ヴィクトル・ユゴー オランピオの悲しみ Victor Hugo Tristesse d’Olympio ロマン主義の詩を味わう 3/5

独白は、これまでの状況をオランピオ自身の言葉で語り直すところから始まる。当然、そこでは、「私(je)」が主語になる。

— « O douleur ! / j’ai voulu, // moi dont l’âme est troublée,
Savoir / si l’urne encor // conservait la liqueur,
Et voir ce qu’avait fait //cette heureuse vallée
De tout ce que j’avais // laissé / là de mon coeur !

「ああ、苦しい! 私は望んだ、魂の掻き乱されている私は、
知ることを望んだ、あの瓶がまだ水を保っているかどうか、
見ることを望んだ、あの幸福だった谷間が、
どのようしたのか、私がかつて残した私の心にかかわる全てのものを。

(朗読は2分50秒から)

第9詩節でも、時制が巧みに使い分けられている。
« J’ai voulu » :複合過去:オランピオが思い出している過去。この詩の中で、最も基本となる時間帯。(2)
« l’âme est » :現在:オランピオが詩を綴っている時間帯。(1)
« l’urne (…) conservait » :半過去:j’ai vouluと同じ時間帯。(2)
« avait fait cette heureuse vallée », « j’avais laissé »: 大過去:j’ai vouluの時点ではすでに完了している時間帯。この詩の中で言えば、かつてオランピオが愛する女性とその地を訪れた時間帯。(3)

出来事の順番で整理すると、以下のようになる。

(3)私はそこに心を残してきた。谷はその名残に対して何かをした。(消してしまった?)
(2)私は、過去に彼女と愛し合ったその場に戻り、(3)であったことがどうなったのか知りたかった。
(1)そうしたことを書いている今も、魂は乱されている。あるいは混乱した思いを抱いている。

「あの瓶がまだ水を保っているかどうか( si l’urne encor conservait la liqueur)」という一節が何を意味しているかわかりにくいが、過去に彼女とともにいる時、瓶に水が保たれている状態があり(3)、一人で戻って来た時(2)にも同じ状態にあるかどうか、という問いかけだと理解できる。

伝記的な事実に即して言えば、1835年、ユゴーは愛人のジュリエット・ドゥルエとともにエッソンヌ県のビエーヴルで過ごし、ある時には、「彼らの魂は溶け合い、口づけの中で、全てを忘れたのだった。」(第3詩節)ということもあった。
その年の9月24日には、激しい雨の中、木の下で雨宿りをしながら、ジュリエットは1時間30分も恍惚とした状態にあったことも知られている。
その時、木々の近くになんらかの鉢あるいは瓶があり、雨水が降りかかっていたのかもしれない。

こうした事実を知ることで、詩句は理解しやすいものになるが、しかし、必ずしも現実を知る必要はないし、常に知ることができるわけでもない。
「あの瓶がまだ水を保っているかどうか」という詩句では、「保つ(conserver)」という言葉が意味を持つのであり、どの瓶か、どのような液体かは、詩の理解のために本質的な要素とはいえない。


第10詩節からは、今では全てが変わってしまったという確認が行われる。

« Que peu de temps suffit // pour changer toutes choses !
Nature au front serein, // comme vous oubliez !
Et comme vous brisez // dans vos métamorphoses
Les fils mystérieux / où nos coeurs sont liés !

ほんのわずかな時で十分なのだ、全てのものを変えてしまうには!
穏やかな額の自然よ、あなたは忘れてしまう!
あなたは切断してしまう、次々と姿を変えながら、
神秘的な糸を、私たちの心が繋がれている糸を!

