねている。

その質問に対して、村上はこう答える。

言葉の組み合わせ、センテンスの組み合わせ、パラグラフの組み合わせ、硬軟・軽重の組み合わせ、均衡と不均衡の組み合わせ、句読点の組み合わせ、トーンの組み合わせによってリズムが出てきます。ポリリズムと言ってもいいかもしれない。音楽と同じです。(中略)

ネルヴァルが「ぼくは真珠しすぎる。」と書いた時、村上の言う、文章のリズムに工夫を重ねていた、と言うこともできるだろう。

ここでは、「シルヴィ」を構成する文章の中でも、最も美しいと感じられる文章の一箇所(3章の冒頭)を取り上げ、リズム、音色、意味を通して、文章の美を探ってみたい。


パリの劇場に足繁く通う「私」は、舞台に姿を現す一人の女優に恋をする。その後、その愛の源泉が、幼い頃に出会ったアドリエンヌという娘への愛にあるのではないかと思い当たる。その幼い頃の場面は、今では夢の中の出来事にように感じられている。

Tout m’était expliqué par ce souvenir à demi rêvé. Cet amour vague et sans espoir, conçu pour une femme de théâtre, qui tous les soirs me prenait à l’heure du spectacle, pour ne me quitter qu’à l’heure du sommeil, avait son germe dans le souvenir d’Adrienne, fleur de la nuit éclose à la pâle clarté de la lune, fantôme rose et blond glissant sur l’herbe verte à demi baignée de blanches vapeurs. — La ressemblance d’une figure oubliée depuis des années se dessinait désormais avec une netteté singulière ; c’était un crayon estompé par le temps qui se faisait peinture, comme ces vieux croquis de maîtres admirés dans un musée, dont on retrouve ailleurs l’original éblouissant.
Aimer une religieuse sous la forme d’une actrice !… et si c’était la même ! — Il y a de quoi devenir fou ! c’est un entraînement fatal où l’inconnu vous attire comme le feu follet fuyant sur les joncs d’une eau morte… Reprenons pied sur le réel.

言葉の順番に意味を理解しようとすると、だいたい次のようになる。

全てのことが私にとって解明されたのは、半ば夢見られたその思い出によってだった。この恋は、ぼんやりとし、希望もなく、一人の劇場の女性に対して向けられたものだった。彼女は毎夜、劇の時間になると私を捕らえ、私から離れるのは眠りにつく時。そんな恋の萌芽がアドリエンヌの思い出の中にあった。アドリエンヌは、月の青白い光の下で咲く夜の花。白い靄で半ば湿った緑の葉の上を滑るバラ色で金髪の亡霊。——— 何年も前から忘れていた姿との類似が、今や、奇妙なほど明瞭に描き出されていた。その姿は、時と共にぼやけてしまった鉛筆書きのデッサンが、絵画になったかのようだった。ちょうど、美術館に置かれた巨匠の古い素描があり、別の場所で、その輝かしい原作を見つけるかのような感じがする。
修道女を女優の姿の下で愛すること!・・・ もし彼女たちが同一の女性だとしたら!——— そこには人を狂人にするものがある! そこにあるのは運命的な連鎖で、未知なるものが人を引きずっていく。鬼火が、澱んだ水に浮かぶイグサの上を逃れ去っていくかのように。・・・現実に足をつけよう。

フランス語のリズムを感じるために、まず文章の長さを見て見よう。
第1段落の最初の文、Tout … à demi révé.は比較的短い。
それに対して、Cet amourで始まる文は、de blanches vapeursまで続き、非常に長い。
3つめの文は、la ressemblance…une nette singulière、4つ目は、c’était… l’original éblouissant。同様の内容を言い換えているために、リズム感が似ている。

第2段落の出だしは、短い音節数の感嘆文が続き、非常にテンポがいい。
次の文も感嘆文で始まり、前の文のテンポが継続する。しかし、次に、関係代名詞以下の部分が後ろに伸びる文が続き、しかも「・・・」でその長さがさらに曖昧に伸ばされる印象を与え、リズム感ががらっと変わる。
それに対して、最後の文は、非常に短く、端切れがいい。


1.

