スタンダール 『赤と黒』 Stendhal Le Rouge et le Noir こうして恋心は生まれる

『赤と黒』には「1830年の年代記」という副題が付けられ、非常に明確な時代背景が描き込まれている。

ナポレオンの時代であれば、平民の出身でも、軍隊での功績次第で出世できる可能性があったかもしれない。しかし、1815年にナポレオンが完全に失脚し、ブルボン王朝が復活した後、平民が社会階層を駆け上がるためには聖職に就くしかなくなる。
題名にある「赤」は軍人を示し、「黒」は僧侶を示している。

貧しい製材屋の息子ジュリアン・ソレルは、田舎町ヴェリエールの町長レナール家の家庭教師となり、最初は「上流階級の女性をものにする」という野心を満たすために夫人を誘惑する。
しかし、その関係が発覚し、ジュリアンはレナール家を追われる。

その後、僧侶になるためにブザンソンの神学校に通い、校長であるピラール神父の保護を受けるようになる。そして、神父が神学校内部の争いのために職を追われ、ラ・モール伯爵の力添えでパリで聖職に就くようになると、ジュリアンも彼に従いパリに出、ラ・モール侯爵の秘書として働くようになる。

ラ・モール伯爵の家には、19歳になる娘マチルダがいる。彼女は我が儘に育てられ、気位が高い。夢見がちで、情熱的な恋愛に憧れている。そのために、サロンに集う若い貴族たちに満足できず、回りを退屈だと思い始めている。
そんな彼女にとって、最初、平民出身のジュリアンは単なる使用人でしかない。

そうした状況の中で、マチルダの心にほんのわずかな変化が生まれる瞬間がある。
優れた心理分析家であるスタンダールは、「恋愛の結晶化作用」の最初の一歩と言ってもいいマチルドの微妙な感情の動きを、本当に自然に描いている。

Un matin que l’abbé travaillait avec Julien, dans la bibliothèque du marquis, à l’éternel procès de Frilair :
— Monsieur, dit Julien tout à coup, dîner tous les jours avec madame la marquise, est-ce un de mes devoirs, ou est-ce une bonté que l’on a pour moi ?
— C’est un honneur insigne ! reprit l’abbé, scandalisé. Jamais M. N… l’académicien, qui, depuis quinze ans, fait une cour assidue, n’a pu l’obtenir pour son neveu M. Tanbeau.
— C’est pour moi, monsieur, la partie la plus pénible de mon emploi. Je m’ennuyais moins au séminaire. Je vois bâiller quelquefois jusqu’à mademoiselle de La Mole, qui pourtant doit être accoutumée à l’amabilité des amis de la maison. J’ai peur de m’endormir. De grâce, obtenez-moi la permission d’aller dîner à quarante sous dans quelque auberge obscure.

ある朝、神父はジュリアンと一緒に、侯爵の図書室で、フリレールに対する果てしなく続く訴訟の仕事をしていた。
「先生」と突然ジュリアンが言った。「侯爵夫人と毎日食事をするのは、ぼくの義務の一つなのですか? それとも、ぼくに対する好意なのでしょうか?」
「特別な名誉じゃないか!」と神父は、憤慨しながら応えた。「アカデミー会員のN…さんなどは、15年前から足繁く通っているけれど、甥っ子のタンボーさんのためにそんな好意を決して受けることができなかったんだ。」
「先生、ぼくにとって、あれは仕事の中で一番苦痛なことなんです。神学校でもこれほど退屈しませんでした。時には、ラ・モール家のお嬢様まで、あくびしているのを見ることがあります。お嬢様はお宅にやって来るお客たちの愛想のよさには慣れているはずなんですが。ぼくは居眠りしそうで怖いくらいです。お願いです。どこかの安い宿屋で40スーの夕食を食べに行く許可を得ていただけませんか。」

パリに出たピラール神父とジュリアンは、ラ・モール侯爵とフリレール神父との裁判の書類に携わっている。
平民出身の二人が聖職者として出世するためには、貴族の後ろ盾が必要であり、ピラール神父がブザンソンの神学校の校長の職を追われたのも、訴訟でラ・モール伯爵の側に付いたからだった。

