宮沢賢治 銀河鉄道の夜 ほんとうの幸

『銀河鉄道の夜』が読者に伝えるメッセージの中心は、「本当の幸せとは何か?」という問題に絞られる。

その問いに対して、その作品以前にも賢治がしばしば導き出したのは、世界を救うため、あるいは他者の幸福のためであれば、自分を犠牲にし、死に至ることもいとわない、というものだった。

例えば、「グスコーブドリの伝記」は自己犠牲の物語であり、主人公グスコーブドリは、イーハトーブの深刻な冷害の被害をくい止めるようとし、火山を人工的に爆発させ、高温のガスを放出させて大地を温めるため、最後まで火山に残り、自分の命と引き換えに人々の生活を救う。

しかし、自分を犠牲にして人あるいは世界を幸福にするという考え方は、現代社会を生きる人間には違和感がある。人のために死んだら、何にもならない。その上、近親者や友人達は深い悲しみに襲われるだろう。そんな幸福は、自己満足ではないのか?

ザネリを助けるために溺れてしまったカムパネルラは、銀河鉄道の列車の中で、「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸さいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」とジョバンニに問いかける。
そして、ジョバンニが、「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と応えると、カムパネルラの方では、「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」と言葉を続ける。

『銀河鉄道の夜』中で、この会話に対する明確な答えが提示されてはいない。
そこで、「自己犠牲」や「いいこと」には明確な答はなく、「いいこととは何かを考える続けること」が賢治の考える人間のあり方である、といった解説をすることもある。
こうした読解であれば、現代の読者にも受け入れられやすいに違いない。

文学作品は読者が自由に解釈でき、一つの決まった読み方はないとする考え方に従えば、「答えを問いかけ続けることが人間としてのあり方」といった理解でもいいのだろう。
しかし、賢治が本当にそう言いたかったのか、という問いの答えとしてはどうだろう。
というのも、『銀河鉄道の夜』には出版された状態とは別に三種類の原稿が残されており、全てに共通し作品の中心となる部分が、自己犠牲を主題にしていることがわかっているからである。

それはサソリのエピソードであり、難破した船で命を落とした女の子が、父親から聞いた話として語られる。

みんなの乗った列車が走る向こう岸に大きな火が見え、カムパネルラが「蝎(さそり)の火だな。」と地図を見ながら推測する。
その後で、少女が、「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」と続ける。
さらに、サソリはいい虫だと言う彼女に対して、ジョバンニは、「「蝎いい虫じゃないよ。(中略)尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ったよ。」と反論する。

そうした議論の後で、サソリがいい虫だということの証として、少女は父から聞いたサソリのエピソードを二人に語るのだった。
(『銀河鉄道の夜』を構成する文章は、しばしば句読点がなく、漢字と平仮名も不思議な使い分けをされているために、大変に読みにくいものになっている。読みやすくするために、句読点を入れ、平仮名を漢字にするなど、手を入れてもいいのだが、しかし、やはり賢治の文を尊重し、そのままの形で引用する。)

「(前略)むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎(さそり)がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押おさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺おぼれはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、

サソリが生きるためには、小さな虫を殺して食物にするしかない。それはどうしようもないことで、生きることは他の生物の犠牲の上に成り立っている。
そんなサソリがイタチに食べられそうになり、思わず逃げ出す。そして、食べられる前に井戸の中に落ちてしまう。そこで溺れ、死んでいくことになるだろう。

では、サソリはどんな祈りをするのだろうか?

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

サソリは、イタチに食べられても死ぬし、井戸の中で溺れても死ぬ。死ぬことにかわりはない。としたら、自分が他の虫を食べて生き延びてきたように、なぜイタチの餌になり、イタチの命を生かす役に立たなかったのだろう? 「むなしく命をすて」るのではなく、みんなの真の幸福のために体が使われた方が、幸せだったのではないのか?

こうした自己犠牲の思想を賢治が肯定していることは、イタチの体が「まっ赤なうつくしい火になって燃え」る美しい情景を生み出すことからも理解できる。
そうした「美」は、最初に「蝎の火」が見えた時、すでに描き出されていた。

川の向う岸が俄(にわか)に赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦こがしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。

また、サソリのエピソードの最後でも、「美」が強調される。

そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。

火の美しさは、サソリが「まことのみんなの幸」を望み、自分の命をイタチに捧げたかったと祈る心持ちから生まれてくるのだ。

賢治自身は、こうした自己犠牲が幸福に繋がると確信していたと思われるが、しかし現代の読者にはなかなか納得がいかないだろう。その違和感はどこから来るのだろう?

