ギュスターヴ・フロベール 新しい現実の創造 1/4 フロベールの生涯と時代精神

ギュスターブ・フロベールは、シャルル・ボードレールが詩の世界で行った革新を、小説に関して行った作家だといえる。
二人は1821年に生まれ、出版活動を本格的に開始したのは1850年代。そして、1857年には、社会の風紀を乱すという理由で、フロベールは『ボヴァリー夫人』が、ボードレールは『悪の華』が、裁判にかけられた。

そうした共通点に以上に大きな意味を持つのは、「新しい詩」、「新しい小説」の第一歩を記したこと。
フロベールに関して言えば、「文体=文章」にこだわり、韻文と同じレベルの構築物にまで散文の完成度を高めることで、現実世界に従属しない「新しい現実」を作り出そうとした。

通俗的な解説の中で、フロベールは、19世紀フランスの社会と人間をありのままに描く写実主義(リアリズム)の代表的な作家と定義されることがある。フロベールがリアリズムを嫌悪していたにもかかわらず、彼の意に反するレッテルが貼られ続けていることは、彼の言葉が生み出した「新しい現実」が、実際の現実を再現した写実よりも、さらにリアルであることを示している。

ギュスターヴ・フロベール
誕生から『ボヴァリー夫人』執筆前まで

ギュスターヴ・フロベールは、1821年12月12日、ノルマンディ地方の州都であるルーアンで生まれた。父親はルーアン市立病院の院長であり、裕福なブルジョワ階級に属する家庭だった。

彼は早くから書くことに興味を持ち、9歳の頃には友だちに、「家によく一人の女性が来ては、いつもぼくたちに馬鹿げたことを話す。ぼくはそういった馬鹿げたことを書くんだ。」と打ち明けたという逸話が残っている。

1832年2月からは、ルーアン王立学校に寄宿生として入り、1839年に学校を退学するまで十代の大半をそこで過ごした。

1834年には友人と共同で「芸術と進歩」という手書きの雑誌を作って作品を発表するなどし、中学・高校時代にすでに数多くの原稿を書き綴っていた。
ギュスターブ少年が手がけたジャンルは、哲学的物語、幻想小説、歴史劇、生理学・博物学的エセー、中世風の神秘劇、自伝など、多岐に及んでいる。

こうしたジャンルは当時主流だったロマン主義的なものだと言えるが、そうした中で、とりわけ興味深いのは、高校生のフロベールが、誰もが意図せずにふと口にしてしまう型にはまった言葉に満足するような人物を作り出し、ブルジョワ階級の典型として揶揄していることである。
9歳の子どもが「馬鹿げたこと」と捉えたのは、その「紋切り型の言語表現」だったに違いない。そして、それに対する批判や皮肉はフロベールの生涯のテーマとなり、『紋切り型辞典』や未完に終わった『ブヴァールとペキュシェ』を貫く根本的な思想になっていく。

1836年には、彼の生涯で大きな意味を持つ事件が起こる。
14才のフロベールは夏休みの間、ノルマンディー地方の海岸にあるトルヴィルで過ごした。そこでシュレザンジェ夫妻に出会い、妻のエリザに一方的な激しい恋心を抱く。その経験は、自伝的作品である『狂人の回想録』や、1840年代から何度も書き直され、1869年に出版される『感情教育』に色濃く反映していると言われている。

1839年、フロベールは、高校の先生に抗議するなどして、学校から反乱分子と見なされる。そのために学校を退学し、翌1840年のバカロレア試験の準備を一人で進める。そして、バカロレアの合格後、パリ大学で法律の勉強を始めた。
しかし彼の気持ちは法学ではなく文学に向き続け、パリでの交友も芸術家や文学者が多く、ロマン主義の主導者であるヴィクトル・ユゴーや生涯の友人となるマクシム・デュ・カンと出会ったり、彫刻家のプラディエや、ノルマンディで出会ったシュレザンジェ夫妻とも交流した。