ラ・モール伯爵の図書館の場面では、二人が同じ目的を持ちながら、異なった体質の持ち主であることが明白に示されることになる。

ピラール神父は、身分の高い夫人に受け入れられ、夜会に招待されることを、「特別な名誉(un honneur insigne)」だと信じているし、そうしたことが出世に繋がる例を見てきている。

ジュリアンは、それを承知した上で、それでも、社交界の場は神学校よりも退屈だと感じ、できれば招待を受けても参加しないことを望んでいる。

彼にとって、貴族の好意を求めて夕食にやって来る客たちとの会話はひどく退屈で、安い食堂で一人で夕食をした方がずっといい。サロンで過ごす時間は、「仕事の中で一番苦痛なこと(la partie la plus pénible de mon emploi)」なのだ。
だからこそ、同席を認められることが、「義務(devoir)」なのか、それともラ・モール伯爵夫人の「善意(bonté)」からなのかと指導者である神父に問いかけ、できれば参加を免除する「許可(permission)」を得て欲しいと依頼する。

その際、言わなくてもいいことだが、ラ・モール侯爵家の若い令嬢も、「客達の愛想のよさにはなれているはずなのに(qui pourtant doit être accoutumée à l’amabilité des amis de la maison)」、自分と同じように退屈し、時にはあくびをしたりしている姿を見ることもあると付け加える。
この言葉は、ジュリアンがそれとはなしに令嬢マチルドを観察していることを示す役割を果たしている。


L’abbé, véritable parvenu, était fort sensible à l’honneur de dîner avec un grand seigneur. Pendant qu’il s’efforçait de faire comprendre ce sentiment par Julien, un bruit léger leur fit tourner la tête. Julien vit mademoiselle de La Mole qui écoutait. Il rougit. Elle était venue chercher un livre et avait tout entendu, elle prit quelque considération pour Julien. Celui-là n’est pas né à genoux, pensa-t-elle, comme ce vieil abbé. Dieu ! qu’il est laid.

神父は、本当の成り上がり者なので、身分の高い人と食事をする名誉に大層弱かった。その感情をジュリアンに理解させようとしている時、微かな音がして、彼らは振り返った。ジュリアンは、ラ・モール嬢が耳をそばだてているのを見た。彼は赤くなった。彼女は一冊の本を探しに来て、話の全てを聞いたのだった。彼女はジュリアンに対して、なんとなく尊重する気持ちを持った。あの人はひざまずいて生まれたんじゃない、と彼女は考えた。年寄りの神父とは違う。神様! 神父はなんて醜いんでしょう。

スタンダールはここで、ピラール神父とジュリアンの違いをさらに際立たせるために、神父に対して、「本当の成り上がり者(véritable parvenu,)」という言葉を使い、さらに「身分の高い人と食事をする名誉にとても弱かった(fort sensible à l’honneur de dîner avec un grand seigneur)」と付け加える。
貴族との接触は、神父にとって、何にも代えがたい「名誉(honneur)」なのだ。

ジュリアンもそうした名誉を望んでいたし、誰よりも上昇志向が強いことは疑いの余地がない。しかし、実際にそうした場にいると、プライドの高い彼には、それが無邪気に名誉とは感じられず、自由を望む気持ちが抑えきれない。

たまたま本を探しに来たラ・モール嬢が、ジュリアンたちの会話を立ち聞きする。その際、スタンダールは、「彼女は全てを聞いた(elle (…) avait tout entendu)」と記し、平民であるジュリアンが、彼女たち貴族の支配する社交界に不満を抱いていることを知ったことを強調する。

聞かれたことを知ったジュリアンは、赤くなった。
では、ラ・モール嬢マチルドの反応はどうだろう?