地上において、全てはいつかは変わってしまう。
「時間の経過がもたらす喪失感」のテーマは、ロマン主義に限らず、古代から続く詩のテーマである。

そのテーマが、ここでは、「全てのものを変える(changer toutes choses)」、「忘れる(vous oubliez)」、「姿を変える、変身( vos métamorphoses)」、「糸を壊す、切断する(vous brisez (…) les files)」と言葉を換えて表現されている。

そして、時間の経過に従い、自然の光景が変わるのと同じように、かつては愛し合っていた「私たち」の心が結ばれていた「神秘的な糸(les fils mystérieux)」さえも断ち切られてしまうと続けることで、焦点は二人の愛に絞られる。

以下の詩節では、より具体的に、過去と今の対比が行われ、オランピオは深い悲しみに襲われる。
感嘆符(!)はそうした嘆きの印であり、以下の詩節で感嘆符が連続する。


第11詩節。

« Nos chambres de feuillage // en halliers sont changées !
L’arbre où fut notre chiffre //  est mort ou renversé ;
Nos roses dans l’enclos // ont été ravagées
Par les petits enfants // qui sautent le fossé !

私たちの木の葉の部屋は、茂みに変わっている!
私たちの名前の頭文字を組み合わせた文字だったあの木は、枯れたのか、倒れている。
囲いの中の薔薇は、荒らされてしまった、
溝を跳び越えて来る、小さな子ども達によって!

「私たちの木の葉の部屋(Nos chambres de feuillage)」とは、二人を覆う木の葉に囲まれた空間のこと。それが今では「茂み(halliers)」に変わっている。

« Chiffre »は「私たちの名前の頭文字を組み合わせた文字」という意味で、木に二人の名前のイニシャルを彫り込んだことを意味している。その木も、今では枯れたのか、あるいは倒れている。

薔薇の花は、「掘りを飛び越えてやって来る子どもたち(les petits enfants qui sautent le fossé)」によって、「荒らさせてしまっていた(ont été ravagées)」。
ここで「超える(ils sautent)」が現在形になっているのは、子ども達は今でも掘りを超えてやって来ているからだと考えられる。


第12−14詩節。ここでは最初に幸せだった時代の思い出が語られ、14詩節でそれが終わったことが告げられる。

« Un mur clôt la fontaine // où, / par l’heure échauffée,
Folâtre,/ elle buvait // en descendant des bois ;
Elle prenait de l’eau // dans sa main, / douce fée,
Et laissait retomber // des perles de ses doigts !

« On a pavé la route // âpre et mal aplanie,
Où, / dans le sable pur // se dessinant si bien,
Et de sa petitesse // étalant l’ironie,
Son pied charmant // semblait rire à côté du mien !

« La borne du chemin, // qui vit des jours sans nombre,
Où jadis pour m’attendre //elle aimait à s’asseoir,
S’est usée en heurtant, // lorsque la route est sombre,
Les grands chars gémissants // qui reviennent le soir.

一つの塀があの泉を取り囲んでいる。そこでかつては、暖かい時になると、
陽気な様子で、彼女は喉を潤したものだった、木々から降りて来て。
彼女は、水を手に取ったものだった、優しい妖精だった、
そして、落ちるままにしていた、真珠を、彼女の指から!

道には舗石が敷かれた、ゴツゴツし、でこぼこの道に。
そこでかつては、混ざりけのない砂の中に、素晴らしく描き出され、
その小ささを皮肉に見せびらかす、
彼女の魅力的な足が、笑っているようだった、私の足の傍らで!

道の境界線に標石は、数え切れなほどの日々を生きているが、
かつて、私を待つために、彼女はそこに座るのが好きだった。
その石が今はすり減ってしまった。ぶつかるのだ、道が暗くなり、
夕方戻ってくる、呻き声を上げる大きな馬車に。

第12詩節では、「泉(la fontaine)」に言及され、愛する女性が泉の「妖精(fée)」として描かれる。
その3行目の後半、「彼女の手の中で、優しい妖精だった」の部分は、« dans sa main, / douce fée »と6音節が3/3と分離し、« douce fée »に焦点が当てられている。

その妖精の「指(ses doigts)」からしたたり落ちる水滴は、「真珠(perles)」だった。

この詩節の動詞は全て半過去(elle buvait, elle prenait (…) et laissait tomber)で、全ての詩句が妖精である彼女の描写に当てられていることがわかる。

