ジャズ・ピアニスト大西順子と、小澤征爾が指揮するサイトウ・キネン・オーケストラのライブがyoutubeにアップされている。まずは、2013年9月6日に松本で行われた、その演奏に耳を傾けてみよう。
ジャズとクラシックの融合したこの演奏が好きか嫌いかは別にして、ここで何が起こっているのか理解するためには、少なくとも私程度のリスナーだと、誰かに解説してもらう必要がある。
実は、この演奏を知ったのも村上春樹の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』の最後に収録された雑誌記事なので、村上に教えてもらうことにしよう。
大西順子のジャズ・ピアノについて、村上春樹はこのように説明している。
僕が大西順子の音楽について素晴らしいと思うところはいくつもある。しかしいちばん強く惹かれるのは、その独自のリズム感覚かもしれない。独自というか、この人のリズムはひとことで言ってしまえば、むしろ「特殊」なのだ。どこがどう特殊なのか、論理的に説明するのはむずかしい。しかし何人かのジャズ・ピアニストの系譜を示せば、デューク・エリントン、アール・ハインズ、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス(彼は時にピアニストでもある)、アーマッド・ジャーマル(たぶん)、ランディー・ウェストン、そしてシダー・ウォルトン。彼らに共通して言えるのは——— もちろん僕の感じるところによればということだが——— 表層的なリズムの内側に、もう一つのリズム感覚が入れ子のように埋め込まれているところだ。その複合性、あるいはコンビネーションが、聴くものの身体にずぶずぶと食い込んでくる。僕は大西さんの演奏を聴いていて、いつもそのずぶずぶ感を肌身に感じることになる。僕の身体が、日常的には感じることのできない特別なリズムを貪欲に吸い込んでいることに気づく。そしてそれは、そう、他のジャズ・ピアニストからはまず得ることができない、生き生きとして不思議な感覚なのだ。
大西さんは演奏しながら自由自在にリズムを変えていく。しかし彼女の内側にある、あるいはその根底を流れる強靱なリズム感覚は、ぴくりとも揺らがない。それはいかなる変更をもはねのけて、普通のものとしていつもそこにある。聴くものの健康を損ねかねないくらいしっかりと。
小澤征爾の仕事は、こうした大西順子のリズム感覚とクラシック音楽のオーケストラのリズム感覚を合わせることで、その作業は困難を極めたという。
今回の『ラプソディ・イン・ブルー』はガーシュウィンのオリジナルの譜面に、大西順子がトリオとソロでインプロヴィゼーションを繰り広げる部分が付け加えられている。つまり、「ガーシュウィン部分」と「大西部分」が接ぎ木のようにくっつけられているわけだ。それらをどのように繋ぎ合わせるか、ある程度プランはできているが、大西さんは演奏するたびに自由にその内容を変えていく。とくにピアノ・ソロの部分になると、自分でもどこにいくかわからんというところがある。基本がジャズの人だから、自由であることが何より大事な要素になる。そしてそのフリー・インプロヴィゼーションの部分が終わったところで、指揮者は譜面通りのオーケストラをすっと導入しなければならない。(中略)もともと異質のものを繋ぐわけだから、もちろん簡単にはいかないのだが、とりわけ大西さんの音楽の流れは主張が強いものだから、交通整理をする小澤さんの苦労は並大抵ではない。それはナックルボール投手の球を受けるキャッチャーの苦労に少し似ているかもしれない。
オーケストラとピアニストのリズム感覚の違いは歴然としている。ジャズのリズムはもともとがビハインド気味になるし、クラシック・オーケストラのリズムはもちろんオンタイムだ。だからただでさえ融合しにくいのに、大西さんのリズムはそれに、例の強靱な「入れ子」複合リズムが加わる。その特殊な「グルーブ」にオーケストラの呼吸を継ぎ目なく合わせるのは、まさに至難の業だ。
その「至難の業」を成し遂げたのが、2013年9月6日に行われたサイトウ・キネン・フェスティバル松本Gigでの演奏だった。では、出来はどうだったのだろう?
本番のコンサートでの『ラプソディ』の演奏はまことに見事だった。僕はクラシックのコンサートにやってくる聴衆のうち、どれくらいの人が大西順子の音楽を理解できるか予想もつかなかったし、そのことでそれなりに心配もしていた。彼女の音楽にはだいたいいつも、あらゆる種類のジャズの要素がみっちりと引用されている。(デューク・)エリントンから、スライド・ピアノから、(アート・)テイタムから、ブルーズから、(セロニアス・)モンクから、(アール・)ハインズから、(エロル・)ガーナーから、(バド・)パウエルから、(マッコイ・)タイナーまで。実によくジャズの歴史を勉強し、深い所でその素養を身につけている人なのだ。そういういろんな要素が、彼女のソロの中に、それこそ万華鏡のようにちりばめられている。あるときはシリアスに、あるときはユーモアを込めて。『ラプソディ』の場合もそうだった。というか、いつも以上にそうだった。ジャズをそれほど聴き込んでいない人に、彼女の意図が果たしてうまく理解できるのだろうか?
でも、幸いなことに、そのような僕の心配はまったくの杞憂に終わった。満場の観客の大半は、大西順子が力強く紡ぎ出す音楽をほぼ完全に理解し、受け入れていた。僕はそのような周囲の空気をひしひしと感じ取ることができた。それは実に至福の時間だった。オーケストラはピアノを理解し、聴衆はオーケストラとソリストが共同で成し遂げていることを理解していた。そしてこのような共感関係をその場に出現させたのは、言うまでもなく小澤征爾という、並外れた存在だった。
村上春樹の解説を読んだ後で、もう一度松本での演奏を聴くと、大西順子のピアノがいかに変化に富み、その根本に彼女独自のリズム感覚があることを感じることができる。
しかも、オンタイムを基本とするオーケストラのリズムと決して断絶しているのではなく、しっかりと接ぎ木されているのは、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラの素晴らしさだということにも納得がいく。
何かを理解するためには、比較対象があった方がわかりやすいので、クラシック・ピアニスト辻井伸行と田中祐子指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏でも聴いてみよう。
もう一つは、小澤征爾がベルリン・フィルハーモニーを指揮し、ジャズ・ピアニスト、マーカス・ロバーツのトリオと共演した演奏。
村上春樹は、音楽と文章の関係について、小澤征爾にこんな風に話しかけている。
僕は十代の頃からずっと音楽を聴いてきたんですが、最近になって、昔より音楽が少しはよくわかるようになったかな・・・と感じることがあるんです。細かいところを聴き分けられるようになってきた、というか。というのはたぶん、小説を書いていると、だんだん自然に耳がよくなってくるんじゃないかな。逆の言い方をすると、音楽的な耳を持っていないと、文章ってうまく書けないんです。だから音楽を聴くことで文章がよくなり、文章をよくしていくことで、音楽がうまく聴けるようになってくるということはあると思うんです。両方向から相互的に。
よく聴くことが、よく理解することにつながり、よりよく理解することで、よりよく聴けるようになる。
それはまた絵画にもつながり、よく見、よりよく見ることができるようになる。
五感を通して、あるいは直感や知性まで含めて、「両方向から相互的」な好循環の中に身を置けたら、幸せな生を送ることができるだろう。