私たちは普通、個人は他者から独立した存在であり、一人の命は一回限りの貴重なものだと、自然に考えている。
それに対して、宮沢賢治の場合、詩集『花と修羅』の「序」で書かれているように、「私」とはひとつの「現象」であり、「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら」点り続ける電灯にすぎない。それら全ては、無限大の生命体、詩の言葉で言えば「あらゆる透明な幽霊の複合体」の一つ一つの現れと見なされる。
『銀河鉄道の夜』で描き出される天ノ川の「すきとおった」水の様子は、その複合体を美しく描き出したものにほかならない。
https://bohemegalante.com/2022/01/19/miyazawa-kenji-monde-transparent/

その結果、一般的に考えれば、一人の人間の死は絶対的な終わりとなるのだが、賢治の世界観では、死は透明な複合体に戻ることであり、別の時にはまた別の姿になる過程の一つにすぎない。
そこでは、一つの死は全体的生の一部であり、自己犠牲という場合の「自己」の概念が、一般的な考え方とは違っている。
こう言ってよければ、「まことのみんなの幸」はまことの私の幸でもあり、私の幸がみんなの幸でもある。

賢治自身、こうした幸福感がすぐに人々に理解されるとは考えていなかったに違いない。
少女たちが列車を降り、カムパネラと二人だけになったジョバンニは、再び「ほんとうの幸」を話題にする。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙なみだがうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。

ジョバンニは、「あのサソリ」のように、「みんなの幸のためならば」、自分を犠牲にしてもかまわないと言い、カムパネルラもそれに同意する。
しかし、そう言いながらも、本当の幸いが何かは分からないと、その点でも声を合わせる。
頭ではわかっているけれど、しかし、いざ自分が死ぬとなれば、それは辛いことだし、家族も深く悲しむことだろう。

カムパネルラが列車の中から姿を消し、ジョバンニが夢から覚める直前に置かれたこの会話は、宮沢賢治が、自我や死に関する一般の人々の考え方を理解した上で、「ほんとうの幸」を作り出すための彼の思想が受け入れられにくいことも知っていることを示している。
誰もがすぐに、「みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」と思ったりすることはない。
賢治もそのことには自覚的であっただろう。

そこで彼は、無理にサソリの祈りを読者に押しつけるのではなく、ジョバンニが夢から覚めた後の現実世界でも、サソリが美しい輝きを持つことに示すだけにしている。

ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱(ほて)り頬(ほほ)にはつめたい涙がながれていました。
 ジョバンニはばねのようにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熱したという風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかりまっ黒な南の地平線の上では殊にけむったようになってその右には蠍座(さそりざ)の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないようでした。

真っ暗な空の上できらめく赤い星。
夢の世界だけではなく、現実の世界でも、サソリ座は美しく輝いている。
「私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」
この祈りを実現することが、美しいことなのだ。

その後、ジョバンニは、現実の世界で、カムパネルラが友人のザネリを救うために、命を落としたことを知る。
カムパネルラは、すでにサソリの祈りを実践していた。
二人はその点で違っているからこそ、列車に乗ってずっと一緒に行くことができなかったのだ。

物語の最後、ジョバンニは、夢を見る前には手に入れることができなかった牛乳をもらうことができ、病気の母に届けるため、「一目散に河原を街の方へ走」っていく。
彼が今できることはそれだけかもしれない。しかし、夢を見る前に望んでいた母のためのおつかいを実行することはできた。

そのジョバンニは、サソリの祈りを実践したカンパネルラのように天上に残ることはできないし、彼と別れざるをえないけれど、「一時間半で帰ってくるよ。」という母との約束は守ることができた。
しかも、その間に、サソリが悪い虫ではなく、身を美しく焼き、闇夜に輝く存在であることも知った。

こうした賢治の言葉をたどりながら、それでも、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いを最終的なメッセージとして読み取るのか、「どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。」というサソリの悔いに心を動かすのか、それは読者自身が決めることになる。
『銀河鉄道の夜』は未完の状態で残され、その選択の余地も読者に残されている。

しかし、賢治の世界観を考え合わせると、どうしてもサソリの祈りが賢治のメッサージだと考えざるをえない。
賢治にとって、「私」は無限の生命体の束の間の現象でしかなく、「死」は終わりではなく、一つの移行の段階にすぎない。
そうした考え方に立てば、みんなのために自分を犠牲にすることは、みんなの幸だけではなく、自分の幸でもあるからである。そして、それが「ほんとうの幸」なのだ。

宮沢賢治の世界を支える柱となる思想を理解していれば、彼のメッセージに最初は違和感を感じるとしても、それが実現する世界の美しさを通して、徐々に親しいものとなってくるのではないだろうか。


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