Tout m’était expliqué (6) // par ce souvenir (5) / à demi rêvé (5)

前半分は6音節で、後ろは5音節の塊が二つ。全体的に非常にバランスが取れている。
意味的にも、「全てが私に説明され(Tout m’était expliqué)」、それが「その思い出によって(par ce souvenir)」であると、明瞭に言われる。

その後、「思い出」に、「夢見られた(rêvé)」という説明が加えられるが、「夢見られた」には、「半ば(à demi)」という副詞が付けられ、おぼろげな雰囲気が醸し出される。

さらに、音色的にも、巧みな工夫がなされている。
tout – souvenir : [ u ]
expliqué – rêvé : [ é ]
souvenir – rêvé : [ v ]
expliqué – souvenir – demi : [ i ]
これらの音が反復し、それぞれの言葉のつながりが強調される。とりわけ、« i »は3つの塊の全てで反響し、文全体をまとめている。


2.

Cet amour vague et sans espoir, conçu pour une femme de théâtre, qui tous les soirs me prenait à l’heure du spectacle, pour ne me quitter qu’à l’heure du sommeil, avait son germe dans le souvenir d’Adrienne, fleur de la nuit éclose à la pâle clarté de la lune, fantôme rose et blond glissant sur l’herbe verte à demi baignée de blanches vapeurs.

この恋(Cet amour)は、4つの説明がつけられているが、それぞれの長さはひどく違っている。
最初は形容詞一つ、次は前置詞+名詞のみ、3つ目は、動詞の過去分詞とそれに関係する前置詞句、最期は、関係代名詞 qui 以下、複雑で長い文が続く。

Cet amour :
vague (1)
sans espoir (3)
conçu (2) pour une femme de théâtre (8)
qui (1) tous les soirs (3) me prenait (3) à l’heure du spectacle (6), // pour ne me quitter (5) qu’à l’heure du sommeil (6)

この4つの要素を見比べると、長さの違いは一目瞭然であり、徐々に複雑なリズムになっていることがよくわかる。

その後、主語のCet amourに対して、動詞、目的語にあたる部分が来る。

Cet amour (…) avait son germe (4) dans le souvenir d’Adrienne (7),

「その愛(cet amour)」は、「芽(germe)」を「持っていた(avait)」。SVO。
その場所は、「思い出の中(dans le souvenir)」で説明される。

souvenirという言葉は、すでに前の文でも出てきていて、その反復によって、意味的にも音的にも、強調される。

そのsouvenirに、「アドリアンの(d’Adrienne)」という説明が付加され、アドリエンヌにスポットライトが当たる。

Adrienne,
fleur de la nuit (4) éclose (2) à la pâle clarté de la lune (9) ,
fantôme (3) rose et blond (3) glissant sur l’herbe verte (6) à demi baignée de blanches vapeurs. (10)

アドリエンヌは、「夜の花(fleur de la nuit)」でもあり、「亡霊(fantôme)」でもある。

夜の花が「開く(éclose)」のは、「月の青白い光に照らされて(à la pâle clarté de la lune)」。
この説明も後ろに長い音節が続くのだが、「亡霊」の説明はさらに長く続いていく。

亡霊は、まず、「バラ色とブロンド(rose et blond)」と色がつけられる。
それが「滑っていく(glissant)」のは、「緑の草の上(sur l’herbe verte)」。
その緑の草には、10音節という長い音節で説明がなされ、白色(blanches)によって4色目が付け足される。
その上で、「靄(vapeurs)」というぼんやりとしたイメージが加わり、アドリエンヌは、美しいけれど、おぼろげな存在であることが、示される。