そうした中で、1844年、ノルマンディ地方のポン・レベックに向かう途中で癲癇の発作に襲われるという出来事があった。それ以降、パリでの勉学を放棄し、ルーアン近くのクロワッセにある所有地で暮らし始める。
さらに、1846年、父親の死により高額の遺産が入ると、それ以降は創作活動に専念した。

その後、20年代前半から1880年に58歳で亡くなるまで、人生の大部分の時間をセーヌ河湖畔にあるクロワッセの館で暮らした。
1848年に勃発した2月革命の様子をパリまで見に行ったのも、クロワッセからだった。
1849年に『聖アントワーヌの誘惑』を書き上げ、友人であるマクシム・デュ・カンとルイ・ブイエの前で四日間かけて朗読し、二人からロマン主義的な熱狂を非難され、「そんなものは暖炉に投げ入れ、もう二度と口にしない方がいい。」と決定的なダメ出しをされたのも、クロワッセでのことだった。

『聖アントワーヌの誘惑』朗読事件の後、フロベールは、マクシム・デュ・カンと連れ立ち、中近東の旅行に出発する。
その旅程は、当時の地中海沿岸の国々を巡る旅の定型に従ったものだった。マルセイユから出発し、最初に向かったのはエジプト。その後、現在のパレスチナ、シリア、トルコの各地域を周遊し、ギリシャからイタリアを通ってフランスに戻ってきた。
1849年10月に出発してから1851年6月に帰国するまでの21ヶ月の体験は、帰国後に執筆された『東方紀行』に記されている。

その旅行から戻った後、1851年9月から『ボヴァリー夫人』の執筆が開始される。
小説のテーマは、『聖アントワーヌの誘惑』を完全否定した友人たちから示されたもので、バルザックのような日常生活の身近な話題を思わせるものとした。
その意味では、1840年代後半に画家ギュスターブ・クールベが展開し始めた写実主義(リアリズム)絵画の動きと連動しているようにも思われる可能性もあった。

以上のように『ボヴァリー夫人』執筆以前までのフロベールの人生を素描してみるだけで、彼がロマン主義に熱中しながらも、ある一つの時代にごく当たり前に流通する紋切り型を鋭く感じ取り、その違和感を通して彼自身の視点から社会や人間を捉えようとした姿が浮かび上がってくる。

19世紀の時代精神

合理主義精神と物質文明

19世紀前半のフランス社会は、1789年の大革命と、その後に続いたナポレオン帝政の影響を大きく受けている。
それは単に政治や経済の次元だけではなく、人々の思想や感受性とも関係し、文学、絵画、音楽といった芸術の方向性を作り出すベースになっている。

非常に大まかに言えば、18世紀末の革命以前は王政の時代であり、ブルボン王朝の王族や彼らを取り巻く貴族たちの支配の下で、社会的な地位は血統によって決まっていた。
同様に、キリスト教信仰の中で、善悪などの価値観も神によって定められていると考えられていた。
人間の理性が検討し証明するのではなく、全てが先験的に定まっている世界観が支配だったといえる。

そうした中で、18世紀は「啓蒙の世紀」と呼ばれ、理性の光で人間の無知の闇を照らし、科学的な検証によって正しい答えを導き出そうとする思想が形成された時代でもあった。
人間の持つ知識を集大成し、一般の人々に伝えることを目的とする『百科全書』の誕生は、そうした思想の象徴に他ならない。実際、『百科全書』とは、当時の最先端の知識の集積であり、「技術と学問のあらゆる領域を参照し、自分自身のために学ぶ人々を啓蒙すると同時に、他人の教育のために働く人々の手引き」として企画されたものだった。

その百科全書派の思想が、フランス革命の精神の下地となっていく。
フランス革命が実現しようとしたのは、法の下の平等、自由な私的所有=経済的な自由、権力の分立と人民主権など。王と神を頂点として予め序列が固定している世界観から、理性に基づき実証的な検討をする中で個々の事象を判断する世界観への転換だった。

そうした時代精神の中で、家柄ではなく、個人の能力によって経済力や社会的な地位が決まる社会が形成された。
王政を打倒した後ナポレオンの帝政が続くのは、単に王から独裁者へと権力が移行しただけのことのように思われるかもしれない。しかし、ナポレオンはコルシカ島生まれの軍人であり、革命政府の混乱の中、彼自身の能力によって皇帝の地位を築き上げたという点において、新しい時代精神の体現者だった。