第13詩節に出てくる「道(la route)」は、泉に続く道。
「ゴツゴツし(âpre)」、「平らではなかった、でこぼこだった(mal aplanie)」ために、他の人々が近づくことはなかったのだろう。
その道が「舗装された(on a pavé)」というのは、誰でも通ることができるようになってしまったことを意味する。
ここで使われている複合過去は、現在においてすでに完了したことで、その結果は現在も続いていることを示す。

まだ人が近づけなかった頃、二人はそこで、幸福な時を過ごしたのだろう。
その幸福は、「彼女の魅力的な足(son pied charmant)」を通して表現される。

その足は、「ピュアーな砂(le sable pur)」の中に、「くっきりと描き出される(se dessinant si bien)」。

次ぎに語られる、« Et de sa petitesse étalant l’ironie »に関しては、どのように理解すればいいのだろう?
« étaler »には、「広げる、見せびらかす、一時停止する」といった意味がある。としたら、「皮肉(ironie)」をどうするのか?
その意味を理解するためには、皮肉と、「その(彼女の足の)小ささ(sa petitesse)」との関係を理解しなくてはならない。つまり、« ironie “de” sa petitesse »が、足の小ささ「の」皮肉なのか、小ささ「による」皮肉なのか?

ここでは、彼女の足の小ささは「私の足(le mien)」の大きさを連想させ、二人の足が隣り合い、微笑んでいる様子から、彼女がわざと冗談ぽく、オランピオの足の大きさをからかっていると考え、「その小ささを皮肉に見せびらかす」と理解した。

第14詩節、舗装された道に置かれた「境界の石(borne)」が、今の状況を象徴する。

かつては彼女がそこに座るのが好きだった。
しかし、夜ごとに「大きな馬車(les grands chars)」に「ぶつかり(heurtant)」、今では「すり減ってしまった(la borne (…) s’est usée)」。この複合過去も、その行為が完了し、その結果が現在に影響していることを示している。

ここで興味深いのは、馬車が石にぶるかるのではなく、石が馬車にぶつかり、すり減ってしまったこと。
« la borne (…) s’est usée en heurtant (…) les grands chars. »
そのことは、無性物にも生命があるとするユゴーの世界観を反映している。


第15−17詩節。ここからは、やや抽象的な思考が展開される。

« La forêt ici manque // et là s’est agrandie.
De tout ce qui fut nous // presque rien n’est vivant ;
Et, / comme un tas de cendre // éteinte et refroidie,
L’amas des souvenirs // se disperse à tout vent !

« N’existons-nous donc plus ? // Avons-nous eu notre heure ?
Rien ne la rendra-t-il // à nos cris superflus ?
L’air joue avec la branche // au moment où je pleure ;
Ma maison me regarde // et ne me connaît plus.

« D’autres vont maintenant // passer où nous passâmes.
Nous y sommes venus, // d’autres vont y venir ;
Et le songe qu’avaient // ébauché / nos deux âmes,
Ils le continueront // sans pouvoir le finir !

森が、ここには欠けている。そして、あちらでは、大きくなっていた。
私たちであった全てのものから、ほとんど何も命あるものはない。
火が消え、冷たくなった灰の山のように、
思い出の塊も、至るところに散乱している。

私たちはもう存在していないのだろうか? 私たちの時は終わってしまったのだろうか?
何も私たちの時を返すことはないのだろうか、私たちの余分な叫びに?
大気は枝と戯れている、私が涙している時に。
私の家は私を見るが、私だとわからない。

今、別の人々が通り過ぎようとしている。私たちが通ったところを。
そこに私たちは行った。他の人たちはこれから行く。
私たちの二つの魂が、かつて描いた夢を、
彼らが続けるだろう、終わることができないままに。

森がここではなくなり、あちらでは以前よりも大きなものになっていたということは、変化が一方的に「喪失(manque)」に向かうだけではなく、「増大(s’est agrandie)」にも向かうことを示している。