そのおぼろげな様子は、« à demi »という表現が再び用いられることで、よりはっきりしたものになる。
最初の文の« souvenir à demi rêvé »と« à demi baignée de blanches vapeurs »が連動して、アドリエンヌを現実の存在というよりも、白い霧で覆われた夢の存在へと変形していく。
このように、« à demi »と3音節の言葉を反復しながら、次に続く言葉は、一方では« rêvé »と2音節、もう一方では、« baignée de blanches vapeurs »と7音節に変化させることで、ヴァリエーションを作り出している。
村上春樹の言うポリリズムの一つの例と言える。

Cet amour…vapeursの文は、SVOは単純でありながら、それぞれの部分につけられた説明が長く、最初は分かり難いと感じるかもしれない。
しかし、構文がクリアーになり、意味を考えながら、意味の塊毎に言葉の列を辿って行くと、徐々に文全体のリズムを掴むことが出来るようになる。
すると、意味と音楽の共同作業を通して、あたかも韻文の詩句を読んでいるかのようなポエジーが感じられるようになってくる。


3.

La ressemblance d’une figure (9) oubliée depuis des années (8) se dessinait désormais (7) avec une netteté singulière (10) ;

「一つの姿が類似していること(La ressemblance d’une figure)」。
その姿は「何年か前から忘れられていたこと(oubliée depuis des années )」。
それが「その時から再び描き出されたこと(se dessinait désormais)」。
その描き出され方が、「奇妙なほどに明確だったこと(avec une netteté singulière)」。

これらの要素がほぼ同じ長さ(7-10音節)でテンポよく続けられているのだが、9-8-7とわずかづつ減少しながら、最後に10と一気に増加することで、とりわけ最後の要素、「奇妙なほど(singulière)」が強調される。
そのことによって、アドリエンヌの姿が記憶の底から浮かび上がってくる様子が、より強く印象付けられることになるといえる。

忘れていたものが再び浮かび上がってくる過程は、パリンプセスト(palimpseste)を思わせる。
紙が使われる以前、文字は羊皮紙に書かれていた。その際、羊皮紙が非常に高価であったため、しばしばすでに書かれたいた文字を薬品で消し、その上に別の内容を上書きした。そのような写本が、パリンプセストと呼ばれている。

19世紀になると、薬品を使い、消された文字を復元することもあった。それは、一度は消え去ったものが、再び甦ることでもあり、過去の再生が可能であることの実例となった。

ネルヴァルは、この文を « ; »で一旦区切り、以下の文で、絵画の例を使い、同様の現象を説明する。


4.

c’était un crayon ( 5) estompé par le temps (6) qui se faisait peinture (6), / comme ces vieux croquis de maîtres (8) admirés dans un musée (7), dont on retrouve ailleurs (6) l’original éblouissant (7).

この文は、commeを挟んで、前半部分と後半部分に分けられる。

前半は、5-6-6音節。ほぼ同じ音節数の塊が、テンポよく続く。
ちなみに、« crayon »は、ここでは、鉛筆で描かれたデッサン、素描といった意味。
それが、時間が経つに従い、ぼんやりと薄れてしまっていた(estompé)。
その素描が、アドリエンヌの姿を思い出すことで、色彩豊かな絵画(peinture)になった。つまり、前の文で「奇妙なほど明確に描き出された」と説明している内容を、ここでは、「絵画になった(se faisait peinture)」と言い直しているということになる。

後半は、8-7-6-7の音節数。前半部分に劣らず、テンポがいい。
内容的には、« comme »があることからも明らかなように、鉛筆で描かれた素描と類似したものを提示している。
つまり、素描は、「絵画の巨匠たちの古いクロッキー(vieux croquis de maîtres)」のようなものだと言う。

そうした下書きでも、美術館に展示されていれば、私たちは賞賛する。(admirés dans un musée)
そして、「別の場所で(ailleurs)」で、それらの「原画(original)」を見ることがある。その原画は、「眩しいほどに輝いて(éblouissant)」いる。

そのオリジナルが、「半ば夢見られたような思い出」の中に姿を現したアドリエンヌの姿であり、毎夜劇場の舞台の上に姿を現す女優は、「鉛筆で描かれた素描(un crayon)」あるいは「クロッキー(croquis)」ということになる。


5.