皇帝ナポレオンは侵略戦争を押し進め、ヨーロッパ全土に戦争の悲惨を撒き散らしたという意味で否定すべき存在であることは疑いを入れない。しかし、その一方で、合理主義精神に基づき、ナポレオン法典に象徴される法制度を整え、フランス国内だけではなく、支配下に置いた各国で農奴制を廃止し、憲法と議会を置き、行政や司法の制度を確立するといった改革を行ったことも否定できない。

合理主義精神は、政治的な次元だけではなく、経済的な次元においてはさらに甚大な影響を人々の生活に与えることになった。

経験的な事実に基づいて現実の検証が行われるようになると、科学的な知識が増大し、いわゆる産業革命が進展する。
その中心となるのは蒸気機関の開発による動力源の刷新であり、機械工業が成立し都市に労働者が流入する。また、蒸気船や鉄道が発明され、都市と都市を短時間で繋ぐ交通網が整備され始めた。
そうしたことは、当時の人々に「文明の進歩」を実感させる要因となったことだろう。

以上のような政治的、社会的現実を背景にして、実証主義と呼ばれる思想も主張されるようになる。18世紀の啓蒙思想を19世紀的に焼き直したものと言ってもいい。
実証主義とは、先験的あるいは形而上学的な推論を排除し、実験に基づいて正当化されたき経験的な事実を積み上げることで、真実に到達しようとする思想といえる。
19世紀前半に登場した歴史学においては、厳密な史料批判を行い、事実のみに基づいた歴史記述を通して、科学的・客観的に歴史を把握しようとした。

このように、18世紀末の革命後のフランスでは、合理主義的な思考の下で、物質文明の発展を目指し続ける人間の精神が形成されていった。
それを象徴するのが、19世紀の半ばから盛んに開催される万国博覧会だった。
1851年のロンドン万博を彩るクリスタル・パレスは鉄骨とガラスで作られた巨大な建物であり、1889年のパリ万博では鉄の化け物と呼ばれたエッフェル塔がその異様な姿を現した。

ロマン主義的感性

これまで述べてきたように、19世紀前半には、科学技術の進歩によって物質文明が進展し、資本主義経済の発展に伴って資本を有するブルジョワ階級が社会の中心を占めるようになっていった。
そうした中で、芸術に関しては、合理主義精神に反する動きが大きな流れを形成する。アンチ合理主義、アンチ物質主義、それがロマン主義精神の根本にある。
ロマン主義的な感性を、物質と心を対比させ、「目に見える物」よりも「目に見えない心」の方が本質的だとする精神性由来すると考えると、21世紀になった現在でも理解しやすいだろう。

人間の内面に価値を置く思想は、18世紀後半の思想家ジャン・ジャック・ルソーによって明確な形で表現されるようになった。
彼は迫害妄想らしいものに脅かされ、社会から孤立し、自然を前にした夢想の中で絶対的な幸福を見出した。幸福は物や社会的な地位によってもたらされるのではなく、夢想している自己の内面の状態であり、人間にとって物ではなく心に価値があると主張したのだった。

ルソーの思想はイギリスやドイツのロマン主義の萌芽となり、1820年以降になると、古典主義と対立する形でフランス・ロマン主義の運動が盛んになった。

ラマルティーヌは「湖」という詩の中で、幸福な過去が現在では失われ、決して取り戻すことができないことを悲しみ、過去の愛に涙することで、ロマン主義的な抒情を強く表現した。
その際、不在の過去は思い出によってのみ存在し、思い出は心の中にあることを考えると、ロマン主義的抒情が人間の内面の表現であることが理解できる。

内面の価値をより明確にしたのは、19世紀最大の詩人ヴィクトル・ユゴーである。
ユゴーは、人間の内面とプラトンのイデアを結び付け、目に見える現実世界を超えたイデアを人間の肉体の内部に位置させることで、目に見えない心に最大限の価値を置くという詩のあり方を提唱した。
そして、数多くの詩や演劇を通して、フランス・ロマン主義を先導した。

