ジェラール・ド・ネルヴァル 「 オーレリア」 人間の魂の詩的表現 Gérard de Nerval Aurélia 1−9

第9章に入ると、これまで語られてきた挿話から10年後のエピソードに移行する。そして、「10年前の私」に起こったことを参照することで、過去と現在が重ね合わされながら、新しい出来事が展開していくことになる。

第9章

以上のことが、私の目の前に代わる代わる現れた映像だった。少しづつ穏やかな気持ちが心の中に戻って来た。そして、私にとっては楽園であったこの施設を後にした。ずっと後になり、宿命的な状況が病気の再発を準備し、かつての奇妙な夢想の途切れた繋がりを結び直したのだった。———

私は、宗教的な思想と関係する仕事のことを熱心に考えながら、郊外を散策していた。ある家の前を通りかかった時、一羽の鳥が誰かに教えられた言葉で話しているのを聞き、その混乱したおしゃべりになんらかの意味があるように思った。その鳥は、私が前に語った幻に出てきた鳥を思い出させ、不吉な予感に体が震えるのを感じた。もう少し先に行くと、長い間会っていなかった友人に出会った。彼は近くの家に住んでいた。そこで、自分の家を見せたいと言い、見て回りながら、私を高いテラスの上に連れていった。そこからは、広大な眺めを見ることが出来た。夕日の時間だった。鄙びた階段を降りている時、私は足を踏み外し、胸を家具の角にぶつけてしまった。起き上がる力は残っていて、庭の真ん中まで大急ぎで行った。死ぬほどひどく打ち付けたと思い、死ぬ前に、最後に夕日を一目見たいと思ったのだった。そのような瞬間がもたらす様々な心残りを感じながらも、その時、木々とブドウ棚と秋の花々に囲まれて死ぬことは幸せだと感じた。しかし、一瞬気を失っただけで、その後になると、自分の家に戻り、床につく元気はあった。高熱が私を捉えた。どの地点から落ちたのかを考えながら、私が素晴らしいと思った眺めは、墓地に面していることを思い出した。それは、オーレリアの墓のある墓地だった。そのことを本当に考えたのは、それを思い出した時だった。そうでなければ、転んだのを、あの眺めが感じさせた印象のせいにすることもできただろう。——— そのことで、私は宿命についてこれまで以上にはっきりと考えることになった。死が私を彼女と結び付けなかったことが、ますます残念に思われた。次ぎに考えたのは、私は彼女に値しないということだった。彼女の死後、自分が送った生活を苦々しく思い起こし、彼女を忘れたことではなく、そんなことは決して起こらない、安易な恋愛をして彼女の思い出を汚したことで、自分を責めた。その時、夢に問いかけてみようと思いついた。しかし、「彼女」の姿が、以前はあれほど頻繁に現れていたのに、今はもう夢の中に戻ってはこなかった。私が最初に見たのは、血まみれの場面の混ざった混乱した夢だけだった。宿命的な一族全てが、かつて見た理想の世界の中で激しく戦っているようだった。彼女はその世界の女王だった。以前に私を脅した「精霊」が、——— 「神秘の町」の高みに住む純粋な家族たちの住まいに入ろうとした時のことだ 、——— 私の前を通り過ぎた。彼の一族の人々の服と同じような、以前着ていた白い服ではなく、東洋の王子の服装をしている。私は彼を脅そうとして、飛びかかった。彼は静かに私の方に振り向いた。おお、なんという恐怖! なんという怒り! そこにあるのは私の顔だった。理想化され、拡大された私の姿全体だった。・・・ その時、私はあの男を思い出した。私と同じ夜に逮捕され、私の考えでは、二人の友だちが私を迎えに来た時、私の名前で交番から出て行った男だ。彼は武器を手にしていたが、その形をはっきりと見分けられなかった。彼に付き添っている友人の一人がこう行った。「それで、彼はあいつを殴ったんだ。」

注:
ここでネルヴァルの語っているのは、1851年の後半に彼の身の回りで起こった出来事であることが、手紙や作品の出版状況などから確認することができる。そのことは、思考の出発点は現実にあることを示している。別の言い方をすれば、現実を「知覚」し「認識」することは、「正常」に行われていることになる。
その上で、現実の「理解」あるいは「解釈」が付け加えられる。
例えば、鳥の鳴き声を「知覚」し、そこになんらかの「意味」を読み取る。友人の家の階段から足を滑らせて、胸を家具にぶつけたことを、オーレリアの死と関係付け、さらに、以前に見た夢の中である男に殴られそうになったことと関連させる。
そのようにして、合理的な思考に基づけば「偶然」と見なされることを、「宿命」として読み取る。
こうした思考を「異常」と見なすこともできるが、しかし、例えば占星術を考えてみると、星の動きから人間の運命を読み取る術であり、星と人間が関連していることが信じられる時代も存在していた。
そのように考えると、現実の「知覚」は同一だとしても、その「解釈」には様々な可能性があり、何が「正常」で何が「異常」かを決めるのは、それほど単純ではないことがわかってくる。

