第3詩節は単純過去の動詞(il voulut)から始まり、オランピオが次の行為を行うことが示される。
そして、その際にも、ユゴーの思想の中で大きな意味を持つ言葉が使われる。
その言葉とは、「全て(tout)」。
ユゴーの世界観の中では、超自然の存在も、人間も、動物や植物、鉱物も含め、「全て」が一つの自然を形成している。
Il voulut tout revoir, // l’étang près de la source,
La masure /où l’aumône // avait vidé leur bourse,
Le vieux frêne plié,
Les retraites d’amour // au fond des bois perdues,
L’arbre / où dans les baisers // leurs âmes confondues
Avaient tout oublié !
(朗読は55秒から)
彼は全てを見たいと望んだ、水源の近くの池、
かつて施しが彼らのサイフを空にした小屋、
折り曲がったトネリコの老木、
森の奥にたたずむ愛の隠れ家、
あの木、そこでかつて、彼らの魂は溶け合い、口づけの中で、
全てを忘れたのだった。
オランピオが見たいと望む「全て」の内容が、次々に挙げられる。
「池(étang)」「小屋(masure)」「トネリコの老木(vieux frêne)」「愛の隠れ家(retraites d’amour)」「あの木(l’arbre)」。
そこで注目したいのは、「小屋」と「あの木」を説明する文の中の動詞の時制。二つとも大過去(avait vité / avait oublié)が使われている。
大過去は、「施しを与えてサイフを空にしてしまった( l’aumône avait vidé leur bourse)」のも、「愛し合う二人が口づけの中に全てを忘れたしまった(dans les baisers leurs âmes confondues / Avaient tout oublié)」のも、オランピオがいる時点ではすでに完了した、過去の出来事であることを示している。
つまり、オランピオが見ることを望むのは、過去に見たものであり、その理由は、ここでは誰とは名指されていないが、ある女性と愛し合ったことを思い出させるから、ということになる。
ユゴーはここでも第1詩節と同じように、「彼」「彼ら」が誰か名付けることはなく、いきなり「彼らのサイフ(leur bourse)」、「彼らの魂(leurs âmes)」とする。
それは、あえて名付ける必要がないほど自明のことという印象を与え、読者を詩の世界に一気に引き込む効果を発揮している。
詩句のレベルで言えば、« tout »が最初の行と最後の行に使われ、「全てを見たい」今と、「全てを忘れた」過去が対照的に浮かび上がる。
その対比を強調するために、最初の行では、« voulut / tout / source »、最後の行では、« tout / oublié »と、[ ou ]の音が反復され、音の上でも1行目と6行目が響き合う。
第4詩節
Il chercha le jardin, // la maison isolée,
La grille / d’où l’œil plonge // en une oblique allée,
Les vergers en talus.
Pâle, / il marchait. — Au bruit // de son pas grave et sombre,
Il voyait à chaque arbre, // hélas ! se dresser l’ombre
Des jours qui ne sont plus !
彼は探した、あの庭を、孤立した家を、
のぞき込むと斜めに伸びる小道の見える柵を、
土手の果樹園を。
青白い顔をして、彼は歩いていた。—— 重々しく暗い自らの足音を耳にすると、
彼には見えてきた、一本一本の木から、ああ! 影が 立ち上がってくる、
もう今はない日々の影が!