ただし、それは愛の強化ではなく、単に変化の事実を示すだけにすぎない。過去の大切な「思い出(souvenirs)」は、変化に伴い、「散乱してしまう(se dispersent)」。その様子は、「消え(éteinte)」、「冷たくなった(refroidie)」、「灰の山(un tas de cendre)」に喩えられる。

この第15詩節でオランピオは、過去の自分たちを、「私たちであったもの(ce qui fut nous)」と表現する。
そこで使われる動詞« fut »は« être »の単純過去。そのことは、今と過去が完全に切り離されていると意識されていることを意味する。(その意味で、語り手の現在という時間帯の中で完了を示す複合過去とは違う。)
そのことが、過去の私たちのほとんど何も、今では「生命を保っていない(vivant)」という確認をより強いものにしている。

第16詩節では、思考が未来に飛び、もう二度と過去の幸福は戻ってこないのではないかという悲しみが表現される。
その最初の2行では、現在(existons-nous)、複合過去(nous avons eu)、単純未来(rien rendra-t-il)と3つの時制が使われ、過去、現在、未来に渡る考察が行われていることが一目で理解できる。

ちなみに、「私たちは私たちの時間を持った(nous avons eu notre heure)」というのは、幸福な時間を持ったが、今ではそれは完了している、つまり終わってしまったことを意味する。

その幸福な時間は、「私たちがこれまで以上に叫んだ(nos cris superflus)」としても、決して戻ることはないろうか?という疑問は、未来を予測し、戻ってこないことを前提としている。

次の2行では、涙する私に対して、自然が無関心であるだけではなく、私の家さえ、もはや私を私だとはわからないと言われ、愛の喪失により、私は世界の中で「異邦人」になってしまう。

第17詩節になると、私たちの運命は決して例外的なものではなく、他の人々も同じようにここにやって来て、愛し合い、そしてまた愛が失われていくという認識が示される。

動詞の時制に注目すると、私たちは常に過去の時間帯に置かれ、他の人々は現在と未来の時間帯に置かれていることがわかる。
私たち:単純過去(nous passâmes)、複合過去(nous sommes venus)、大過去(nous deux âmes avaient ébauché)
他の人々:現在(d’autres vont)、単純未来(ils continueront)。


第18詩節において、こうした考察が一旦総括される。

« Car personne ici-bas // ne termine et n’achève ;
Les pires des humains // sont comme les meilleurs ;
Nous nous réveillons tous // au même endroit du rêve.
Tout commence en ce monde // et tout finit ailleurs.

なぜなら、誰も、この地上で、終わることも、完遂することもできないのだ。
最悪の人間は、最良の人間のようだ。
私たちはみんな目覚める、夢の同じ場所で。
すべてはこの世で始まる。すべてはあちらで終わる。

第17詩節で示されたように、私たちの後には別の人々が同じ場所で同じ行為を繰り返すかもしれないが、しかし彼らの後にはまた別の人々が現れ、同じ場所で同じ行為が繰り返されるだろう。
地上に留まる限り、時間は絶えず流れ続け、決して終結することはない。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」(『方丈記』)
この有名な一節と同じ認識が示されていることになる。

そこでは全てが相対化され、「最善(les meilleurs)」の人間と「最悪(les pires)」な人間、もしかすると上と下も、別の視点から見ると、同じようなものと見なされるかもしえない。

現実は一場の夢かもしれず、結局、違う場所で目を覚ましたと思っていても、同じ場所にすぎない。
おの世で始まるものはこの世では終わりを迎えることはなく、時間の経過に従って連続して行われていく。
私たちの後には別の人々が続き、その後にはまた別の人々が続くように。

全てが終わるとしたら、ここではなく、「別の場所(ailleurs)」でしかない。

この詩節では、これまでの詩節とは異なり、動詞は全て現在形で記され、「この世(ici-bas)」と「あちら(ailleurs)」の対比に基づくオランピオの二元論的世界観が開示されているのだといえる。(続く)

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