どのように説明していいのかわからないのだが、私の考えでは、地上の出来事は超自然界の出来事と対応していて、そのことは、はっきりと口で説明するよりも、「感じる」方がやさしい。(原注:それは、私にとって、転んだ時に受けた打撃を暗示していた。)だが、私でもあり、私の外にいる、あの精霊は、一体誰だったのだろう? 伝説に出てくる「分身」なのだろうか? それとも、東洋の人々が「フェルエール」と呼ぶ神秘的な兄弟なのだろうか? ——— かつて私は、ある騎士の物語に強い印象を受けなかっただろうか? その騎士は、一晩中、森の中で、見知らぬ男と戦ったが、その男とは彼自身だった。とにかく、人間の想像力が発明したものは、この世であろうと、別の世界であろうと、真実でないものはないと思うし、自分があれほどはっきりと「見た」ものを疑うことはできなかった。

注:
ここでは、ネルヴァルの世界観がはっきりと示されている。
彼にとって、論理的な説明よりも、「感じる」ことの方が納得しやすい。「知覚」だけではなく、「想像力」にも信頼を置く。従って、現実において「見える」ものと同様の真実性を、夢の中で「見える」ものにも見出す。
そのことは、「知覚」と「認識」の関係を問い直すことでもある。

ある恐ろしい考えを思いついた。人間は二重なのだ。「私の中に二人の人間がいるのを感じる。」とあるキリスト教の教父は記した。——— 二つの魂が協力し、一つの肉体の中に混合種を配置した。そのために、肉体自体、類似した二つの部分が、身体構造の全ての器官で再現されているように見えた。どんな人間の中にも、観客と演技者がいる。話す人と応える人がいる。東洋人たちはそこに二人の敵対者、善霊と悪霊を見た。私は善い方なのか?悪い方なのか? いずれにしろ、「もう一人」は私に敵意がある。・・・ 二人の霊が分離する状況や、そのようになる年齢があるのかどうか、誰が知るだろう? 二人とも物質的な親和性によって同じ肉体に縛り付けられながら、一方は栄光と幸福を約束され、他方は消滅か永遠の苦痛を強いられるのではないか? ——— 突然、宿命的な閃光が闇を横切った。・・・ もはやオーレリアは私のものではない!・・・ 別の場所で行われる式典と神秘的な結婚式の準備について話す声が耳に入ってきた。それは私の結婚式だったが、「もう一人」が友人たちだけではなくオーレリアの過ちを利用しようとしていた。私に会い、慰めるためにやってきた大切な人々でさえ、不確かさの虜になっているようだった。つまり、彼らの魂の二つの部分が私に対して分裂し、一方は愛情に溢れ、信頼していたが、他方は死に打たれているようだった。彼らの言葉には二重の意味があったが、それを自覚してはいなかった。というのも、私と違い、彼らは「霊の状態」ではなかったからだ。そうした考えが一瞬ではあるが滑稽に思われたのは、アンフィトリオンとソジのことを考えた時だった。しかし、そのグロテスクな象徴が別のものだとしたら、——— 他の古代の物語の中でのように、狂気の仮面の下に宿命的な真実があるとしたら、どうだろう。「それだったら」と私は思った。「宿命の精霊と戦おう。キリスト教の神に対してさえ、伝統と秘法の武器を手にして戦おう。闇と夜の中であいつが何をしようと、私は存在している。——— そして、あいつを打ち倒すための時間はある。私にはまだ、この世で生きる時間が与えられているのだ。」

注:
かつての夢の中で「私」に殴りかかった男が再び姿を現し、今度は「私」が彼に襲いかかろうとする。その時、彼が「私」の顔をしていることに気づくところから、「分身」がテーマになる。
この現象は、現代の精神医学では「カプグラ症候群」と名付けられている。それは、自分がよく知っている親しい人を,そっくりであるが本物ではない人によって置き換えられたと確信する現象、と説明され、フランス語のソジ(そっくりの人)という言葉を使い、「ソジーの錯覚」と呼ばれることもある。
ここで注目したいことは、「分身」が登場した時から、「私」の関心は「調和」から「敵対」へと一気に傾き、オーレリアは対立を引き起こす原因と見なされることである。


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