1827年に出版された芝居『クロムエル』の「序文」は、しばしばフランス・ロマン主義の宣言書と言われる。
その中でユゴーは、芝居とは「焦点を集中させる鏡」だと言う。焦点を集中させるとは、現実を描く場合にも、忠実にそのままを描くのではなく、対立する要素をより劇的に激しく対立させるという意味だと考えられる。
そのことは、美を表現するために美だけを描くのではなく、美の横に醜を配置することで、より崇高な美を生み出すことにつながる。
そうした「グロテスクの美学」を体現するのが、小説『ノートルダム・ド・パリ』のカジモドとエスメラルダ。二人による美と醜の共存が、物語が展開する中世に置かれたノートルダムの美を崇高なものにする。

他方で、スタンダールは「ラシーヌとシェークスピア」というロマン主義のマニフェストを公けにし、古典主義の規則から解放され、自分たちの時代の社会を取り上げ、その時代に相応しい作品を作ることを提唱した。
『赤と黒』には副題として「1830年の年代記」と書かれているが、その中ではまさにスタンダールの時代の社会が描き出されている。実際、ジュリアン・ソレルは、ナポレオンを崇拝し軍人(赤)としての栄達を夢見、ナポレオン失脚後は、聖職者(黒)として出世をもくろみ、社会の上層階級に入り込む。
その中でスタンダールが焦点化したのは、ジュリアンの社会的な上昇ではなく、レナール夫人への愛である。もう一人の愛の対象であるマチルドは、レナール夫人との対比によって恋愛の崇高さを際立たせるという意味で、ユゴー的なグロテスクの美学に基づいていると考えることもできる。
そうした構図に基づいたスタンダールの詳細な恋愛感情の分析は、『赤と黒』の焦点が人間の内面に当てられていることを示している。

文学を離れ、絵画や音楽に関しても、ドラクロワの絵画を目にし、ショパンのピアノ曲に身を任せるだけで、激しく対立する感情が抒情的な美を生み出すことを感じることができるだろう。

肉体がバリアーとなり目では見ることができない人間の内面=心に価値を置くことで、芸術家たちは物質文明が支配的な現実社会の中で、片隅に身を置く存在になった。貧乏ながらも自由で気ままな彼らの生活の様子は、アンリ・ミュルジェールの『ボヘミアン生活の情景』の中で生き生きと描き出され、ジャコモ・プッチーニの作曲したオペラ『ラ・ボエーム』によって現在でもよく知られている。

そうした芸術家の生活は、かつて王や貴族、教会、大商人をパトロンとし、彼らの注文によって作品を制作していた芸術家が、市民社会の中で独立した存在になり、彼ら自身の夢を表現するために創作活動を行うようになったことの反映でもある。

ロマン主義的な感性は、日常の生活を覆う物質主義とは反対の方向に働き、崇高な精神性の表現を目指す美学を生み出したのだった。

フロベールの感性

フロベールはボードレールと同じ1821年生まれ。
彼らの生まれ育った場所は違うが、フランス・ロマン主義の誕生と同じ時代に生まれ、ロマン主義の激動の中で青春時代を過ごしたということができる。その痕跡は彼らの作品にはっきりと刻まれている。

フロベールが10代から20代に書いた原稿はロマン主義的な熱気に溢れたものであり、そのことは、1849年に朗読した『聖アントワーヌの誘惑』に関して、友人二人からロマン主義的な熱狂を非難されたというエピソードからも理解できる。

1857年前後に書かれたフロベールの手紙からは、自分をロマン主義者と自覚している言葉が散見される。
例えば、1830年の世代を代表するロマン主義詩人であったサント・ブーブに向かい、1830年という素晴らしい世代に連なりたいとか、自分は熱狂した古いロマン主義者だと書く(1857年5月5日)。

『悪の華』を送ってもらったお礼に書いたボードレール宛の手紙では、その詩集の中では「ロマン主義を若返らせる」方法が見出されると記し、詩集を賞賛する言葉とする(1857年7月13日)。