「彼は探した(il chercha)」は単純過去、「彼は歩いた(il marchait)」「見えてきた(il voyait)」は半過去。
この違いを日本語で表現することは難しいが、フランス語で読めば、「探した」のは彼の「行為」であり、「歩いていた」「見えてきた」のは、その時の「状況」であることがわかる。
「彼は探した(il chercha)」は、前の詩節の「彼は望んだ(il voulut)」に続く行為。
それに対して、4行目「青白い顔をして、彼は歩いていた(Pâle, il marchait)」からは、探しながら起こったことの状況を描写している。
探したものは、かつて愛し合ったことを思い出させるもの。「庭(jardin)」「孤立した家(maison isolée)」「鉄柵(grille)」「果樹園(verger)」。
鉄柵には、「そこから、目が斜めの小道に沈んでいく( d’où l’œil plonge // en une oblique allée)」という説明が付けられている。要するに、そこから見ると小道があり、向こうの方に斜めに続いているという意味だが、動詞が現在形に置かれている(plonge)ので、ユゴーがこの詩句を書いている「今」が突然現れるような印象を与える。
動詞の現在形は、この詩節の最後でも使われる。
「今はもう存在しない日々(Des jours qui ne sont plus)」。
ここで時制の示す時間帯をまとめておこう。
大過去 :恋人たちの愛の時
単純過去、半過去 :オランピオが一人で過去の思い出をたどる時。
現在 :詩人が詩句を執筆している時。あるいは、普遍的な時。
オランピオが木々の間を歩いていると、自分の足音が聞こえる。その音を契機として、今はもう存在しない日々の「影(ombre)」が見えてくる。その影は実際には目に見えるものではなく、見えるように思えるだけにすぎない。
聴覚が視覚と連動し、見えないものを見えるようにする。そこにあるのは、五感が共感するコレスポンダンス(万物照応)の世界。
ちなみに、「日々(jours)」にも「全て(tout)」がこだましている。
第5ー6詩節。
Il entendait frémir // dans la forêt qu’il aime
Ce doux vent qui, / faisant // tout vibrer en nous-même,
Y réveille l’amour,
Et, / remuant le chêne // ou balançant la rose,
Semble l’âme de tout // qui va sur chaque chose
Se poser tour à tour !
Les feuilles qui gisaient // dans le bois solitaire,
S’efforçant sous ses pas // de s’élever de terre,
Couraient dans le jardin ;
Ainsi, / parfois, / quand l’âme // est triste, nos pensées
S’envolent un moment // sur leurs ailes blessées,
Puis retombent soudain.
彼には、震えるのが聞こえていた、愛する森の中で、
あの穏やかな風が。風は、私たちの中で、全てを振動させ、
愛を目覚めさせ、
樫の木を動かし、薔薇を揺らせ、
全ての魂のよう。魂は、一つ一つのものの上に、
順番に身を置いていく。
木の葉は、孤立した一本の木の中に横たわり、
その根元で、地面から立ち上がろうと努め、
庭の中を走り回っていた。
そんなふうに、時として、魂が悲しんでいる時、私たちの思考は、
一瞬、傷ついた羽根の上に舞い上がり、
すぐに墜落する。
「あの穏やかな風(ce doux vent)」が聞こえ、「木の葉(feuilles)」が庭で風に吹かれて「地面から舞い上がり( s’élever de terre)」、「走りまわっている(couraient)」のが見える。
その自然の光景の描写の中で、風は「震え(frémir)」、葉は木の中に「横たわり(gisaient)」、舞い上がろうと「努め(S’efforçant )」、「走りまわった(couraient)」と、人間の行動を示す動詞が用いられ、自然が生命を持つかのような描き方がされている。
そうした自然の中で、風が「魂(âme)」と同一視される。
人間や植物を区別しない、「全て(tout)」の魂。
その魂は、「樫の木を動かし(remuant le chêne)」、「薔薇を揺する( balançant la rose)」のと同じように、私たちの心の中で、「愛を掻き立てる(réveille l’amour)」。
それはある時間帯に属するのではなく、普遍的な現象であり、動詞は「目覚めさせ(réveille)」と現在形で語られる。
同様に、風が魂のように「思われる(semble)」のも、魂がそれぞれのものの上に身を置きに「行く(va)」のも普遍的な事象であり、動詞は現在形。
さらに、「魂が悲しんでいる(l’âme est triste)」時に、私たちの思考が「舞い上がり(S’envolent)」、すぐに「墜落する(retombent)」のも、普遍的な現象を示す現在時制で語られる。
そうしたことは、ユゴーが過去の情景を描写しながら、彼の思考が自由に活動を始め、描写から思考へと記述の対象が移行したことを示している。
この2つの詩節でも、« tout »が至るところにこだまする。« doux »« nous »« amour »« ou »« tour à tour »« sous »« couraient »« soudain »。
その響きは、ユゴーが詩句のリズムを自由に変化させる技術の持ち主というだけではなく、音色の魔術師であったことも教えてくれる。
第7ー8詩節
Il contempla longtemps // les formes magnifiques
Que la nature prend // dans les champs pacifiques ;
Il rêva jusqu’au soir ;
Tout le jour il erra // le long de la ravine,
Admirant tour à tour // le ciel, face divine,
Le lac, divin miroir !