Aimer une religieuse (8) sous la forme d’une actrice (7)  !… et si c’était la même (6) ! —

« aimer »の目的語は « une religieuse »だが、女優の前にも不定冠詞が置かれ、« une actrice »が愛の対象ともなることが、« une »という音の共通性によって暗示される。
言い換えると、同じ音色(« une »)によって、« religieuse » と« actrice »が並列に置おかれることになる。

二つの感嘆文の繋がりは、[m]の音の響きによって示され、« aimer – forme »が« même»と響き合う。
その共鳴が、« religieuse » と« actrice »の同一性(la même)を音色によって暗示する。


6.

Il y a de quoi devenir fou (9) ! c’est un entraînement fatal (8) où l’inconnu vous attire (8) comme le feu follet (5) fuyant sur les joncs d’une eau morte (8)…

« de quoi »は、「・・・するのに必要なもの、十分なもの」という意味。
9音節の« Il y a de quoi devenir fou ! »は、前に置かれた6音節の感嘆文から3音節増え、「二人がもし同じ女性だったとしたら!」という仮定の帰結(気が狂ってしまう)を強調する。

次に、物事の「繋がり(entraînement)」という言葉が使われ、その言葉に引きずられるようにして、文章そのものも、後ろに長く伸びていく。
「引きずる(attire)」、「逃げ去る(fuyant)」という言葉の意味が、8-8-5-8という音節の塊の連鎖によって体現される。

その中で、「未知なるものが人を引きずっていく(l’inconnu vous attire)」様子は、「鬼火(feu follet )」と比較されるのだが、その不思議な火が「澱んだ水に浮かぶイグサの上を逃れ去っていく(fuyant sur les joncs d’une eau morte)」という8音節の言葉の連鎖は、「不吉な繋がり(entraînement fatale)」がいつまで続くのだろうかという不安を呼び起こす効果を持っている。
意味だけではなく、文のリズムが読者を引きずり、そして、最後に付された「・・・」が、さらにその印象を強いものにする。

そうした連想に終止符を打たなければ、いつまでも思い出に浸っていることになってしまう。
だからこそ、簡潔が一文が付け加えられ、夢想が断ち切られることになる。


7.

Reprenons pied sur le réel. (7)

現実に戻らなければならないと宣言するこの一文は非常に簡潔で、いつ終わるともしれない夢想を、きっぱりとした口調で断ち切るのに相応しい。

この7音節の文と、直前にある29音節(8-8-5-8)の文のコントラストは、村上春樹の言う「ポリリズム」の実例であり、ネルヴァルの文章のリズムの巧みさを、フランス語を母語としない読者にもはっきりと感じさせてくれる。


意味を考えると同時に、音楽性を感じる読み方をすると、フランス語が外国語でありながら、ネルヴァルの文章の美を感じられるようになってくる。

そのことが文学の楽しみの大きな部分を形成していることは、次の二人の作家の文章を読んでみるとよくわかるだろう。

 ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。

 あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。

流れるような文という点では共通しているが、しかし文の手触りはまったく違う。
上は芥川龍之介、下は太宰治。
このように、私たちは文の音楽性で、作家の違いを聞き分けることがある。

フランス語を読む時にも、こうした音楽性を感じ取ることができる。
「シルヴィ」はネルヴァルが、「真珠しすぎる」と思わず口にしたほど工夫した文章がちりばめられている。
その文章の音楽に耳を傾け、リズムを体感し、意味をたどることができるようになるとしたら、フランス語を学んだ成果として最も上質な体験といえるだろう。




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