しかし、そうした自覚は、決してロマン主義的精神や表現をそのまま認めることにはつながらない。
フロベールは医師の家に生まれ、科学精神、実証主義精神も持ち合わせていた。そのことは、小説を執筆する際には、膨大な資料を読みあさり、ノートを取り、現地調査を実地したことからも見て取ることができる。

例えば、第1次ポエニ戦争後の古代カルタゴを舞台に展開する歴史小説『サラムボー』の場合には、ローマ共和制時代の歴史家ポリピオスを始めとする数多くの歴史書を風俗に関する文献を調べると同時に、北アフリカのチュニスを訪問し、その成果を小説の中に取り入れた。
その小説は出版後、当時の社交界でカルタゴ風の服が流行するといった現象さえ生み出した。そのことは、フロベールの小説世界がどれほどリアルな印象を生み出すのかを証明しているのだが、そのためには歴史家の研究に匹敵する作業が必要だった。その点においてフロベールは、実証主義的な精神の持ち主でもあった。

このように、フロベールの中には、一方には18世紀から続く合理主義精神があり、他方には彼の青春時代を色濃く染めたロマン主義的感受性が共存していた。
そして、それらの矛盾する二つの要素が同時に働くことで、フロベールはどちらに対しても「皮肉」な立場を取り、「紋切り型」を批判する姿勢に繋がったと考えていいだろう。

そうした批判精神は、10代の頃からすでに発揮され、すでに記したように、「誰もが意図せずにふと口にしてしまう型にはまった言葉」を語る人物を作り出し、ブルジョワの典型として揶揄したことからも見て取ることができる。

出版されないままで終わった『紋切り型辞典』は、ある話題について、いかにも誰もが言いそうな言葉が集められ、フロベールによる定義は一言も含まれていないという。
そして、「一度読んだ後では、そこに書かれている文の一つを自然に言ってしまうことが怖くて、話す勇気がなくなるかもしれない。」とフロベールはある友人に書いている。

この言葉は、18世紀の『百科全書』に象徴され、合理主義精神に基づき、知識の総合と普及を推進する動きに対して、距離を置く姿勢を示している。
19世紀前半には、『世界人物伝』『会話と読書の辞典』『社交界に集う人々の百科事典』など、数十巻に及ぶ百科全書的な知識の集積が出版された。1863年からは、ピエール・ラルースによる『19世紀世界大事典』の出版が開始され、膨大な知識を誰でも手軽に参照できるようになる。
そうした書籍にちょっと目を通せば、どんなことに関しても知ったかぶりをすることができる。その結果、付け焼き刃の知識を振り回す人々が、社会の至る所に出てくる。
フロベールはそうした人々の俗物根性を皮肉ったのだった。

ロマン主義的な感性を持ちながら、ロマン主義に対して批判的な姿勢を取る。歴史学的な文献調査を徹底的に行いながら、合理主義精神に基づく知の集積に皮肉を飛ばす。
ギュスターヴ・フロベールの作品は、こうした二重性を土台とし、その上に組み上げられている。


フロベールの作品
『ボヴァリー夫人』生島 遼一訳、新潮文庫。

『感情教育』(上・下)太田浩一訳、光文社 、古典新訳文庫。

『聖アントワヌの誘惑』 渡辺一夫訳、岩波文庫。

『紋切り型辞典』小倉孝誠訳、岩波文庫。

『フローベール ポケットマスターピース』堀江敏幸編集、集英社文庫ヘリテージシリーズ。(『11月』『ボヴァリー夫人』(抄)『サランボー』(抄)『ブヴァールとペキュシェ』(抄)、書簡選)

参考

アルベール・ティボーデ 『ギュスターヴ・フロベール』 戸田吉信訳、法政大学出版局。

フィリップ・ヴァン チーゲム『フランス・ロマン主義』辻 昶 訳、白水社、文庫クセジュ。

ディドロ『百科全書―序論および代表項目』桑原武夫訳、 岩波文庫。

アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』辻村永樹訳、光文社古典新訳文庫。

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