Hélas ! / se rappelant // ses douces aventures,
Regardant, / sans entrer, // par-dessus les clôtures,
Ainsi qu’un paria,
Il erra tout le jour, // vers l’heure où la nuit tombe,
Il se sentit le coeur // triste comme une tombe,
Alors il s’écria :
彼は長い間じっと見つめた、壮大な姿、
自然がこの平和な野で帯びる姿を。
彼は、夕方まで夢を見た。
一日中彼は彷徨った、小さな谷に沿って、
代わる代わる賞賛した、神聖な顔である空と、
神聖な鏡である湖を!
ああ! 自らの甘いアヴァンチュールを思い出しながらも、
柵の中に入ることはなく、柵の向こうを見つめた、
はぐれ者のように、
彼は一日中彷徨った、夜のとばりが落ちる頃まで、
彼は感じた、墓石のように心が悲しいのを。
そして、叫んだ。
再び、時制が単純過去に代わり、彼の行為が連続して語られる。
「じっと見つめた(contempla)」「夢見た(rêva)」「彷徨った(erra)」「感じた(sentit)」「叫んだ(cria)」。
それと同じ時間帯に属する行為として、現在分詞も使われている。
「賞賛した(admirant)」「思い出した(se rappelant)」「見つめた(regardant)」。
そうした数多くの行為の中でも、とりわけ「彷徨」に力点が置かれる。というのも、全く同じ行為が、二つの詩節で反復されるからである。
「一日中彼は彷徨った(Tout le jour il erra)」。
「彼は一日中彷徨った(Il erra tout le jour)」。
この反復の中でユゴーは、« tout le jour »と« il erra »を逆転してヴァリエーションを加えている。
しかし、それだけではなく、最初は場所の指定(「小さな谷に沿って( le long de la ravine)」)を加え、後者では、時間の指定(「夜のとばりが落ちる頃まで(vers l’heure où la nuit tombe)」)を加える。
そのことは、時空間を一つに結合する役割を果たすと考えられる。
その時空間の存在するのは「自然(nature)」であり、自然はオランピオの目の前で「壮大な姿( formes magnifiques)」を帯びて見える。
その姿は、これまでの詩句によって描かれてきた自然の光景を一言でまとめたものだともいえる。
その自然には神の存在が感じられ、オランピオは、「神の顔である空(le ciel, face divine)」と、空を映し出す「神聖な鏡である湖(Le lac, divin miroir)」を代わる代わる見つめ、その美しさにうっとりとする。
しかし、彼の心は悲しみに満ちている。「心が墓石のよう悲しい(le coeur triste comme une tombe)」と感じる。
その理由は何か?
彼は自然と一体化できず、外から眺めることしかできない。柵の中に「入ることなく(sans entrer)」、「柵の向こうを眺める(Regardant (…) par-dessus les clôtures)」ことしかできない。
その状況は一言で表現される。
彼は、「自然(nature)=全て(tout)」に対して、「はぐれ者(un paria)」のような存在なのだ。
その悲しみを抱えて、彼は内心の思いを吐露する。
以下に続くオランピオの独白は、4行詩が30詩節の長い詩句によって繰り広げられる。(続く)