もし見下しているのであれば、ジュリアンを生意気だと非難し、家から追い出すように侯爵に迫ったかもしれない。
しかし、ジュリアンの内心を知った彼女は、彼に対して「なんとなく尊重する気持ち(quelque considération)」を持つ。そして、「あの人は跪いて生まれたんじゃない( Celui-là n’est pas né à genoux)」と思う。
ジュリアンが社交界で退屈している様子のマチルドに気づいたように、マチルドの方では、ジュリアンの内面に彼女と同質の反抗心、自由を望む気持ちを見て取ったのだった。

このラ・モール嬢の反応こそが、「恋愛の結晶化作用」の第一歩に他ならない。
今までは身分の違いから軽視していたか、あるいは無関心だった相手が、あることをきっかけに急に関心の対象になり始める。
その関心が種となり、好意が生まれ、恋へと発展していく。

彼女が神父とジュリアンを比較して、神父を醜いと感じるのは、逆に言えば、ジュリアンを美しいと思う内心の表れでもある。


À dîner, Julien n’osait pas regarder mademoiselle de La Mole, mais elle eut la bonté de lui adresser la parole. Ce jour-là, on attendait beaucoup de monde, elle l’engagea à rester. Les jeunes filles de Paris n’aiment guère les gens d’un certain âge, surtout quand ils sont mis sans soin. Julien n’avait pas eu besoin de beaucoup de sagacité pour s’apercevoir que les collègues de M. Le Bourguignon, restés dans le salon, avaient l’honneur d’être l’objet ordinaire des plaisanteries de mademoiselle de La Mole. Ce jour-là, qu’il y eût ou non de l’affectation de sa part, elle fut cruelle pour les ennuyeux.

夕食の時、ジュリアンはラ・モール嬢を見る勇気がなかったが、彼女の方は好意を持って彼に声をかけた。まさにその日は沢山の客があり、彼女はジュリアンに留まるように勧めた。パリの若い女性たちはある年齢になった男たちを好ましく思わない。彼らが洗練されていないと、とくにそうなる。ジュリアンがそれほど明敏でなかったとしても、ル・ブルギニョンさんの同僚たちが、サロンに残っていて、しばしばラ・モール嬢の冗談のネタになっていることに気づいただろう。その日は特に、わざとしたのかどうかはわからないけれど、彼女は退屈な人々に対して残酷だった。

Eugène Lami, Une soirée chez le duc d’Orléans

社会階級において、ラ・モール家の人々とジュリアンの上下関係ははっきりしている。そうした中で、自分の反骨心を知られてしまったジュリアンには、お嬢様を見る勇気がない。彼はまだ自分を抑えなければならない立場にいるのだ。
そのことを示すかのように、スタンダールはこの間、ずっとラモール嬢と言い続け、彼女をマチルドとは呼ばない。

そのラモール嬢はジュリアンに声を掛けることができる。その際、スタンダールは「好意(bonté)」という言葉を使う。
その言葉は、夕食の招待に関して、侯爵夫人からの「好意(bonté)」なのかとジュリアンが尋ねた時にも使われていた。
そのことは、この時点でまだラモール嬢がジュリアンを情熱恋愛の相手と見なしているわけではないことを示している。

しかし、それでも彼女はジュリアンに積極的に働きかける。
夜会に留まるように命じ、そして、いつも以上に招待客たちを「退屈な人間たち(les ennuyeux)」だと思い、「残酷な(cruelle)」態度を取った。

ラ・モール邸の夜会に来る人々として「ル・ブルギニョンさんの同僚たち(collègues de M. Le Bourguignon)」と名指されてるのは、ル・ブルギニョンがラ・モール侯爵夫人に取り入り、県知事の職を手に入れたことを念頭においたもの。パリの上流社会では普段から欺瞞や追従がはびこり、当たり障りのない会話しかせず、常に利益を求めて人々が集っていることを暗示している。
その一方で、利益を与える側では、下の人間達を見下している。

そうした状況を知った上でラモール嬢の行動を読み説くと、招待客たちに残酷なほどひどく接することが、実はジュリアンに対する想いの高まりを示していると推測できる。


スタンダールは、図書室の場面で、恋愛という言葉を使うことなく、マチルドがジュリアンに興味を引かれる最初のきっかけを実に巧みに描いている。
こうした微妙な心理表現を読み取ることで、『赤と黒』の面白さを格段にはっきりと感じ取ることができるだろう。

近代の文学世界において、人間へのアプローチが『性格描写』と『心理分析』を中心に行われたすると、スタンダールは鋭い心理分析をによって、小説の中で人間を描くことに成功した作家だということができる。

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